秋夜に酔って

 防府駅よりも北側、佐波川手前の住宅街に7区隊の下宿はある。4LDKの一戸建て、航学びいきの不動産屋だったこともあり、わりと新しい物件を良心的な価格で貸してもらっている。


 居室に私物も満足に置くことができない航学生活。週末だけとはいえ、プライベートの確保された空間で羽を休めることができるというのは大切なことだ。


「6人全員が特外とくがいっていうのも珍しいよね」


 適当に惣菜をかごに入れながら日和が言う。この土日は7区の全員が外泊申請をあげており、いつもは萩の実家に帰っている月音も、今週は下宿に泊まるとのことだった。ならば皆で一緒に夕食でもと、下宿近くのスーパーに買い出しに来ているところだ。


「それもそうだけど、女6人集まって誰も台所に立とうとしないっていうのも情けない話だよねぇ」


 弁当のコーナーを眺めながら月音は苦笑する。当初、なにか適当に手料理でもと考えていたのだが、いざ集合してみると誰一人まともに自炊をしたことがないというのが判明した。全員が高校卒業後に即入隊で、一人暮らし等の経験がないことを考えるとそれも当然かと言えたが、それにしても米すら炊けないとは誰も思っていなかった。


「そもそもうち、調理器具とかなんにも置いてないし…週末の拠点にするだけだからって、冷蔵庫すら買ってないからね」


 ちなみに大きな家具や家電なども買っていない。航学卒業までの2年間、それも週末だけの利用となると、無闇に物を買い揃えても仕様がない。外泊する際の寝床と、私服や私物を保管できるというのが下宿に求められている機能であって、生活するほどの充実さは必要ではない。


「けどまぁ、今のうちから練習とかしといてもいいかもなぁ」


「なになに? 料理の? 誰に作ってあげるつもり?」


 日和の呟きを月音は聞き逃さなかったようで、にやけながら顔を覗き込んでくる。特に手料理を食べさせてあげたい人がいるわけではなかったが、月音にこう言われるとなんだか恥ずかしくなって、適当な言葉で誤魔化しておいた。


「あの、ここまで来て申し訳ないんですけど…」


 と、二人のすぐ後ろをついて来ていた春香がおずおずと口を開いた。


「やっぱり私、帰ります。誘ってくれたのは嬉しいんですけど、ちょっと遊ぶ気になれなくて…」


 というより、遊んでいちゃいけない気がするというのが春香の本音だろう。ここ最近、同期に迷惑ばかりかけている。そんな自分がこうして遊び回っていていいのだろうか。そういう罪悪感を抱いているのかもしれない。


外禁がいきん(外出禁止)でもないのに、春香が負い目を感じることはないと思う…」


 隣を歩く秋葉が言うが、春香は「ごめんなさい」と返すだけだ。すっかり謝り癖が付いてしまったなと、日和と秋葉は目を合わせて顔を歪ませる。


「駄目だよ、春香ちゃん」


 が、ここで強引さを貫くのが月音だ。


「春香ちゃんは外泊で申請をあげてるんだから、点呼の時は不在人員なんだよ? それなのに春香ちゃんが隊舎に残っていると、報告をあげる当直は混乱しちゃうよ」


 なるほど確かにその通りだと日和は感心する。こう言われてしまっては春香も断る理由がなく、渋々ではあるが首を縦に振ってくれた。取り敢えずはこれでいい。今の彼女に必要なのは仲間と悩みを共有することであって、その為の外泊だ。このまま彼女を基地に帰してしまっては、現状はなにも変わらない。


「お、いたいたー。そっちの買い物は終わった?」


 と、そこへいくつかのレジ袋をひっさげた夏希と冬奈が合流する。彼女たちには飲み物類を買ってくるように頼んでいたのだが、それにしてはやけに時間がかかったなと日和は首を傾げた。


