雨の日の外禁
「じゃあ、行ってくるね。差し入れ買って帰るから」
「気にしなくていいって。行ってらっしゃい」
私服姿で部屋を出ていく月音を、日和は作ったような笑顔で見送った。
せっかくの休日だというのに、中隊長から外禁を言い渡された日和は基地内で大人しくしている他ない。おまけに環境整備作業という罰ゲーム付きだ。
窓の外を見てみると雨が降っており、とことんついてないなと肩を落とす。予報ではこれからさらに雨脚が強くなるとのことなので、晴れるのを待つよりは早めに終わらせてしまったほうが賢明だろう。
濡れてもいい体育服装に着替え、雨衣を持って男性隊舎へ。同じく外禁となっている沢村や石井も連れて行かなければならない。
(沢村か…)
日和は表情を曇らせる。今回の騒動の原因である沢村。これ以上厄介事を起こさなければいいのだが、先行き不安でしかない。
「って、あれ?」
待ち合わせ場所にしていた当直室前に来たのだが、そこには沢村しかいなかった。
「石井は?」
「雨も降ってるしな、来なくていいって俺が言ったんだ。もともと俺が原因なわけだし」
「ふぅん?」
珍しく沢村が自分の非を認めている。彼はいつも自分勝手で、同期と衝突することもしばしばだが、その分自分の言動に絶対の自信と責任を持っている。確かに日和は「謝ったほうがいい」と沢村に言ったが、それで素直に頭を下げるような彼ではないはずだ。
「お前も来なくていいぞ。俺一人でやるから」
「いや、いいよ」
明らかにいつもと様子が違う。だからこそ、放っておいてはいけない気がした。
「私はもう着替えちゃったしさ。それに、二人でやったほうが早いよ?」
「…好きにしろよ」
二人は雨衣を羽織って外に出る。風はなかったが、しとしとと降る秋の雨はとても冷たく、あまり長く外にいないほうが良い気がした。
いつもサッカー訓練等を行っているグラウンド。普段学生たちが使用している箇所についてはよく整備されているが、隅の方となるとあまり手入れが行き届いておらず、背の高い雑草がちらほらと見える。正直、あまり見栄えの良いものではない。
どの箇所をどれくらい綺麗しろ等と具体的に指示されていわけではないが、一目見て「綺麗になった」と感じる程度には仕上げておかなければならないだろう。特に会話することもなく、二人は黙々と雑草を引っこ抜いていく。面倒なことはさっさと終わらせてしまいたいという意見は合致していたようで、作業の手際は非常に良かった。持って来たゴミ袋はすぐに一杯になり、グラウンド周りも見違えるほど綺麗になる。
「これだけやれば、流石に怒られたりしないんじゃない?」
ゴミ袋の口を閉め、もう終わろうと促す日和。
「雨も強くなってきたしな…ああいや、あとあそこが残ってたか」
沢村が気だるそうに指差す先は、グラウンドの隅に建てられたひとつの小さな物置小屋。グラウンドを整備する道具などが入っているのだが、最近は使用マナーが悪いらしく、整理整頓が徹底されていない状況だ。
いい機会だからついでに綺麗にしてくれ、と助教から言われている。今回の騒動を起こしたことへの罰というよりは、それを口実とした雑用を与えられている気がするが、文句を言っても仕方ない。
立て付けの悪い扉を沢村が開くと、すぐに悲惨な倉庫内の光景が目に飛び込んできた。様々な用具が雑多に置かれ、どこになにがあるのか分からない状態だ。床にも物が置かれているから、足の踏み場も見つからない。
汚いから使用マナーも悪くなる。悲しい人間の性だろう。ここを利用する人たちも、最初から倉庫が綺麗に整理整頓されていれば、それを崩さないように使ってくれるはずだ。
草抜きより、こっちのほうが骨が折れそうだと日和は気を落とした。
「坂井、お前はもう帰れよ」
「いいって。最後まで付き合うよ…っと」
手前に置かれた段ボールを飛び越えて、日和は倉庫に足を踏み入れる。
「先に収納棚を綺麗にしたほうがいいね。一度空っぽにして、そこに箱とかを納めていこうか」
「っ! バカッ!」
