走れ、夏希

 徹美の指示により朝礼場に集められた7区隊の面々。特に理由は告げられていないが、夏希に関することだろう程度には皆察しがついていた。とはいえなにを行うつもりなのか。過去に突然非常呼集をかけたこともあるものだから、その不安はどんどん膨らんでいく。


「みんな、ごめん。私のせいで…」


 絞り出すような声で謝る夏希。だけどそれに応える者はいなかった。彼女がこの数日間、どれだけ辛い日々を送っていたのかは理解している。行った行為に対して、十分反省しているのだろうということも分かっている。それでも埋めきれない心の溝。どこかぎこちない空気が7区を支配し、一見繋がっているように思える絆は今にも空中分解しそうだった。


「よし、全員揃ったな」


 しばらくして徹美が現れる。特に誰かが仕切っているわけてはないので各々による敬礼をするが、そんなものはいいと彼女は手を払った。


「今から行うのは…そう、儀式だな。陣内が7区隊に戻る為の儀式だ。訓練でも罰でもない」


「夏希が戻る為の?」


 一同はすぐ横でばつが悪そうにたたずむ彼女に目を向ける。まだ自信を持って仲間に顔を向けられない。そんな様子。


「お言葉ですが」


 小さく手を挙げたのは冬奈だった。


「ここ数日、陣内学生がどんな生活を送っていたのか、私たちも知っています。それによって彼女が十分反省したことも理解していますし、その上で「7区に戻る」というのはどういう意味でしょうか?」


「なるほどなるほど? お前たちの中では既に今回の一件は解決済みだと。私にはとてもそう見えないがな」


 呆れたように徹美は鼻で笑う。


「仲間がお前たちを裏切るようなことをした時、誰かがそいつを罰すればそれで許せるのか? 私がこの数ヶ月で見てきた7区隊は、そんな安い絆で結ばれた集団ではなかったぞ。本当のところ、お前たちはまだ納得できていないんじゃないか?」


「…と言われても」


 ではどうすればいいのか。冬奈たちに夏希を罰する権利なんてない。あるわけがない。彼女たちは同期であり、その関係は対等なのだから。だが徹美の言う通り、まだどこか胸の内に引っ掛かるものを抱えているのも確かではあった。


 そういう時の為の区隊長という存在である。


「だから儀式が必要なんだ。お前たちが本当に、心の底から陣内のことを許せるのだとすれば、その本気を私に見せてみろ」


 題して、と徹美は一段声を大きくし、夏希を皆の前に立たせる。


「走れ陣内…かな。いまからこいつには乙武装のまま、1,500m走を行ってもらう。時間にしておおよそ12、3分。その間お前たちはただ突っ立っているわけじゃない。陣内が走り終えるまで、ここの鉄棒にひたすらぶら下がって待ってるんだ」


 ほう、と思わず日和は息を洩らした。さながら太宰治の「走れメロス」のようである。走る側…つまりメロス役の夏希は、自分の帰りを待ってくれている仲間の為に必死に走る。対して日和たちはひたすら鉄棒にしがみつき、夏希が戻って来ることを信じて待つ、セリヌンティウス側というわけだ。物語と異なる部分は、現実には邪智暴虐な王なんてものは存在せず、代わりに王よりも恐ろしいかもしれない区隊長という存在がいることだろうか。


 この儀式の大切なところは、試されているのは夏希ではなく、彼女の帰りを待つ日和たちの方だという点だ。鉄棒にぶら下がって待つ。一見地味に思えるかもしれないが、実はこれがとんでもなく辛い。自身の身体を腕二本、それも握力だけで支えること日頃から訓練をしている者でも、2、3分もぶら下がることができれば大したものである。さらにこれは手の抜きようがないので、もしかすると走るよりも辛いかもしれない。


 その最中、日和たちは自らに問いかけるのだ。果たして夏希にはこの苦行を耐えて迎えるほどの価値があるのだろうか、と。一度は仲間を裏切った彼女を、本当に許せるのか。


「お前たちの誰か一人でも地に足をつけたら即終了だ。そうなれば陣内を7区隊に戻すことはないし、これ以上助けてやるつもりもない。たとえ陣内の罷免が宣告されようとも、それを止めることもしない」


