駅伝競技会
航空学生過程では年中様々な競技会が行われている。駅伝や水泳にサッカー、銃剣道、綱引き、持久走等々、学生たちはいつだって各競技会に向けて練習を重ねている。その中でも特に駅伝競技会と水泳競技会については対番区隊対抗…つまり対番である先輩後輩が力を合わせて他の対番区隊と争う大会となっている。
すっかり夏の始まりを感じさせるほど暑くなってきた6月、いよいよ今年度最初の大会である駅伝競技会が行われる。学生の自主性を尊重するため、大会に向けた練習については各対番区隊ごと所定とされており、学生たちはこの大会においてなんとしても優勝するため、約一月前から死に物狂いで練習を続けてきた。
そう、全ては大会で優勝するためである。航学において競技会に求められる結果はそれ以外になく、準優勝や、負けたけど頑張ったなんて言葉は存在しない。勝利こそが全ての世界だ。
なぜそこまで勝利にこだわるのか。結果がどうあれ内容が充実していればそれでいいのではないかという声もあるかもしれない。しかしそれは「教育」を目的とする学校であったり「交流」を目的とする地域のイベントだから言えることであって、自衛隊のそれとは求めるものが違う。
戦争には引き分けなんて存在しない。多くの歴史に見られるように、そこに存在するのは勝利か敗北かのどちらかである。勝者のみがその栄光を手にすることができ、敗者には屈辱のみが残る。だからこそ彼等に敗北は許されない。実戦だろうが小さな競技会だろうが、そこに求められるのは飽くなき勝利への執念のみであり、航空学生である彼等も自衛官としてそういう世界に生きているのだ。
午前中の座学を終え、昼食でエネルギーを十分に補充したならば、いよいよ午後から大会本番である。日和属する1・4区隊の面々も早々に準備を終え、朝礼場に集まって決戦前の集会を開いていた。
「おまえら今日までよく頑張ってきてくれた。まずは礼を言う。ありがとう!」
1区隊の杉田が皆の前に立ち、声を張る。彼は高校時代陸上部に所属しており、長距離部門でインターハイ出場の経験を持つ実力者だ。今日までこの区隊での練習プランは全て彼が計画し、リーダーとして全員をまとめ引っ張ってきた。
「練習中、厳しいことを言われて辛かった奴もいると思う。それでも黙って俺についてきてくれたこと、本当に嬉しく思う。しかぁし! それも今日優勝しなければ全ては水の泡! 俺たちは今日、なんとしてもこの大会を制覇しなければならないことは分かっているな!」
どんな努力も結果が出なければ意味はないと杉田は語る。それが中学高校とずっと陸上部として走り続けてきた彼のプロ意識というものだった。
この辺り、同じように高校時代陸上部に所属していた日和にとっては彼に共感するところがあった。どんなに努力しようとも、記録や順位などで結果を出せない限り評価されないのが勝負の世界。彼女自身、それで何度も苦い思いをしたことがあったから身に染みて理解していた。
杉田が皆に渇を入れた後、入れ替わりで4区隊長の猪口3佐が前に立つ。それと同時に青木助教が一つのクーラーボックスを運んできて、中に入っている栄養補給ゼリーを皆に配り始めた。
「それは俺と1区隊長からの差し入れだ。これ飲んで、今日は絶対に勝ってこい!」
いただきます、と声を合わせて学生たちは開封する。こんなものを頂いてしまったらもう負けるわけにはいかない。
「70期、71期による最初の勝負の舞台だ。君たちの団結力というのを見せてもらうぞ」
今度は1区隊長、国本3佐が口を開く。杉田や猪口3佐と違い、だいぶ落ち着いた声色だ。
「私が君たちに言えることは一つ。自衛隊における勝負において、負けることは直接「死」を意味する。例えば将来君たちが空で敵と戦った時、そこで負けるということは即ち撃墜されることと同じことだ。負けた者には次回なんて用意されていない、ということだけ忘れるな」
負けたら死ぬ、と聞いて日和は背筋を伸ばした。
(そうか、ここは自衛隊なんだ)
ここでの厳しい生活が当たり前のように感じ始め、いつの間にか忘れていた感覚を思い出す。ここは今まで暮らしていた世界とは違う、自衛隊という組織。勝負の世界がなんたるかを日和は分かったつもりでいたが、それも所詮は
よく冷えたゼリー飲料を日和は一気に飲み干し、熱くなりすぎていた頭から冷静さを取り戻した。
競技会は1区間3kmを10区間、各対番区隊から3チームずつ出場して行われる。駅伝選手に選抜さなかった学生については個人走部門に出場し、それぞれ順位によって点数が付けられていく。その総合点数が最も高かった区隊が本競技会の優勝というわけだ。
