空の祭典

 まだ起床ラッパが鳴る前だというのに、早くも夏の太陽が辺りを強く照らしている。飛行場からはT−7練習機がエンジンを回す音が聞こえ、隊員たちは忙しそうに基地内のあちこちを走り回っていた。中には昨日のうちから職場に泊まり込み、皆が起き出すずっと前から動いている隊員もいるらしい。明らかにいつもと様子が違う朝。光たち後任期学生たちもまた、普段より一時間程早起きして、勤務場所である基地内特設駐車場で待機していた。


 今日は年に一度開催される、防府北基地の航空祭だ。もともと光はあまり自衛隊に興味があるわけではなかったので、こういったイベントに足を運んだことはない。うるさく爆音を鳴らすだけの自衛隊機を見るくらいだったら、民間空港の展望デッキで旅客機が飛んでいくのを眺めているほうが好きだった。


 他基地から続々と飛来してくる航空機たち。中には陸上自衛隊や海上自衛隊の航空機もあり、名前も用途も分からぬそれが規則正しくエプロンに並んでいく。そして光が待機している場所からそう遠くない広場では、最寄りの駐屯地から持ってきた74式戦車が無骨な音をたてて唸っている。


「体験搭乗とかもあるみたいだよ。いいなぁ。戦車なんか滅多なことじゃ見られないし、私たちも乗ってみたいよねぇ。今日のところは駄目なんだろうけど…」


 同期の赤城美咲が目を爛々と輝かせる。しかし光はそんな彼女に、朝食用に配られたパンをかじりながら、相変わらずの冷めた態度で返した。


「陸自なんかに興味あるの? 航学のくせに」


「へ、変かなぁ?」


「目指すはパイロットなんだから、地上なんか見ててもしょうがないでしょ。目線は高く、空、空」


「うおっ! 見ろみさきち! でっかいのが飛んで来たぞ!」


 これまた同期の加賀伊織が大きな声で騒ぎ出す。彼女の目線を追うと、ちょうど美保基地から飛来した3輸空のC−1輸送機が防府北基地にアプローチをかけているところだった。


「あんなにおっきい飛行機でも降りれるんだねぇ。凄いね、北基地って」


「ここの滑走路は1,500m程しかないよ。けどC−1は1,000mもあれば離着陸できるから、むしろ凄いのは航空機のほう」


「ほう? 詳しいねぇひかりんよ。あんなに自衛隊嫌いだったのに」


「別に…将来自分に関わることだから勉強しただけ」


 ニヤニヤと笑う伊織に、光は不機嫌になって目を逸らした。いわゆる「自衛隊らしい教育」が気に入らなくて、それが原因で導入期間中に先輩たちとやり合ったことは、今でもこうしてネタにされることがある。今思えばどうしてあの頃はあんなに尖っていたのかと、自分でも恥ずかしくなる思い出だ。


 C−1が轟音とともに着陸してから数分。また別の航空機が飛んできて、その度に伊織たちは楽しそうにはしゃぐ。そんな同期たちを少し羨ましいと感じつつ、光は残りのパンを口に詰め込め、牛乳で一気に流し込んだ。予定ではもうすぐ基地の各門が開場し、一般客が入場してくるはずだ。その前には配置につかなければならない。


『駐車場統制、正門統制』


 とその時、光のすぐ傍に置いてある無線機から声が聞こえてきた。するとそれに気付いた男性隊員が慌てて駆け寄って来たので、光は無線機を彼に渡す。


「ごめんごめん、持ち歩くのを忘れてたよ」


 この男性は光たちの勤務場所で統制をとっている隊員で、航学群の所属ではない。だが出身期別は航学70期。今は飛行教育群の地上準備課程で訓練をしている、光たちの2つ先輩にあたる。


『駐車場統制、こちら正門統制』


「やあその声は巴だね。どうかした?」


『…無線ではコールサインで呼称しなさい。携帯電話とは違うんだから』


 ああそうだったと、笑って謝る先輩隊員。細身のシルエットに物腰の柔らかい態度。およそ航空学生とは思えない優男ぶりに、こんな人でもパイロットになれるのかと光は不思議そうに彼を見る。