「…全部、私たち次第ってわけですね」


 どれだけ夏希が頑張ろうとも、それに日和たちが応えなければ全て無駄となる。それこそが徹美の狙いだった。


「念のため言っておくが、ここ数日間に陣内が経験した地獄は、お前たちが想像するよりも何倍も辛い日々だったはずだぞ。たった数分間鉄棒にぶら下がるだけなんて楽勝だと思えるくらいにな。私としては、陣内はもう十分に反省したし、今後は通常の教育に戻していいと思っている。だけどこれはあくまでお前たちの問題だ。私が許したところでなんの意味もない。区隊全員でこの課題をクリアしない限り、お前たちは元の7区隊に戻ることはできないんだ」


 位置に着けと言われ、日和たちは高くそびえる鉄棒の真下に立つ。そしてそのすぐ側で入念にストレッチをする夏希。その表情は真剣そのもので、一秒でも早く帰ってきてやるという気概が感じられた。


 試されるのは彼女たちの絆。向き合うのは己の心。全ては自分たちのために。7区隊がただの友達ごっこをしているグループではないことを証明するために。


「確認なんですけど」


 スタート直前、今まさに徹美がホイッスルを鳴らそうとした時、それまで黙っていた月音が急に声をあげた。


「これ、私たちが地面に足を着けさえしなければ良いってルールであってますよね?」


「…そうだが?」


「ですよね。安心しました」


 その為には鉄棒にしがみつく以外に方法はない。それ以上でもそれ以下でもなく、ルールはなにも変わってはいないはずだが、何故か月音は自信満々な表情だった。


「夏希ちゃん! 私たち、待ってるからね。どんなに遅くなっても、絶対落ちたりしないから!」


 グッと親指を立てる月音に、夏希は久し振りの笑顔を返した。いよいよ試練の時。滑って鉄棒を離さないように、足元の砂を手に着ける。


「もういいな? 用意、始め!」


 区隊長の合図で日和たちは一斉に高い鉄棒へ飛び付いた。同時に夏希は強く地を蹴り、がむしゃらにスタートを切った。誰かと競うわけでもない、ただ仲間の為に走る1,500m。勿論、応援してくれる声はない。ゴツゴツと重たい音を立てながら編上靴が地面を叩き、きつく締められた弾帯がより一層呼吸を苦しくさせる。体育服装の時よりも、遥かに走り辛い。だがそんなこと気にする余裕なんてあるはずもなく、とにかく懸命に腕を振る。


 もう二度と仲間を裏切らない。帰りを待ってくれている人の想いを無駄にするわけにはいかない。一度は見捨てられてもおかしくない過ちをした自分に、再びチャンスを与えてくれたのだから。


 そんな彼女を目で追いながら、日和たちも必死になって鉄棒を握った。開始からはや一分、これくらいならまだ余裕がある。しかし一秒一秒と時間が経つにつれ、自らの体重がその手に負担をかけていく。


「くうぅぅ…」


 最初に唸ったのは春香だった。苦しそうに顔を歪ませ、強く歯を食い縛っている。今にも手を離してしまいそうな様子だが、まだ五分と経っていない。このままでは夏希が戻ってくるまで到底耐えられそえにない。


「根性だよ! 春香ちゃん!」


 自らにも言い聞かせるかのように月音が声を張り上げる。


「もうちょっとで夏希ちゃんは帰ってくる! 絶対帰ってくるから!」


「…ほんとに、そうかな?」


 滲み出てくる疑いの声。その主は秋葉だった。


「そうやって夏希を信じて、それで裏切られたんじゃなかったっけ?」


「そう…だけどっ!」


 月音はなにも言い返せず、汗が首筋を伝う。思えば今回一番悔しい想いをしたのは彼女だった。どんなに覚えが悪くても連日付きっきりで勉強を教えてあげて、どうすれば夏希の為になるのか一生懸命考え、勉強用のノートまで作ってあげた。その結果が「カンニング」という不正行為だ。挙げ句それすらも「秋葉に世話になった分、悪い点数は取れない」という言い訳をした。


 反省した。もう二度としない。口で言うだけなら簡単だ。だから罰を受けた。身に染みて後悔した。それは十分理解している。


 だけどどうしても僅かな不信感が拭いきれない。心のどこかに残るわだかまりが、徐々に秋葉を揺さぶってくる。


「私も、同じことを考えてたわ…」


 ふと秋葉に続くように、冬奈も声を洩らす。


「確かに陣内学生は反省していると思う。あれだけ区隊長に罰を受けたんだもの。でも、それが一時のものではないって、どうして断言できるの?」


「正直私も、まだ陣内さんを信じきれないというか、あまり物事を真剣に考える人ではないですから…勿論そこが彼女の良さでもあるんですけど」


 次々と流れ出てくる夏希への不満。本当にここで許してしまって良いのか。大切な仲間であるが故に、簡単に事を終わらせることができない葛藤。体力的にも精神的にも限界が近いのか、夏希を待つ秋葉たちの手は殆ど開き、指先を引っかけているだけとなっていた。心が折れればすぐに離れてしまう、ギリギリの状態。ここまで皆を励ましていた月音も、これ以上どうすれば良いのが分からなくなっていた。