「いやー、みんなの好みとか分かんなくてさ、結構迷っちゃったんだよねー」


「どれどれ…ってこれ、お酒じゃん!」


 夏希が持つ袋を覗き混んで月音が驚く。カクテル系や酎ハイを中心に、あとはビールが数本。ついでに足されたようなウイスキーとソーダについては夏希の好みだろうか。


「バレないかな? 私たちって一応みせいね…」


「おっと! 月ちゃん、そこまでだ!」


 夏希は月音の言葉を遮類が、しかしこれは流石に不味いのではないかと月音は怪訝な顔をする。


「まあ、せっかく6人で外泊するんだから、少しくらいはね? これから飲み会の回数も多くなっていくだろうし、その練習もしておいたほうがいいわ」


「うぅん、冬奈ちゃんが言うなら…」


「え、冬ちゃんならいいの? なんで?」


「そこは、まぁ、ねえ? 普段の信頼というか…」


「なにそれ?!」


 怒る夏希と、それを見て笑う月音たち。つられて日和も頬を緩ませたが、それでも春香が笑顔を見せることはなかった。





 日も沈み、防府の町に夜の明かりが灯されていく。このくらいの時間になると多くの自衛官が車塚や天神の飲み屋街に足を運び、そしてそのまま消えてゆく。


 自衛隊、特にパイロット周りはとにかく宴会が多い。歓迎会、送別会、団結会、祝勝会、忘年会に新年会は勿論、航学、同期、区隊、対番、部隊に出身地まで、あらゆるくくりで飲み会が行われる。しかし若手にとってその宴会はどれも堅苦しいもので、常に先輩に気を使わなければならないし、まともに飲み食いもできないので、正直あまり楽しいものではない。


 というわけで、学生たちにとって下宿での宅飲みというものは、仲の良い身内だけで気兼ねなく酒を交わすことのできる貴重な機会でもあるのだ。


「それでさぁ、私が状況報告している後ろで増田が齊木3尉に怒られてんの。滅茶苦茶」


「そういやボードに「出頭せよ!」ってでかでかと書かれてたわね」


「なにやったのかは知らないけど、バインダーで頭ぶっ叩かれて、衝撃でバインダーが割れたの。真っ二つに」


 なにそれ、と笑う冬奈。月音は話を続ける。


「思わずびっくりしちゃってさ、そしたら中隊長が「いちいち反応するんじゃねぇ!」って私を怒るの。とんだとばっちりだったよ」


 楽しそうに笑う二人。少し酔いが回ってきたのか、ほんのり頬が赤くなっている。割りと飲み慣れている冬奈はいいとして、月音のほうはまだ片手で数えるくらいにしか飲酒をしたことがない(つまり失敗を知らない)とのことなので、よく注意して見ておかないといけない。


「でさぁ、先輩が言うわけよ。今のは欠礼だろって。100m先の人に対して敬礼とか必要なのかねぇ?」


 こっちは愚痴か、と日和は夏希のほうを見た。理不尽なことも多い学生生活、色々と言いたいことがあるのだろう。彼女が長々と愚痴るのを、秋葉が適当に頷きながら聞いている。こちらの二人は自分のペースを守って飲んでいるようなので、放っておいても大丈夫だろう。


 一方春香はというと、まだ缶酎ハイ一本もあけてないというのに顔を真っ赤にさせていた。


(うわ、弱っ…初めてとは聞いてたけど…)


「坂井さぁん…わたしはもぅダメなんですぅ…」


 加えて泣き上戸だった。まるで溶けるように顔をテーブルに乗せ、ポロポロと大粒の涙を溢す。恐らく日頃のストレスが大いにたまっているのだろう。


 彼女の悩みを聞けたらと思って開いたこの飲み会だが、酒を入れれば普段言えないことも言えるだろうという考えは、やや軽率だったかもしれない。


「春香、ちょっと風にでも当たりに行こう? 私、付いていくからさ」


 これは放っておくわけにはいかない。少し酔いを覚ましてあげようと、日和は春香の腕を肩に担いだ。


「あれ、どしたのひよちゃん?」


「うん、少し飲み過ぎたみたい。ちょっと外に出てくるだけだから、大丈夫だよ」


 席を外す時、ふと秋葉と目があう。すまない、任せたと無言で謝る彼女に、日和は小さく頷いた。





 夜の町をふらふらと歩くのは流石に危ないということで、玄関の前に二人は並んで座る。日和から水を手渡され、春香は素直にそれをコクコクと飲んだ。


 昼間はまだ強い日射しを感じるこの季節だが、日が落ちればそれと同時に気温も下がり、防府の夜は少し震えるくらいに肌寒くなる。けれど今はその冷たい夜風が火照った身体に丁度良かった。