『もうすぐ正門を開ける予定よ。そっちに一般車が沢山行くから、誘導よろしく』


「あれ、計画ではあと1時間後に来場者を入れるはずじゃなかったかな?」


『団司令指示らしいわ。基地周辺道路に来場者の車が並んで、近隣住民から「渋滞が発生してる」ってクレームが入ったの』


「ああ、そういう…」


『そういうわけだから、頼んだわよ。通信終わり』


 ブツリと無線が途絶え、困ったように先輩は頭をかく。しかし戸惑っている暇はなく、基地の外に見える渋滞は早くも動き始めていた。おそらく5分としないうちに、この駐車場まで車が誘導されてくるだろう。


「聞いての通りだよ。申し訳ないけど、休憩は終わりだ。それぞれ配置についてくれるかな?」


「はいっ!」


 急に凛々しくなった先輩の態度に、光の身体は自然と背筋を伸ばす。まるで羊が狼に変身したような切り替わり。それだけオンとオフを上手く使い分けている人なのだろうか。71期には見ないタイプの先輩だなと光は思う。


 チラと先輩のネームプレートを見る。関…それが彼の名前らしい。妙な先輩と一緒に勤務したと、後で日和か礼治に話してみよう。案外、彼等の対番だったりするかもしれない。様々なエンジン音と起床ラッパが鳴り響く中、光は自分の配置に向かって走り出した。





 雲一つない青空の下、防府北基地航空祭は全てが順調に進んでいた。基地内はどこも真っ直ぐには歩けない程に人がごった返し、あちこちに設置された放送器具から流行りの音楽が途切れることなく流れ続ける。そして時折全てをかき消すかのように爆音が轟き、各方面から飛んできた航空機が空を駆け抜けた。大量のT−7による編隊飛行や、米軍のF−16による機動飛行等々、普段見ることのできない光景が空を埋め尽くす。どれも見どころではあるのだが、しかし来場者の多くが待ち望んでいるイベントはもっと他にある。


 本日のメインはなんといっても4空団11飛行隊、通称ブルーインパルスによる曲技飛行だろう。航空自衛隊を代表する広報任務専門のアクロバット飛行隊。自衛隊に詳しくない人でも、その名前くらいは聞いたことがあるはずだ。


 各航空祭や外部のイベントに参加するのが彼等の主な任務なのだが、全ての航空祭に顔を出しているというわけではない。スケジュールの都合上展示飛行を行えない場合も多くあり、ここ防府北基地航空祭には彼等がやって来ることは殆どなかった。それが今年は調整が上手くいったのか、数年ぶりにブルーインパルスの飛行が実現したのである。


 そういうわけだから、今年の航空祭は例年以上に来場者が多く集まっていた。中にはわざわざ他県から足を運んでくるファンもいる程だから、その人気ぶりは凄まじい。そしてそんな大イベントの前座を務めるのが71期航空学生によるファンシードリルだった。


「射手安全確かめ弾を込め、空包一発」


「空包一発!」


 射撃幹部の号令を復唱し、祝砲用の空包を小銃に込める。ファンシードリルでは演技の都合上弾倉(マガジン)を挿すことが出来ず、直接薬室に弾丸を装填する必要があるのだが、空自で定められた正規の手順ではないので、慣れない操作に戸惑う者もちらほらいる。


『全般統制よりオールステーション。現在プログラムは10分ディレイで進行中。ドリル隊については入場時刻を調整されたし。なおエプロン地区までの経路はオールクリア』


 ディレイとはその言葉の通り、それだけ予定が押しているということ。このズレが大きくなるとブルーインパルスの飛行に影響が出てしまうため、どこかで巻き返したいというのが本部の考えだろう。そこを理解した上で、ドリル指揮官である徹美は無線機を取る。


「統制、ドリル隊。それは速やかに入場しろという意味で宜しいか?」


『ドリル隊、その通り』


「了解、アウト」


 最初からそう言え、と悪態をつく。本部側としてはあまり角が立たないよう表現を濁したのだろうが、やるべきことはやれとハッキリ指示してくれないと、最終的にしわ寄せを食らうのは現場だ。


 忙しそうな区隊長を横目に、日和は黙々とドリルの準備を進める。本番前の最後の確認、近くにいる者同士で向かい合い、服装や装具に乱れがないかをチェックする。なにせお客さんの前に出るのだから、糸くず一つでも着いていたらみっともない。