(思いの外脆かったな…)


 呆気ない結末だと、苦しむ教え子を眺めながら徹美は軽く地面を蹴る。この調子なら、あと数分もすれば誰かが手を離すだろう。それも体力的に無理なのではなく、これ以上夏希を待つことはできないという諦めで。彼女たちであればこれくらいの障壁は乗り越えてくれるだろうと考えていたのだが、どうやら思い違いだったらしい。無駄に苦しませる必要もないので、その時が来ればすぐに終了を告げれるようにと、徹美は静かに笛を咥えた。


 その時だった。


「だからっ! 私たちが夏希を変えるんだっ!」


 叫んだのは日和。今日いちばん大きな声で、遠く見えない場所を走る夏希に届けるかのように。


「ここで私たちが諦めなければ、夏希はもう絶対に裏切るようなことはしない! 私たちの問題だからこそ、私たちがきっかけになるんだ!」


 夏希! と空に向かって吠えるように名前を呼ぶ。


「私たちは裏切らないよ! 絶対! 初めて出会った時、そう約束したんだ! だから夏希も、最後まで全力で走ってよ! パイロットになるまで!」


 咥えていた笛が、ポロリと徹美の口から落ちる。今まで見たことのない日和の一面。導入教育中、後任期と揉めた時ですらこんな顔は見せなかった。これが彼女の底力とでもいうのだろうか。


「落ちてたまるか! 負けてたまるか! 私たちは、六人全員で強くなるんだ!」


 しかし気迫だけではその身体を支えることはできない。本人の意思とは裏腹に、日和の腕は疲労でブルブルと震え、今にも崩れ落ちそうだった。ここまでか。もう少し彼女の頑張りを見ておきたい気持ちが、徹美の心を抉ってくる。


「そうだよ! ここで負けちゃいけない!」


 と、日和の気迫に激励された月音がぐるりと身体をひっくり返し、片方の膝を鉄棒にかけた。足掛け上がりの体勢だ。


「区隊長! 確認しましたからね? ルールは地面に足を着けないこと、それだけだって!」


「ああ…そうだ。そうだとも! お前はなにも間違ってない!」


 これは面白い展開になってきたと、思わず徹美の口角が上がる。完全に逆さ吊りの状態となった月音はあまりに不恰好だが、しかしこうすることで腕の負担は一気に軽くなる。まだまだ彼女たちは終わってなどいなかったのだ。


「どんなにカッコ悪くてもさ、生き残れさえすればいいんだ! それが諦めないってことだよ!」


「くっそ…分かったわよ!」


 月音に続くように冬奈も足を鉄棒にかける。続いて春香も、そして秋葉も、鉄棒に抱きつきしがみつき、なんとかして楽な姿勢をとろうと無様な格好を晒す。しかし徹美にはそれが楽しくて仕方ない。


 この一瞬の間になにが起こったというのか。一度は完全に崩れかけた彼女たちの絆は、今や見違える程に強く固く輝いている。それはまるで小さな火種を燃え盛る炎にまで強くさせたように。そのきっかけとなったのは間違いなく日和だが、どうして彼女の一言だけで全員の心のを動かせたのか。魔法でも見せられているような気分だった。


 しかし月音には分かる。冬奈も春香も秋葉も、誰もが日和に助けられてきたから。たとえ絶望の縁にいようとも、彼女だけは諦めずに声をかけてくれたから。だからこそ、その言葉には人の心を動かすだけの力が宿っているのだ。


「陣内学生、早く戻って来なさいよ! これだけ皆を待たせてるんだから、高くつくわよ!」


「傷付けるようなこと言ってごめんなさい! でも私たち、陣内さんに帰ってきて欲しいから!」


「テストのことはもういいよ! だからっ! 早く!」


 それぞれが夏希に想いをぶつける。今までどうしても出てこなかった心からの叫び。空中分解しかけた7区隊が再び団結した瞬間。同じ航学出身であり、長年自衛官を勤めている徹美でも、こういう胸が熱くなるような瞬間は目にしたことがなかった。


 そしてそこへ姿を現す夏希。重たい装具をものともせず、ラストスパートをかけて駆け込んでくる。決して手抜きなどしていない、一生懸命な走り。もしかすると日和たちの声が彼女に届いたのだろうか。そんな風にも見えた。


 まるで竿に干された雑巾のような仲間たちが、頑張れ、走れと口々に叫ぶ。そうするとまた夏希の足が強く地を蹴る。


(いいぞ…もっと、もっと速くだ!)