割と駆け足が得意だった日和は第2チームに選抜された。各チームに設定されている女性枠の一人だ。
男性と女性ではどうしても体力的に大きな差がある。だから駆け足が速い者から選抜していくと、必然的に男性ばかりが選ばれてしまうことになる。それだと公平性に欠けるということで、各チームに必ず一人は女性を入れることになっている。ちなみに第1チームには若宮が、第3チームには巴が選抜されている。
開会式を終え、各自準備体操やアップの時間となる。まずは個人走部門が実施され、その後駅伝部門となる。それぞれ出走時間が異なる為、各走者はそれから逆算して時間を調節しながら体調を整えていた。
「お疲れ日和ちゃん。私は先に行って来るよ」
ストレッチをしている日和のところに、もう間もなく出走する予定の月音がやって来た。少し息があがる程度まで走り込んで心拍数を整え、走り出す準備は万全といった様子だ。今まであまり本格的に長い距離を走ったことのなかった彼女だったが、ここ数週間の練習のおかげですっかりアップの仕方まで覚えたようだった。
「行ってらっしゃい。私はこれからアップに行くからスタートの瞬間は見れないけど、応援しているからね」
日和が走るのは先鋒である第一区。ちょうど個人走が行われている時がアップの時間にあたるため、残念ながら日和は月音の走りを見ることはできない。
「まっかせてよ! 選抜からは洩れちゃったけど、私だってひとつでも順位を上げて優勝に貢献するからね! 相手が男子だろうが、遠慮なく抜いちゃうんだから!」
えへんと胸を張る月音。毎度のことながらこの根拠のない自信は一体どこから来るのだろうと日和は思うが、きっとこのおおらかな性格のおかげで彼女は緊張などに縛られることなく、本来の力を十分に発揮できるのだろう。
と、そこへ日和と同様に準備運動をしていた夏希が通りかかった。彼女も3・6区隊の選抜選手で、第一区の走者だ。
「おーい、つきちゃん。個人走出場者は集合しろってさ」
「あ、ほんと? ありがと夏希ちゃん。じゃ、またね日和ちゃん!」
ぶんぶんと手を振り、月音は走り去っていく。そんな彼女を見ながら、まるで犬みたいな子だと夏希は笑った。
「同期で競争するのは初めてだね、夏希」
「おっとひよちゃん、馴れ合うつもりはないぜ~? 同期とはいえ、今日はあたしら敵同士なんだからね」
「分かってるよ」
急に態度を変える夏希だが、それがただの演技であることはすぐに分かり、日和はなんだか可笑しかった。
「お互い頑張ろう。どっちが勝っても恨みっこなしで」
「ふふん。まぁせいぜい私の背中を見ながら一生懸命走るんだね」
笑いながら二人は握手を交わす。たとえ今日は敵とは言え、同期であり仲間だという本質は変わらない。だからこそ正々堂々と、勝つためとは言え汚い手段を使おうとは日和は思わなかった。
いよいよ本日のメインイベントである駅伝部門がスタートする。「華の1区」と呼ばれるだけあってこの区間準急にはなかなかの強豪が揃っており、日和や夏希が先頭集団に加わって戻ってくることはまず難しい。そこで日和に与えられた任務は「離されすぎないこと」だった。前を走る者の背中が見えなくなるほど離されてしまってはモチベーションも上がらず、タイムもあまり伸びなくなる。だから追い付くことは無理でも、せめてこれからたすきを繋ぐ走者たちの射的圏内に敵を捉えておくことが日和の任務となった。
日和とほぼ同じ実力を持つ夏希がスタート時点から一緒だったことは両者にとっては幸運で、二人はしばらく抜きつ抜かれつの良い勝負を繰り広げながら走ることとなった。
司令部庁舎、飛教群、整補群のエリアを次々駆け抜けて行き、道の脇に立つ多くの隊員から声援を送られる。駅伝大会は基地全体を使っての行事とだけあって駅伝のコースとなっている道は交通制限がなされ、勤務に支障のない隊員については部隊の旗などを持ち寄ってランナーの応援に来てくれている。
「頑張れ日和!」
管制塔から補給倉庫にかけての長い直線に入ったところで、日和の親対番である69期の早奈子が応援してきた。
「相手が男だからって遠慮はいらないよ! そのまま突っ走れ!」
知っている人からの応援を受けると俄然やる気が出るというもの。気合いを入れ直した日和は夏希をややリードし、そのまま順位を譲ることなく第一区間を走り抜けた。
日和の繋いだたすきはその後順調に順位を上げていき、終盤には先頭集団に加わる程にまで追い上げていた。ひとつ順位が違えば優勝できるかどうかの結果が変わってくる。ここまでくると最早実力というよりは気力の勝負だ。各チームのアンカーはそれぞれのたすきを受け取り、最後の勝負へと身を投じていった。