「装具よし、着こなしよし。後は笑顔が良ければ満点かな」


「演技中に笑ってたら駄目だろ。成功しても失敗しても、感情を表に出すな」


 日和の隣は礼治だった。このドリル隊形のポジションは毎回変わることはなく、いつも日和は彼と最終確認を行ってる。卒業式と入隊式、美保基地航空祭に防府南基地開庁祭と続いて、今回で4回目のお披露目だ。流石に慣れてきたのであまり緊張はしておらず、こうして冗談を言えるくらいにはリラックスできている。


「それにしても、ブルーの前にドリル展示だなんてツイてないよね。絶対お客さん少ないよ」


「そうか?」


「ブルーが始める前に、みんなトイレに行ったりとか色々準備するはずだからね。前の美保ドリルとかそうだったでしょ?」


「…あまり気にしたことなかったな」


 雑談をしつつ、礼治は日和の服装をチェックしていく。テッペンからつま先まで、今日も異常は見られない。しっかり磨かれた1種編上靴が、陽の光を反射して眩しかった。


「よし、いいぞ。外観点検異常なし」


「ほんとに? よく見てよ?」


「見てるよ。日和のことは特に」


 ふと二人の目が合う。ほんの数秒、他の誰も分からないような一瞬だったが、互いの瞳に自分の顔が映っているのが分かるくらい、はっきりと見つめ合う。その時事に気が付いた礼治は妙に彼女を意識してしまって、何かを隠すかのように目を逸らした。


「…なに?」


 キョトンと日和が首を傾げる。


「なんでもない」


「気になるなぁ。なにか顔に付いてた?」


「付いてない! それよりもう本番だぞ! 前向いとけ!」


「…急に変なの。いいけどさ」


 言えるわけがない。制服姿なんて見慣れているはずなのに、今日の彼女は特別綺麗に見えただなんて。もしかして今の自分は、航空祭という魔力に気分が浮かれているのではないだろうか。だとしたら非常にらしくない。これがドリル演技に影響を与えてしまってはことなので、厳に戒めないといけない。


 出発するぞという徹美の一言で、弛みかけていたドリル隊の空気が一気に緊張する。担えつつの号令がかかり、部隊後方で待機していたブラスバンド隊はそれぞれ楽器を構え、これで全ての準備は整った。


「前へ、進め!」


 基地内に流れていた音楽が止まり、その代わりにブラスバンド隊によるマーチが演奏される。航空自衛隊行進曲「空の精鋭」。陸自の陸軍分列行進曲や海自の軍艦行進曲に並ぶ、航空自衛隊を代表する曲だ。さすがにそれを本業とする音楽隊と比べるとややつたない演奏ではあるが、彼等学生の殆どは音楽未経験者。ろくに練習時間も確保できない生活の中、僅か半年で人前に披露できる程まで成長したのはなかなか凄いことである。


 一糸乱れぬ行進で会場入りするドリル隊。それまで空を見上げていた観客たちの目が、一斉に彼等へと向けられた。


『71期航空学生によるファンシードリルです。代々先輩たちから受け継いできた伝統と、その磨き上げられた演技の数々をどうか最後までご覧下さい』


 アナウンスの後に大きな拍手、そしていくつものシャッターを切る音、頑張れという声援。ブルーの人気には到底及ばないが、それでも日和たちをやる気にさせるには十分すぎる盛り上がりだ。


 空高く響く笛の音。ブラバン隊の奏でる太鼓のリズム。4.6kgの小銃を軽々と持ち上げ、棒切れのようにクルクルと回す。今日も手応えは絶好調。自分でも満足できる、良い演技をすることができそうだと、日和はさらに強く小銃を握った。





 多くの人々の歓声を浴びながら、防府の空を所狭しと飛び回る六機のT−4中等練習機。どこまでも続く青いキャンバスに、イルカたちが白いスモークを使って様々な絵を描いていく。その卓越した操縦技術に観客は勿論、航空祭のスタッフである隊員たちも足を止めて空を見上げていた。


「すっごいなぁ…」


 高く空を飛ぶブルーインパルスを見て、ため息混じりに月音は呟く。将来パイロットになることが約束されている彼女たちにとって、ブルーは決して届かぬ夢ではないはずなのだが、それでもまだ遠く手の届かない存在のように感じる。


