服装容儀点検
多くの学校や企業に衣替え期間が設定されているように、自衛隊でも制服の移行期間は存在する。自衛隊の制服は冬服と夏服が明確に分けられており、地域にもよるが大方毎年5月と10月が両制服の併用期間となっている。
ならばその併用期間中は気候に合わせてどちらの制服を着用してもいいのかというと、実はそうではない。併用しても良いというのはその基地全体での話であって、各部隊ごと(例えば航学群や飛教群の群単位ごと)では制服を移行する日を揃える必要がある。そうしなければ同一部隊の中に冬服と夏服を着用した者が混在することとなり、非常に見栄えが悪い。
ではその制服を移行させる日はどうやって定めるのかというと、そこは部隊ごとで必ず服装容儀点検を実施することになっているので、これが基準となる。この際点検される項目は制服の着用要領に限らず、頭髪など身だしなみの状況、身分証等の携行状況など多岐にわたる。
点検などなくとも、常日頃から学生たちの身だしなみに目を光らせている区隊長や助教たちだが、この時ばかりは気合いの入れ方が違う。なにせ衣替え時期の服装容疑点検など、航学に限らずどの部隊でも実施されるイベント。身だしなみを整えることなど、自衛官としてできて当たり前のことだ。
朝の清掃時間も終わり、もうすぐ点検の時間となる。学生たちは制服に着替えつつ、靴を磨いたり着こなしを確認したりと、直前まで点検準備をしていた。
「月音、夏服にネクタイはいらないよ」
「あ、はい!」
若宮に指摘され慌ててネクタイを外す月音。後任期にとっては夏服を着用するのは始めてのことなので、こういった細かい部分で間違えてしまうことが多い。決して他人事ではないな、と日和は今一度自分の着こなしについて見直した。
5月も半ばとなり、いよいよ防府も初夏を迎えようとしていたが、朝はまだまだ肌寒い。昼間はいいかもしれないが、太陽が昇ってまだ間もないこの時間では、薄い生地の半袖でいるには厳しいものがある。
だというのに点検が行われる朝礼場は群庁舎のやや西側に位置しているため日陰となっており、そこに整列した学生たちに暖かい朝陽が当たることはない。だが誰一人として寒そうな表情をする者はおらず、ただじっと号令がかかるのを辛抱強く待っていた。
「航空学生総員127名、点検準備完了」
「隊形作れ」
「間隔を、開け!」
「点検を受ける者以外、整列休め!」
次々と号令がかかり、学生たちはそれに合わせてきびきびと動き、また止まる。そして隊長を始めとする基幹隊員らが点検官としてバインダー片手に学生間を歩き周り、学生は点検官が近くに来たら自動的に気を付けをして点検を受ける。
服装容疑点検や隊様点検と自衛隊では様々な点検が行われているが、点検要領はどれも似たようなものだ。基本は整列休めの姿勢(休めの姿勢とは違い、動いてはならない)で待機し、点検官が近付けば気を付けをする。
しかし何度経験しても、その緊張感に慣れることはない。こういった点検では普段の生活とは違って手を抜ける部分が無く、毎回全力をもって臨まなければならない。今日の点検も基幹隊員と学生共に気合いが入っており、特に後任期たちは緊張で寒さなんて感じていられなかった。
いよいよ学生隊長の野川2佐が日和の前にやって来た。今のところ不備を指摘されている学生はおらず、ここで日和が何か指摘を受けてしまうわけにはいかない。頼むから何事もなく終わってくれと、ただただ祈るばかりだった。
「うん。なかなかしっかり手入れされているな」
厳しい表情を崩しはしないが、満足そうに野川2佐は頷いて立ち去る。どうやら彼女に不備箇所はなかったようで、日和は安心して一つ息を吐いた。
その後も特に不備を指摘されるような学生はおらず、何事もなく点検は終わるものと思われた。
「身分証の
中隊長の猪口3佐の号令で学生たちは胸ポケットから身分証を取り出し、手を離した。
…はずだった。学生たちが一斉に身分証を手放した時、どこかでカシャンと物が落ちる音がした。瞬間、学生全員の背筋が凍る。頼むから身分証以外の何かであってくれと願うものの、それを確認するために首を動かすことはできない。