 いつの間にか徹美は彼女たちの熱に取り込まれていた。手に汗を握り、飛び出そうとする声を抑えながら、一瞬一瞬を目に焼き付ける。これこそが同期の力。これこそが航空学生。ここを卒業してから数年間、徹美が忘れていた感覚だ。かの王様も、メロスが刑場に辿り着いた時同じ気分だったのだろうか。


「ああぁぁぁ!!」


 雄叫びと共に夏希がゴールする。それを待っていた仲間たちはほぼ同時に地面に落ち、力尽きて倒れる彼女のもとへと駆け寄った。汗や土にまみれた身体で肩を抱き、互いに健闘を称え合い、中には涙する者も。そんな若者たちの輪に加わりたい気持ちを、徹美はグッと堪えていた。


 もはや彼女たちにかける言葉は必要あるまい。夕闇の中徹美は少し寂しげに笑うと、静かにその場を後にした。



 そしてそんな7区隊の様子を、群庁舎の影から見ていた隊員が二人。


「なんだこいつら…一体なにをしてるんだ」


 困惑の表情を浮かべる井上1尉。そしてすぐ側には2区隊長の小幡1尉が立つ。


「一言でいうなら青春ってやつなのかもしれませんね。あの若さが羨ましいです」


「ただの茶番劇じゃないか。あれでなにが解決したっていうんだ。これで彼女は心を入れ換えたから、カンニングのことは水に流せとでも言いたいのか?」


「まさか。この件についてはしっかり会議にかけて、陣内には改めて厳重注意をすべきです」


 ただ…と小幡は目を細くする。


「あんなに仲間に大切にされている隊員を、私は今まで見たことがありません。これは私の直感ですが、彼女は…彼女たちは将来良いパイロットになるでしょう。途中、間違えることもあるかもしれませんが、その度にああして皆で乗り越えてくれると思います」


「将来性があれば、なにをやっても許されると?」


「そうは言っていません。罪には罰を与えるのが我々の鉄則です。しかし首を切るのは簡単ですが、そこから失うものも大きいはず。陣内を失ったとして、私は彼女以上の人材を他から引っ張ってくることはできません。そこは井上1尉も同じでは?」


「…否定はせん」


「であれば、どうか拾ってあげて下さい。罪を憎んで人を憎まずと言うじゃありませんか。生意気ではありますが、教育とはそうあるべきだと私は思うのです」


 井上は今一度、日和たちのことをじっくりと眺めた。ボロボロになった仲間に肩を貸し、ゆっくりゆっくりと隊舎に戻っていく。決して格好よくはないのに、何故だかその背中は頼もしく見えた。


 ああいう若者こそ、今後の自衛隊を背負うべきなのか。相変わらずパイロットのことは好きになれない井上だが、彼女たちに限っては少しだけその認識を改めるような、そんな魅力を感じていた。


「明日の会議では、陣内の学生教育を継続させるよう進言してみる。だが期待するな。進言するだけだぞ」


「ご理解頂けたようで良かったです」


 からかうな、と井上は渋い顔をする。理解は示すが、馴れ合うつもりはない。


「それとだ、陣内にはしっかり勉強させておけ。近いうちに再試験を行うつもりだ。せっかくチャンスを与えてやったのに、再試も落としましたではかなわん」


「お任せ下さい。そういうのは我々、得意ですので」


「…あんまり無茶なことはさせるなよ」


 ふと、群庁舎に戻ってくる徹美が小幡たちの存在に気付く。なにか一つ大きな仕事を終えたような、やりきった顔。学生の教育なんかやりたくないと文句をたれていた彼女が、この数ヵ月で随分変わったものだと小幡は思う。


 ちょっと外に出ただけで、じわりと背中が汗で濡れる。まだ冷めないほとぼりの中、小幡は彼女を迎えに歩き出した。


 夏はまだ始まったばかりだ。

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