最後の居場所

 その時は突然にやってきた。


 カンニングという、学生としてあるまじき不正行為。犯した罪にはそれ相応の罰を与えて示しをつけるのが組織というもので、今回の一件を区隊長らが黙って水に流すはずがなかった。


「数日後には会議が開かれ、お前に学生免が宣告されることだろう。だがそんなことはさせない。死ぬ時はせめて自分で死ね。この数日の間に、私はお前の口から「辞めます」と言わせてみせる」


 徹美の一言で開始された夏希への「しごき」はあまりにも凄まじく、他の学生たちも思わず目を逸らしたくなる程だった。最早彼女を他の学生と同様に扱う必要はなし。朝礼等の全員が整列する場面では常に列外として扱われ、朝礼場の隅にある鉄棒にひたすらぶら下がることを命ぜられる。僅かな休み時間では草むしりや窓拭きなどの清掃作業。訓練には参加させず、ひたすら反省文を書かせる…等々。この間徹美は片時も夏希の側を離れに監視をするのだから手を抜くこともできない。


 導入期間中ですらあそこまで追い込まれることはなかったと、その様子を横目に見ていた同期たちは後に語る。体力的にも精神的にも負荷をかけていく徹美のしごき。それは彼女自身が学生だった頃に受けたそれと同様のものであり、数年前までの航学はあんなにも厳しかったのかと、見る者を恐怖させた。


 しかしそんな教育も昔だから許されたこと。コンプライアンスに厳しい現代だったら「パワハラだ」と訴えられても文句は言えない。実際、彼女の行きすぎた指導にはその初日からストップがかかった。それも事件の中心であろう教育隊の方からである。


「そんな追い込むだけの乱暴な教育に、一体どんな効果があると言うんだ!」


 他の部隊の隊員も行き交う群庁舎の廊下で、人目もはばからず井上1尉が声をあげる。誰よりも「夏希を辞めさせろ」と騒いでいた張本人だ。


「なんです? 突然」


 特に悪気もない、しれっとした調子で徹美が返すと、彼はますます顔を赤くさせた。


「お前たちパイロットはいつもそうだな! 一方的に怒鳴ったり、時には手を出したり、帝国主義の旧軍からなにも変わってない! だからろくな人間が育たないんだ!」


 そんなの個人の差だろうと、ヒステリックになる井上を前に徹美は呆れて肩を落とす。


「そもそも辞めさせるつもりでやっています。貴方に実害はないでしょうに」


「だったら尚更、私に話を通すべきだろう? 彼女のことは能力審査会議の場でしっかりと裁いてやる。そもそも今回の一件に学生隊は関係ないじゃないか」


「関係ない? 学生の進退を決めるのに学生隊は関係ないと?」


 徹美の目が鋭くなる。剥き出しにされる明らかな敵意。失礼は承知の上だった。


「貴方がどんな基準をもって学生の罷免を主張しているか知りませんが、彼女らは戦闘操縦者候補生です。大学生を育てているわけじゃない。将来、生きるか死ぬかという世界で闘う人間の適性を、貴方たちだけで見極められるのですか?」


「なんだ偉そうにっ。パイロットにはそれが分かるって言うのか?」


「そのパイロットを育てる機関がこの航学群であるはずですよ。勘違いしないで頂きたい。防大や幹候校とは違うんです」


 こういう態度こそ、彼がパイロット嫌いになる原因なのだろうということは徹美も薄々感じてはいた。あなたと私は生きている世界が違うという上から目線。だがこっちは実際に命をかけて空を飛んでいるのだから、そこを軽んじて貰っては困る。どんな仕事も持ちつ持たれつ。互いに協力し合うのは当然のことだが、それらは全て航空機を飛ばす為という航空自衛隊の使命を忘れてはならない。


 どうも納得いかない様子の井上に、黙って見ておけと言い残してその場を後にする。向かう先は学生隊舎。今は部活の時間なので隊舎の中には誰も残っていないはずだが、夏希には自分の居室で待機しておくようあらかじめ命じていた。


 夕食後、常装で自分のロッカー前に休めの状態で待機。これが一体なにを意味するのか、一年以上も航学生活を続けてきた者なら察しがつくはずである。徹美は真っ直ぐに彼女の居室へと向かい、やや乱暴に扉を開けると同時に、長い課業後の幕開けを告げるその一言を冷酷に言い放った。