 少しすれば春香も落ち着き、あれだけ溢れていた涙もいつの間にか止まっている。それでも中に戻ろうとはどちらとも言わなかった。


「私…辞めようかと思います」


「そ…っか…」


 ペットボトルを握る手に力が入る。その動揺を圧し殺すように、日和は一口水を飲んだ。


何を? とは訊かない。意外だとも思わない。でもやっぱりその言葉を同期の口から聞くのはすごく心苦しかった。


「私、向いてないんです。教練も、戦訓も、もう嫌なんです。なにをやっても駄目で、皆さんの足を引っ張ってばかりで…」


「それを言ったら私だって、大したことないけど…」


 違うだろう。そんな言葉じゃないだろう。


 酒のせいなのか、うまく頭が回らない。


「坂井さんは、どうしてそんなに強くいられるんですか?」


「それは違うよ。私は強くなんかない」


 やらなくてはいけないこと、と割りきっているだけだ。そこに人がいたらとか、実戦だったらとか、本質的な部分には目を向けず、与えられた課題を淡々とこなすだけ。


「私だけじゃない、みんなそうだと思うよ。難しいことはなるべく考えないようにして、そうやって自分のモチベーションを保っているんだよ」


「私には無理です…そんな器用なこと」


 バッサリと割りきって考えられるなら、こんなに悩んでいない。そうじゃない、と日和は唸る。


「春香はさ、なんで航学を選んだの?」


「そんなの、パイロットになりたいからに決まってます。坂井さんだってそうでしょう?」


 航空学生に対してそれは愚問だったかもしれない。なにを今さら、とでも言うように春香は即答した。


「うん、そうだよね。みんなそうだと思う。でも、パイロットを目指す理由は人それぞれなんじゃないかな?」


「なんで空を飛びたいか…ってことですか?」


「私の場合、パイロットだとか自衛官だとか、そんなのはどうでもいいんだ。なにか一生懸命になれることを見つけたくて、自分で自分の人生を決めたくて、だから航学ここに来た」


「…選んでここに来て、どうでした?」


「良かった、と言い切れるほどに私はゴールに近付いてないけど、間違ってないとは思ってるよ。だから戦訓でもなんでも、ある程度のことは我慢できるんだ」


 春香はなにも返さない。貰った水を飲み干して、遠く見えづらい星空にほぅっと息を吐いた。


 こんな言葉では足りないのだろうか。そんな歯痒さを感じながらも日和は続ける。


「春香は賢いから色々なことを考えちゃってるんだろうけど、今はちょっと初心に戻ってさ。もう一度自分の気持ちに向き合ってみたら良いんじゃないかな? なんでパイロットになりたいのか、春香が本当にやりたかったことって何なのか。そうすると、もっと別のものが見えてくるかもしれないよ?」


「…そう、ですね」


 生返事とはこういうのを言うのだろう。これ以上話を続けてもきっと変わらない。どうしたものかと頭を抱えつつ「中に戻ろう」と言って日和は立ち上がった。


 少し話したところで彼女の心を動かせるなんて、そんな簡単には考えていない。時間はあるのだから、これから何度でも春香と話し、少しずつでも気持ちを前向きに持っていけたらそれでいい。


「坂井さん」


「ん?」


 先に戻ろうとする日和を、春香は夜空を見上げたまま呼び止めた。


「ごめんなさい…」


「…うん」


 謝るなとは言わなかった。それで気がすむなら、いくらでも謝ればいい。そう日和は考えていた。



 その後、春香は日和に少し遅れて皆の元に戻ってきたが、その頃には宅飲みもすっかり終わりの空気になっており、それ以上は酒を口にすることはなかった。

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