出頭命令
残暑もすっかりなくなり、そろそろ暖房が欲しくなる季節となった。上裸で(もちろん日和たちはシャツ一枚着る)走る朝の間稽古も、だんだん憂鬱なものへと変わっていく。先任期が言うには、たとえ雪が降ろうとも構わず裸で外を走るということだから、まだ今のうちは可愛いほうだ。
この時期、後任期たちはもうすぐ行われる球技大会にむけてサッカーの練習に励んでいる。勿論区隊対抗で絶対に負けるわけにはいかないのだから、練習の時から皆真剣だ。
「航友会でサッカーを選んでる人は、こういう時有利だよね。月音って初心者だったはずなのに、私なんかよりずっと上手いもの」
話ができる程度の近い距離でパス練習をする日和と月音。サッカーなんてしたことない日和には、ボールの蹴りかたから分からない。
「いやいや、日和ちゃんは運動神経いいから、すぐに私を追い越すと思うよ? それにね、上手いっていうのはああいう人を言うんだよ」
月音が目を向けた方向には、器用にリフティングをする学生が一人いた。日和と同じ4区隊の石井。幼い頃からサッカーボールを追いかけ回し、高校では全国大会のピッチにも立ったというのだから、その実力は折り紙付きだ。
素人の日和とは最早別次元の強さ。他の区隊にもサッカー経験者はいるが、きっと石井には敵わないだろう。彼が同じ区隊で良かったなとつくづく思う。
「まだ私達は一回も勝ってないわけだからねぇ。そろそろ勝ちたいよね」
やや強めにボールを蹴る月音。駅伝競技会と水泳競技会では3・6区隊、銃剣道大会では5区隊が勝利を納め、まだ4区隊は一度も勝ったことがない。ここで負けてしまえば「弱小4区隊」というイメージが定着してしまうだろう。区隊長もそれだけは避けたいらしく、今回の球技大会にはかなり気合を入れている。その分、負けてしまった時にどんな仕打ちが待っていることか、考えるのも怖かった。
「勝ちたい、じゃ駄目なんだよ。勝たなきゃ駄目なんだ」
話が聞こえたのか、石井が日和たちの所にやって来た。
「それくらいの意気込みでいかなきゃ、勝てるものも勝てやしないよ」
「私たちとしては石井にかなり期待しちゃってるんだけど、勝算はあるの?」
どうかなと石井は他の区隊の練習に目を向ける。案外、自信満々というわけではないようだ。
「素人が殆どだから、結局体力勝負になる気がするんだよな。そうなると全然予想がつかない」
「技術で差をつけるのは難しい?」
「そういうこと。それでも勝つための作戦をしっかり考えておくから、坂井たちは今まで通り練習を頑張ってくれ」
「うん、分かった…っと!」
大きく逸れたボールが日和のところへ飛んでくる。それを石井が上手にトラップし、練習中の学生に蹴り返した。無駄のない動きで、流石は経験者だなと日和は息を漏らす。
「やっぱり上手いねぇ。石井くんって高卒入隊だよね?」
「ああ、そうだよ」
「大学とかでサッカーを続けようとは思わなかったの?」
「色んな人に薦められたし、大学から声もかかってたけどな。けど…」
「けど?」
「サッカーはもういいかなって。ずっとそれだけをやってきたけど、そろそろ別のこともやってみたいって思ったんだ。その選択肢の一つがパイロットだったってわけ」
そういう理由でこの世界に入る人もいるのか、と日和は意外そうに石井を見つめた。真剣に「空を飛びたい」と考えている人だけが航学には集まっていると思っていたが、実のところそうでもないのかもしれない。
「なんか、もったいないなぁ…」
「そうでもないさ。これまでの経験は今こうして生きてるわけだし、
「結局、遊びだったってことだろ」
と、たまたま通りかかった沢村が低い声色で呟いていく。
「真剣にやってる奴からすればいい迷惑だったろうな」
「俺の人生だ。文句あるのか?」
「サッカーについてとやかく言うつもりはないけど、もし遊び半分で
「待てよ」
そのまま立ち去ろうとする沢村を、石井が肩を掴んで止める。一気に空気が険悪なものになり、周囲の同期たちも異変に気付き始めた。
「そんなに言うなら、お前はどうなんだ? 金が欲しけりゃ、パイロットじゃなくても良かっただろ?」
「俺にできる、一番稼げる職種だ。飛びたいっていう気持ちに嘘はないぞ」
「じゃあ野球はどうなんだよ。お前、甲子園に出れるくらい活躍したんだろ? 一体どんな気持ちで練習してきたっていうんだ」
「金にならないから辞めたまでだ。俺はお前ほど才能も無かったから、推薦とかもされなかったからな。プロになれる可能性を捨てた奴には分からんだろうよ」
「お前…!」
石井が拳を握る。殴るか、と沢村が身構えた時だった。
「いい加減にして!」
日和だ。二人に割って入り、無理矢理石井の拳を下げさせる。
「沢村、ちょっとおかしいよ! いや、いつもおかしいけどさ…今日は一段と! 石井に喧嘩を売ったところで、なんの得にもならないよ!」
日和が沢村の肩を掴んだ抑え、それを見た月音が石井の手を引く。とにかく今は二人の距離を離したほうがいい。大事にするとかなり面倒なことになる。
だが、少しだけ遅かった。
「なにやってんだお前らぁ!」