「非常呼集。乙武装で3分以内に舎前へ出てこい」





 隊舎のすぐ側に位置するグラウンドから聞こえる、野球部やサッカー部の練習に勤しむ声。太陽は西の空へと半分沈み、浴場へと向かう学生もちらほらと出てきた。しかしそんな彼等を気にする暇もなく、夏希は隊舎の中を駆け回る。


 唐突に始まった非常呼集訓練。だがそこに驚きはなく、いつかこの時が来るだろうなという予想はしていた。それだけこの訓練は、学生をシメる儀式として有効なのだ。例えば普段の態度が悪かったり、誰かがやらかしたり、その他様々な理由でこの罰を受けてきた。慣れっこといえば慣れっこだ。


 しかし今日の呼集はいつもと違う。


「30秒遅い。間に合うまで繰り返すぞ。次の服装、常装。分かれ」


明らかに短すぎる制限時間。まるで人形のように着せ替えが繰り返され、移動は常に全力疾走。どんなに辛くても、それを励ましあう仲間もいない。とにかく無心でこの時間を耐える他ない。


 繰り返す毎に身体の動きは悪くなり、当然時間にも間に合わない。これ以上同じ訓練を行っても意味がないと判断したのか、次に徹美は延々と腕立て伏せをするよう命じてきた。


「どうだ辛いか? 止めたいか? 止める方法ならあるぞ。お前が「辞めます」と言えば、すぐにでもこんなこと止めてやる」


「言い…ませんっ!」


 滝のように汗が流れ、小さな水溜まりができる。身体を支える腕はブルブルと震え、今にも崩れてしまいそうだ。


「どうしたどうした。腕が止まってるぞ。元気なのは口だけか? いつもお前は口先だけだな」


 いつの間に用意していたのか、最早姿勢を維持するだけで精一杯な夏希に、徹美はバケツに貯めた水をぶっかけた。土と汗にまみれた身体が少しだけ洗われ、飛びかけていた意識が戻ってくる。


「どうだ陣内、馬鹿らしいとは思わないか。こんなことやめて、一緒に酒でも飲みに行こう。どうせパイロットになんかなれないんだ」


「嫌です…パイロットになります」


「お前のような卑怯者がなれるとでも? 一体誰がお前みたいな奴に命を預けたがる? 操縦席に座らせたところで、機体ごと敵に寝返るのがオチだ」


「裏切りません…自衛官として、最後まで闘います」


「デタラメ言うな」


 もう一杯、バケツの水を頭からかける。だが夏希は怯むことなく、むしろ元気を貰ったかのように再び腕立て伏せを始めた。空元気。そんな風にも見えるが、正直なところここまで彼女が耐えるとは徹美も思っていなかった。それだけパイロットになりたいという気持ちが強いのかもしれないが、まだ徹美は納得しない。ここで許してしまえば、きっと夏希は同じ過ちを繰り返すだろう。そんなことをさせない為にも、今ここで彼女の心の内を解放させてあげなければならない。


 力尽き、地面に崩れる夏希。もう根性だけではどうにもならないくらいに身体が悲鳴をあげている。


「何故だ。なんでそんなにも耐えれる。お前みたいな奴が…」


「パイロットに…」


「それだけか?」


「夢だったんです。子供のころから…」


「その性格では無理だ。言ってみろ。一言「辞めます」と」


 取り繕ったような、月並みの言葉を徹美は求めていない。彼女の本心を引き出すには、まだなにかが足りないようだった。


「どうせ今度の審査で落とされるんだ。だったら今すぐ辞めてしまえ」


「嫌です!」


「辞めろ!」


「嫌です!」


「そうか分かった。だったらこっちから叩き出してやる」


 もうこれ以上は無駄だと、見捨てるようにその場を立ち去ろうとする徹美。それがきっかけだった。


「そんなことさせるもんか!」


 声を荒げ呼び止める夏希。今までにない反応とその言葉の強さに、思わず徹美は振り返った。


「他に…他に行くところがない。私にはここしかないんだ…」

 