「ドリル隊の人達、観れなくて残念ですね」


「ほんとだよ。日和ちゃんとか、凄く楽しみにしてたのにさ」


 月音の隣で、同じようにブルーを見上げる春香。ファンシードリルの演技が終わった後、その足で群庁舎まで戻ってきた彼女たちだが、日和たちドリル隊は小銃を返納する為武器庫に行っており、ブルーの演技を観ることは叶わない。対して月音たちブラバン隊は戻すべき武器もないので、武器返納の間外で待機となっていた。


「ブルーとか、なってみたいと思いますか?」


「いやぁ…凄いなぁとは思うけど。私、輸送機志望だしね」


 ブルーインパルスの隊員は戦闘機操縦者から選抜されることとなっており、輸送機や救難機操縦者が選ばれることはない。というのもT−4はもともと戦闘機操縦課程の為に開発された練習機であり、その挙動も輸送機等とは大きく異なる。そして輸送機や救難機課程に進むパイロットはT−400を練習機として使っているので、そもそもT−4を操縦する機会がないのだ。


「春香ちゃんはどうなの? ていうか、春香ちゃんの希望機種とか聞いたことないなぁ」


「私は…正直まだ悩んでます。もともと「パイロットになりたい」っていう漠然とした目的で航学ここに来ただけでしたから。でも…」


 一度小さく間を置いて、決意を固めるように。彼女の持つクラリネットが、夏の日差しでキラリと光る。


「戦闘機もいいなって、今では思います。戦うことへの覚悟とか、まだまだ私には足りない部分が多いですけど、そこも含めてもっと強くならなきゃいけないんだって…」


「へぇ、戦闘機かぁ」


 最初は銃を撃つことにすら戸惑っていた春香が、この一年で随分強く成長したなと月音は思う。彼女だけではない。冬奈も、秋葉も夏希も、勿論日和だって。7区のメンバーは入隊した時から大きく変わった。それぞれが抱える弱さを自ら克服し、自分の夢に向かって着実に歩を進めている。


 対して自分はどうだろうか。特に成績は悪くなく、無難に学生生活を送ってはいるものの、どうも成長したという実感がない。知識や体力は確実に向上しているのだろうが、それは誰でも同じこと。勿論それは悪いことではなく、むしろ理想的な学生ですらある。


 だがこの個性豊かな仲間が溢れる中で、自分はあまりにも普通すぎるのではないかという、焦りにも似た感情が月音の心内にふつふつと湧き上がる。言ってしまえばそれは、パイロットにはなれるかもしれないがブルーインパルスにはなれない…みたいな。キラリと特別に光るなにかというものが、どうも自分には欠けているような気がした。


 贅沢な悩みだろう。今の自分は十分恵まれている。なにも躓くこともなく、順調にパイロットへの道を進んでいるのに、これ以上なにを望むというのか。


「菊池さん?」


「ん? あぁ、なんでもないよ」


 二機のT−4が垂直上昇していき、スモークを出しながらブレイクして急降下。北基地の空に大きなハートマークが描かれ、その中央を三機目のT−4がスモークの矢を射抜いていく。バーティカルキューピッド。ブルーインパルスの演技の中でも、特に人気のある技だ。


「綺麗ですねぇ…」


「だよねぇ。やっぱブルーって、自衛隊っていうよりはアイドル的な存在だよね。私たちに近い存在なんだろうけどさ、なんか手が届かないところにいる気がするよ」


「…? そうですね?」


 遠くエプロンの方から大きな拍手と歓声が聞こえてくる。それが止まないうちに会場後方から一番機から四番機、そして六番機がデルタ隊形で進入してくる。五機はスモークで大きな花を咲かせて散開し、再びそれぞれの方向から集まった彼等は大きな星を描いた。ブルーインパルスのオリジナル演技、スタークロス。この時五番機はこの後の課目であるタッククロスの為に会場の外で待機していた。


 この雄大な星を、五番機パイロットはどんな気持ちで見ているのだろうか。到底分かりもしない彼の気持ちを想像しながら、月音は遠い目をしながらじっと空を見上げていた。

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