4区隊助教の青木2曹が怒鳴り、学生全員が背筋を伸ばす。頭に血が上っていた石井も一瞬で冷静になり、沢村は舌打ちをして気を付けをする。
「報告しろ! 始めたのは誰だ! なにが原因だ!」
学生たちの間をのしのしと歩き、日和たちの元れやってくる青木2曹。これは面倒なことになるぞと、日和は聞こえないようにため息を吐いた。
「石井と…沢村に坂井か。なにか事が起こると、いつもお前らは渦中にいる気がするな?」
「そんなつもりはないんですけど…」
「まぁいい。お前ら課業後に学生隊に出頭しろ。中隊長には俺から軽く報告するからな。分かったら練習再開! 散れ、お前ら!」
事態はなんとか収まったものの、日和たちにとっては最悪の結果となった。恨めしそうに沢村を睨むが、相変わらず彼は全く悪びれる様子はなかった。
「帰ります!」
夕方の命令受領を終えた後任期当直と4区隊当直が学生隊から出てくる。なにを言われたのかは分からないが、かなり疲れた表情だ。
「中隊長、怒ってた?」
廊下で待機していた日和が申し訳なさそうに訊ねると、当直たちは揃ってうなだれた。
「かなーり。頼むよー、機嫌損ねると俺たちの勤務にまで影響してくるんだからさぁ」
「覚悟して入ったほうがいいぞ。てか、坂井は本当は関係ないんじゃねぇの?」
「仕方ないよ、呼ばれたんだし…」
お気の毒、と言い残して去っていく当直たち。同情するなら誤解を解いてくれと言いたいが、余計に話がこじれるだけだ。
「指揮とってよ。元はと言えば沢村が悪いんだから」
「うるせぇな、分かったよ」
入ります! という沢村の大声で学生隊に入る。と同時に部屋中の基幹隊員たちが針のように鋭い目線を飛ばしてきた。かつてこれ以上のプレッシャーを受けながら入室したことがあっただろうか。
学生隊にいる時の中隊長はいつも不機嫌そうな顔をしているが、今日は演技の入っていない、本気モードで待ち受けていた。トントンとボールペンで机をつつく。
「来たか、問題児ども。話は聞いてる。一体誰が原因だ?」
「沢村学生です」
即答する石井。容赦ないが、実際その通りなのだから仕方ない。
「先に手を出したのは?」
「石井です」
「手は出してません」
ほぼ同時に答える沢村と石井。二人の板挟みとなっている日和としてはたまったものじゃない。
「そもそもだなぁ、課業時間中だってのにベラベラ喋ってるからこういうことが起こるんだろうが!」
3人をバインダーで叩いていく中隊長。乾いた音が学生隊に響き、他の区隊長らが失笑する。
「まあ人間だからな、たまには同期間で言い争いにもなるだろう。そこは否定せん。存分に意見をぶつけ合えばいい。だが時と場所を考えろ! 時と場所を!」
「すいませんでした!」
日和たちは揃って頭を下げる。本当に反省しているのかどうかは謎だが、とにかく形だけでも謝らなければこの場を切り抜けられない。
「で、どうすれば示しが着くと思う、助教?」
「
外禁。航空学生にとって死刑宣告のような言葉。私物も置けず、娯楽なんてなにもない基地内。休日の楽しみといえば外出以外にないというのに、その権利を取り上げられてしまうなんて悪夢でしかない。
しかし中隊長はそれだけでは満足しないようだ。
「ただの外禁じゃ足りんなぁ。俺が思うに、お前たちには話し合いが足りてないんだよ。コミュニケーションな?」
「はぁ…」
彼にコミュニケーションを求めるのか、と日和は沢村の顔を見る。相変わらず、人を寄せ付けない不機嫌な表情をしている。
「というわけで、外禁中のお前たちには共同作業として環境整備を命ずる。了解か?」
「環境整備、ですか?」
頷く中隊長。要は公共場所の清掃作業ということだろう。
「最近グラウンド周りの雑草が気になっててなぁ。お前たちが主として使う場所なんだから、この際綺麗にしてくれ。分かったら復唱!」
「はい! 沢村学生以下3名は、外出を自粛して環境整備作業を実施します!」
宜しい、と3人は学生隊を追い出される。思いの外あっさりと用件が終わってしまったので、もしかしていいように利用されているだけでは? と思ってしまう。
それにしても外禁は痛い。沢村はどうか分からないが、日和と石井は非常に気が重たかった。
「くっそ、なんで俺まで…沢村が悪いんだろうに」
「もうやめよう。争うだけ無駄なんだから」
「気分悪ぃ、先帰るわ…」
ぶつぶつと文句を言いながら石井は隊舎に戻っていく。群庁舎一階廊下には沢村と日和だけが残され、学生隊からは終礼の声が扉越しに聞こえてきた。
「悪いと思ってるなら、素直に謝ったほうがいいと思うよ」
「この話はもう終わりだろ。ほっとけよ」
確かに、中隊長から外禁という罰を与えられたことでこの一件は終結した。
しかし今日の沢村はいつもに増して様子がおかしい。同期に喧嘩を売るのはいつものことだとしても、今日ほど露骨に敵を作るようなことを言うのは初めてだ。
何かが違う。
石井とは真逆の方向に立ち去る沢村を、日和は鋭く見つめていた。
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