大会開始から数時間して全ての競技は終了し、すぐに閉会式が開かれた。大会結果についてはこの閉会式で発表されるため、この時点で学生たちはどの区隊が優勝したかは分からない。
「大丈夫…大丈夫だ…計算では勝ってるはずなんだ…」
朝礼場に並びながら、ぶつぶつとうわ言のように杉田が繰り返す。全員が全力を尽くして臨んだ大会だったが、惜しくも駅伝部門の結果は1位を逃してしまう形となった。しかし総合優勝はそれぞれの順位から出される点数で決まるので、1位を逃したからといって負けが確定したわけではない。
(そうだ。杉田先輩の言っている通り、優勝してるのは私たちのはずだ)
日和も自分に言い聞かせる。決して勝利を疑っているわけではないが、そうしていないとどうにも落ち着かなかった。
「大会会長臨場、部隊気をつけ」
学生隊長が姿を表し、ざわついていた会場が一気に静かになる。いよいよ成績発表の時間だ。
「優勝区隊発表。優勝区隊、3・6区隊! 代表学生前へ!」
3区隊の関谷が大きく返事をして前に出る。瞬間、3・6区隊の一同は歓声をあげそうになるのをぐっと堪え、反対に他の区隊の面々は悔しさで僅かに顔を伏せた。
(負けた…)
日和の頭が真っ白になる。当たり前だが、勝者がいれば敗者がいる。それくらい分かっていたはずなのに、やはり敗北というのはなかなか受け入れがたいものだった。なにが足りなかったのか、なにで劣っていたのか。そんなことを考えるよりも、今はただただ歯を食い縛るばかりだった。
大会の全てが終了した課業後、優勝した3・6区隊については特別に外出が許可され、祝勝会の為に街へ出ていった。一方負けた2・5区隊は区隊長の命令で基地一周(約6km)のランニングに向かい、1・4区隊については再び朝礼場に集合するよう指示された。
「負けたな、お前たち」
猪口3佐の言葉に、学生たちは何も返せない。惜しかったなんて言ってもらうつもりもないし、負けたことの言い訳をするつもりもない。ただ負けたという事実がそこにあるだけで、それ以外にはなにも必要なかった。
「大会の前に1区隊長が言ってたよな? 勝負に負けたら俺たちはどうなるんだ?」
死にます! と学生たちが一斉に答える。すると区隊長らの顔は一層険しくなった。
「じゃあ死んでもらおうか」
鉄棒にぶら下がれ、と猪口3佐は言う。同時に助教たちが学生に罵声を浴びせ始め、慌てて日和たちは自分たちの身長よりも高い位置にある鉄棒に飛び付いた。
足は地面に届かず、それぞれの体重を鉄棒を掴む握力だけで支える。一見地味で楽そうだが実はそんなことはなく、30秒も経てば力尽きて手を放してしまう学生が出てくる。
「おらぁ! 落ちたらすぐに飛び付け!」
「まだ堪えてる奴もいるんだぞ! お前だけ楽するんじゃねぇよ!」
1分もしないうちに日和も地面に落ちるが、また鉄棒に向かってジャンプする。が、すでに握力は限界で、数秒するとまた落ちてしまう。
「この感覚、忘れるなよ」
苦しさで助教たちの罵声は耳に届かないが、猪口3佐の言葉だけははっきりと聞こえた。
「苦しいからって自分から手を放して、そうやってお前らは勝利を逃していくんだよ。悔しかったら死に物狂いで掴み続けろ。苦痛から逃げる奴に勝利なんて永遠にやって来ないんだからな」
僅かでも滑り止めになればと、日和は手に砂を付けて鉄棒に掴みかかる。既に手には感覚が無くなっており、あちこちから声にならない悲鳴が聞こえ始める。それでもこの時間が終わることはなく、学生たちは何度も何度も手を放しては飛び付くというのを繰り返した。
(忘れるもんか! もう二度と負けるもんか!)
数えられない程地面に落ち、土に汚れても日和はすぐに立ち上がった。この手や腕の痛みは、きっと明日になれば感じなくなっているだろう。この苦しいという感覚も、今日の夜には綺麗に忘れてしまうに違いない。
だがあと数ヵ月もすれば今度は水泳大会が開催されるし、その後も数々の競技会が控えている。今度こそ勝利を手にする為にも、この「屈辱」だけは忘れてはならない。
涙が、汗が地面を濡らし、辺りは徐々に暗くなっていく。先程まで学生を応援してくれていた隊員たちが、哀れむ目で日和たちを見て通り過ぎて行った。
「くそぉ…くそぉ…」
隣で月音が声を絞り出す。きっと彼女も日和と同じことを考えているのだろう。だからこそ日和は彼女に何も言わなかった。
遠くから、2・5区隊がランニングをする掛け声や怒声が聞こえた。
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