日和が棚から荷物を降ろそうとして、段ボール箱に足をつまづかせた。後ろにバランスを崩す彼女を、沢村が咄嗟に支えようとするが間に合わず、二人は派手な音を立てて床に倒れる。箱の中身が散らばり、小さい倉庫内に埃が舞う。
「痛ったた…ごめん、ありがと…」
倒れこそしたが、沢村がクッションになってくれたお陰で日和に怪我はなかった。それと同時に、沢村が自分の下敷きに、まるで押し倒したかのようになっていることに気付く。互いの息がかかるくらいに顔が近く、彼の瞳に自分の顔が映っているのが見えた。
時間が停まったんじゃないか。屋根を叩く雨の音が一際大きく聞こえた。
「…どいてくれるか?」
「ご、ごめん!」
我に帰り、飛び退く日和。自分が今どんな顔をしているのか分からなくて、慌てて背中を向けた。
しかし沢村の方はというと、何事もなかったかのように立ち上がり、軽く体の汚れを払った。
「怪我ないか?」
「うん、平気…」
「そうか。ならいいけど、気を付けろよ」
何も言わず、ゆっくりと頷く。今まで経験したことがない程に心臓が跳ね、少しも治まる様子がない。ただの事故なのに、相手はあの沢村なのに、どうしてこんなにも鼓動が高まるんだろうと、自分で自分の気持ちが分からなかった。
「調子悪いなら帰っていいぞ」
「やっ、大丈夫! なんともないから!」
顔を見せないように手早く床を片付けていく。手を動かせば、この訳の分からない気持ちも晴れていく気がした。そんな日和の心うちを知ってか知らずか、沢村も黙々と棚の片付けを始める。
妙な空気のまま作業が続いていく。それでも相変わらず手際はいいので、みるみるうちに倉庫内は綺麗になっていった。
このまま何事も起こらなかったこととして終わってしまうのだろうか。だいぶ冷静さを取り戻してきた日和だが、どうしてもさっきの一瞬の出来事が頭から離れなかった。対していつも通り平然としている沢村のことが、少しだけ腹ただしくもある。
「ねえ、沢村はどうして野球をやってたの?」
「またお前は、妙なことを訊いてくるな」
この間の呉・江田島研修では「なんで航学に入ったか」を訊ねてきた。その次は野球ときたものだから、沢村はやや鬱陶しそうに、そして珍しいものを見るように日和に顔を向けた。なにせ彼に対してこれ程興味を持って話しかけてきた同期なんて、これまで誰もいなかったのだ。
「いや、違うなぁ。なんで野球を続けなかったの?」
「一回話したことなかったか? この道で食っていける奴なんてほんの一握りなんだよ。勘違いしてるみたいだけど、俺はそこまでの実力者じゃない。金にならないなら続ける必要はねえよ」
「なんで、そこまで…」
お金に拘るのか。声には出せなかったが、なんとなく沢村は察してくれたようだった。軽く息を吐き、持っていた荷物を棚に置く。
「俺の家、あまり裕福じゃなくてな。中学も高校も、私立には通わせてもらえなかった。本当は野球の強いところに行って、もっと技術を磨きたかったけど、許してくれなかった」
「けど、そんなに野球が上手ならスポーツ特待とかあるんじゃ…」
「言ったろ? 俺はそこまで上手くない。大学も同じだ。進学させてくれって頼んだけど、駄目だった。で、自衛隊に入ったってわけだ」
一応これで生きていくつもりだったんだけどな、と沢村は自分の右手を見て鼻で笑う。どこか悲しそうなその顔に、日和の心がズキンと痛んだ。
「だからかな。石井のことが、実力がある奴がなんか羨ましかった。なのにその力を生かそうとしないで、
野球だけで生きていこうとしても、その実力が及ばなかった沢村。対して、サッカーだけで生きていくほどの実力を持っていたが、その道を蹴った石井。競技こそ違えど、同じスポーツマンとして思うところがあったのだろう。
言ってしまえばそれは「嫉妬」だったのかもしれない。
「だからあんなに、石井につっかかって?」
「しょうもない八つ当たりだ。
再び沢村は手を動かし始める。もう話すことはないと言っているようで、日和もそれ以上はなにも訊かなかった。