 瞳に涙を貯めて、けれど意思のある強い表情で夏希は無理やり腕立て伏せを続ける。


「グレてた私を拾ってくれて、仲間だと認めてくれて、ようやく見つけた居場所なんだ。ここが最後なんだ。もう失くしたくないんだ…」


 半べそをかく彼女を見て徹美は目を丸くした。予想もしなかった言葉。きっとそれこそが彼女の本心であり、ようやく心を開いてくれたのだろう。


「バカなことをしたと思うか?」


 今までとは打って変わり、優しい口調で問いかける。泣きながら深く頷く夏希に、徹美は目を細くした。


「仲間を裏切ったこと、後悔しているか?」


「みんなの優しさに甘えて、酷いことをした。やっと分かったんだ…」


「だがこの世界は、何度もチャンスを与えてくれる程甘くない。一度取りこぼしてしまったものはそう簡単には戻ってこない」


 だから、と徹美は夏希の腕立てを止めさせ、肩を貸して立ち上がらせる。


「もう二度と卑怯な真似はするな。中には何度も助けてくれるお人好しもいるが、それを利用するような奴はどうしようもないクズだ。いずれ痛い目を見る」


「まだ、やり直せますか?」


「お前がその気なら、チャンスは残ってるさ。幸い、ここにはお人好しが何人もいるようだ。そうだろう?」


 彼女の声に応えるように隊舎の中からひょっこりと日和が姿を現す。他の学生はとっくに部活を終え、風呂を済ませて自習に向かっているというのに、彼女はずっと夏希がシゴキに耐えるのを影から見守っていたらしかった。


「今日だけじゃない。この数日間、私の命令でお前がクソみたいな生活を送っている中、いつもこいつはお前を見守っていたんだ。なにができるわけでもないのに、黙って見て見ぬふりができず、お前の気持ちが折れないことを祈りながら」


 馬鹿な奴だ、と徹美は呆れて笑う。


「とんだお人好しだ。大馬鹿だ。私がやめろと怒っても、構わずこうしてお前の様子を見に来る奴だ。良い同期だな。正直羨ましいよ」


 何故彼女がここまで夏希のことを守ろうとするのか徹美には分からなかった。きっと彼女も本能的に動いているだけで、そこに明確な答えはないのだろう。同期だから…という理屈のない理由。普段はどうでもいいことまでゴチャゴチャと考えて抱え込むくせに、時々こうして衝動的に動く。それが坂井日和という人だった。


 夏希は徹美の手を離れ、ここまで自分を見守ってくれた仲間に駆け寄る。すっかり体力を使い果たし、おぼつかない足取り。そんな彼女をまるで母親のうに日和は優しく抱き止めた。


「ごめん、ひよちゃん…私…」


「いいんだよ。戻って来てくれて、応えてくれてありがとう」


 人は誰しもつまづくことがある。歩くのを止めて、そこに座り込んでしまう時がある。


 しかしそれは決して恥ずべきことではない。その現実を受け止めて、立ち上がらないことこそが恥ずかしいのだ。そうやって人は強くなる。だから日和は夏希を責めない。立ち上がる為に、負けずに戦ってくれたことに「ありがとう」と言って迎えてあげた。


「区隊長、夏希は…」


「認める。これで私からの下らないシゴキもおしまいだ。会議のことについては私に任せておけ。今後も陣内が続けられるように、なんとか井上1尉を言いくるめてみせるさ」


「あ、ありがとうございます!」


 まだ喜ぶな、と徹美は夏希の頭を小突く。


「全部が終わったわけじゃない。お前たちにはまだ、陣内を迎える為にやっておくべきことがあるはずだ。たった数日間私に虐められて、それで心を入れ直しました。今日からまた仲間として一緒に頑張ります…で、本当にお前たちは受け入れられるのか? 元々これは陣内だけの問題じゃなく、7区隊としての問題だったんだ。それを「許してやる」だなんて、どこか勘違いしてるよな」


 二人は揃って首を傾げる。少々言葉が足りない…というか、ややこしかったかもしれない。


「まぁつまるところ、お前たちにもケジメというのが必要だろうって話だ。10分後、7区隊は全員朝礼場に集合。陣内が元の学生に戻る為の、最後の儀式を行う。分かったら坂井は早く皆を呼んでこい」


「は、はい!」


 ほぼ反射的に、わけもわからずに日和は駆けて行く。まだ全部が終わったわけじゃない。その言葉がなにを意味するのか、区隊長はこれ以上なにをするつもりなのか、既に満身創痍な夏希が不安げに見つめると、徹美はまた楽しそうにニヤリと笑った。

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