けれどまだ何かが引っ掛かる。まだ彼から引き出せてない言葉が、彼に伝えたい言葉があるはずだ。
どうも今回の沢村は様子が変だ、自分の行った行為を「八つ当たり」と呼ぶなんて、普段の沢村では絶対に考えられない。
言ってしまえば、弱々しい。らしくない。結構なことじゃないかと同期たちは言うかもしれないが、少なくとも日和は、そんな彼をこのまま放っておきたくはなかった。
「よし、こんなもんだろ」
「うん、そうだね…」
少しして、倉庫内の整理が終わった。乱雑に物が置かれていた床もすっかり綺麗になり、学生たちは今後、この状態を維持するよう丁寧に使ってくれるだろう。
中隊長から言い渡された罰作業はこれで全部だ。外禁中なのは相変わらずだが、一応これで自由の身である。
「結局、最後まで付き合わせちまったな」
「気にしなくていいって。私が勝手にやってたことだから」
「…悪ぃ」
謝ってほしくない。いつもの沢村ならそんなことは言わない。怒鳴りたくなるような、なんとも言えない感情が日和の中でふつふつと沸き起こる。だがその言葉が見つからない。
倉庫の外に出ると、いつの間にか雨脚が強くなっていた。二人は早く隊舎に戻ろうとするのだが、相変わらず立て付けが悪いようで、倉庫の扉がなかなか閉まらない。
「なんだこれ、開ける時はすんなりいったのに」
沢村が力付くで閉めようとするのだが、どうにも言うことを聞いてくれない。そうしているうちにも雨は強くなり、徐々に雨衣の下の身体を濡らし始める。
「ねぇ沢村…私、間違ってないと思うよ」
「あぁ?」
こんな時になんだと、沢村は扉と格闘しながら答える。
「石井に喧嘩売ったこと。そりゃ、八つ当たりって言ってしまえばそれまでだけど、でも沢村は、一生懸命野球をやってきた。だからこそ、半分遊びのようにサッカーをやってた石井が許せなかった。それって、悪いことじゃないと思う」
「なんなんだよ、一体…」
「真剣にやってれば、誰かとぶつかることはある。仕方ないよ。だからさ…」
日和は静かに沢村に身を寄せ、彼の背中にそっと手を置いた。途端に、扉を閉めるために激しく動いていた身体は静かになり、身体の熱が衣越しに伝わってくる。
「お金の為とか、そんな取って付けたような理由はいらないんだよ。もっと、自分の気持ちを大切にしたほうが…」
「やめろっ!」
急に沢村は日和の手を払いのけ、勢いよく扉を閉める。バシンッという乾いた音が誰もいないグラウンドによく響いた。
「お前の価値観で、勝手に人の心を分析してんじゃねぇ!」
水溜まりを乱暴に踏み荒らしながら、早足で隊舎に戻る沢村。それを日和が数歩遅れて追いかける。
「そんなところで意地張らなくてもいいでしょ! 野球が好きだって、空を飛びたいって、素直にそう言えばいいんだよ!」
「うるさい、うるさい! お前なんかに俺の気持ちが分かってたまるか! 俺はただ、金が欲しいだけでっ!」
「違うっ!」
日和が沢村の袖を掴み、それを振りほどかれてバランスを崩した。泥の溜まった水溜まりに勢いよく倒れるが、そんなこと気にもせず、日和はすぐに顔を上げる。
「私には分かるよ! いつも沢村のこと見てるんだから!」
瞬間、沢村の歩みが止まった。
「毎日の訓練も、航友会の野球も、誰よりも真剣に、一生懸命に取り組んでいるのを私は知ってる! そんな努力、好きじゃないとできないよ!」
ほとんど叫びのような声。誰かに聞こえるかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。
「だから、お金の為とか言って、好きっていう気持ちに嘘をつかないで欲しい。好きなことは好きだって言って欲しい。私が見ていたいのは、そういう沢村なんだ…」
「なんでお前、なんで!」
振り返り、日和に歩み寄って胸ぐらを掴む。けれど日和は少しも怯むことなく、強い眼で沢村のことをしっかりと見ていた。
「放っておけばいいのに! お前はなんで! そんなに俺をっ!」
「わかんないよ! 気になるんだ! 仕方ないでしょ!」
沢村の表情がひどく歪む。こんな顔をする彼を、日和は初めて見たかもしれない。
ずっと他人を拒絶して生きてきたのだろう。何事にも真剣に向き合ってきた彼にとって、その歩んで来た道は、実力こそが全ての世界だ。強くならなければ必ず惨めな想いをする。周りは全員がライバルで、誰かを蹴落とさなければ前へと進めない道。仲間とか、絆とか、友達とか、そういう馴れ合いや繋がりが油断を生み、いつか命取りとなる。
だが航学は違う。ここに集まる人たちは競争相手ではない。同じ生活を送り、同じ苦難を乗り越え、同じ夢を追う仲間だ。今まで沢村がしてきたように、周囲の人間と壁を作る必要なんてない。
「好きなことは好きって言っていいんだよ。弱さを見せたっていいんだよ。少なくとも私は、絶対に沢村の味方でいるから…」
それ以上の言葉は出てこなかった。言いたいことは全て言った。心の中でずっとモヤモヤと溜まっていて、伝えることができなかったもの。それらがようやく吐き出された気がした。
日和を掴んでいた手を、沢村は力尽きるように離した。なんて真っ直ぐな奴なんだろう。こんなにも純粋に、真正面から向き合ってくれる人に、沢村は出会ったことがなかった。対して自分の、なんと曲がった性格をしていることか。
「おい…もういい、俺の負けだ」
すっかり泥だらけになった日和を、今度は優しく手をとって立ち上がらせる。
「戻ろう。そのままじゃ風邪ひくだろ」
ありがとな、と呟くように付け足した。顔は見ていなかったが、彼女は笑ってくれたような気がした。
休み明けの月曜日、朝イチで日和たち3人は再び中隊長のところへ出頭する。罰を受け、十分反省したことを伝えると、思いの外中隊長はすんなり許してくれた。
「で、お前ら仲直りはできたのか?」
「はい、すっかり」
沢村と石井が互いに目を合わせる。あの作業の後、日和の奨めで、沢村は改めて石井のところに謝りに行った。つい熱くなってしまったこと、余計な意地を張ってしまったこと、全てを正直に話すと、すぐに二人は分かり合えたのだという。もともと同じ航学の仲間だ。ぶつかりこそしたが、相手に敵意を持っているわけではない。
「そうか、ならば良し。お前らはすぐ頭に血が上るところがあるからな、少しは一歩立ち止まることを覚えろよ? パイロットはクールヘッド&ホットハートだからな。あと、課業中は訓練に集中すること! 了解か?」
「はい! すいませんでした!」
即座に頭を下げる沢村。すると中隊長は満足したようで、もう帰れと手を払った。周りの区隊長や助教たちもニヤニヤと笑っており、どうやら3人に対して怒っている者は誰もいないようだった。
「そういや、沢村」
「はい?」
退室する直前、中隊長が呼び止める。まだ言い残したことがあるのだろうか。
「お前、なんか顔付き良くなったな。そっちのが良いと思うぞ」
そうだろうか、と沢村は隣にいる日和と顔を合わせた。二人は一瞬目を丸くしていたが、すぐに口元を緩めた。確かに中隊長の言うとおり、外見だけだとあまり変わってないようにも見えるが、他人を寄せ付けない刺のようなオーラはなくなったのかもしれない。
「…継続していきます」
「ん、よろしい」
今度こそ退室していく沢村たち。それとほぼ入れ替えで、状況報告を行うために当直たちが入室してくる。静かだった学生隊は瞬く間にいつもの騒がしさを取り戻し、学生の大声や区隊長らの怒声が廊下まで響いた。
「さて、今週も頑張るか」
少し気だるそうに沢村が言うと、日和はクスクスと笑った。
「らしくないね、そういうこと言うの」
「そうか? そうかもな」
「でも、そっちのほうがいいよ」
「ほっとけ」
今日も午後からサッカー訓練が予定されている。土日の雨雲もどこへやら、透き通るような青空だ。きっと充実した訓練ができるだろう。
金曜日はいよいよ球技大会だ。練習できる時間は、あまり多くない。
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