「身分証縛着の不備」
点検官、森脇2尉の冷たい声。直後に
「桜庭学生、縛着の不備!」
指摘事項を復唱する春香の声が朝礼場に響き渡った。
自衛官として基本中の基本、身分証の縛着について指摘されたのは彼女だった。
「点検官登壇」
司会の合図で野川2佐が朝礼台へと上がる。
僅か10分程度の点検はあっという間に終わり、点検結果と好評の時間となる。自衛隊における点検の評価には5段階あり、評価が高い順から優秀、極めて良好、良好、可、不可である。優秀の評価を貰えることは稀であり、大抵は極めて良好か良好、なんとか合格点という程度なら可、不可となると再点検だ。
今回の場合、指摘された不備箇所こそ少ないものの、身分証の縛着という大きな不備があったため、果たして合格点をもらえるかどうか怪しいところだった。
「点検の結果、可。一部着こなし等に不備はあったが官品の手入れは適切にされており、再点検の要無しと認む。しかしこれに慢心することなく、今後も自衛官としての基礎を忘れることのないよう厳正な品位を維持していけ。以上終わり」
好評を終えて解散を告げられる。なんとか再点検は免れ安心する学生たちだったが、それで全てが終わる程ここは甘くなかった。
「後任期学生は期朝礼の位置に集まれ! 急げ!」
中隊長の猪口3佐の怒号に近い声が響き、学生たちは再び背筋を伸ばした。偶然、日和の目に顔を真っ青にした春香が入り、気をしっかり持つよう肩を叩いた。これからなにが行われるのかなんて考えたくもなかった。
こんなに腕立てをさせられたのはいつ以来だろうかと日和は思う。せっかく綺麗に仕上げた制服も、この腕立てでもう汗と土に汚れてしまっている。点検よりもこの時間のほうが長いのではないかと思ってしまうが、実際のところはまだ5分と経っていなかった。
「甘いなお前ら。甘すぎるよ」
猪口3佐が怒りを
「隊長はお情けで可の評価をしてくれたかもしれないけどな、俺から言わせりゃ不可だよ。不可!」
身分証の縛着で指摘を受けるなど、点検に臨む姿勢の問題だと猪口3佐は言う。制服などの官品の手入については点検直前ではどうしようもないところがある。しかし身分証の縛着などは直前でもいいから自分でチェックしてみればすむこと。それすらを見落としてしまうとこは被点検者としての自覚の欠如を意味する。内容どうこうより、こんな基本的な部分で指摘を受けてしまったことが彼にはどうしても許せなかった。
そんな中隊長の怒りは学生に腕立てをさせたくらいで治まるはずもなく、後任期学生に関してはこれから毎朝、全員合格の評価をもらえるようになるまで服装容儀点検を行うこととなった。
実はこれがかなり厄介なもので、と言うのが60人以上もの学生が誰一人服装の乱れなく集まれることなど非常に稀なことなのだ。たとえ59人が完璧に準備をしてきても、誰かがうっかりミス一つしてしまえば点検は不合格。その時間というのも、徹底されたアイロンがけと靴磨きを限られた少ない時間で行わなければならないのだから、これはなかなか容易ではない。
翌日予定されていた点検では一部の学生が点検時間に間に合うことができず、点検以前の問題として不合格。その翌日では数人が制服のシワについて指摘され不合格。その翌日は汚れ…と誰もが予想したように、なかなか合格を貰えない日々が続いた。
「お前ら時間が解決してくれるとか考えるなよ。俺はやると言ったらやる。全員合格ができるまで、たとえ土日だろうが毎日点検を行うからな」
土日の外出は制服を着て出て行くわけだから、当然点検に合格しないと外出の許可も降りない。せっかくの休日を潰されるとなると、いよいよ学生たちは危機感を抱き始めた。
しかし、このままではマズイと分かっていても具体的な対策はなにも思いつかない。なにせ誰も手を抜いているわけではないのだから、これ以上注意を払えと言ったところであまり意味がない。
こうなってくると思わず愚痴がこぼれてしまうのが人間というもので…
「たくよー。もとはと言えば桜庭が身分証を着け忘れるから…」
自習時間の5区隊教場。一人の学生がそんなことを呟いた。
「だよな。あれさえ無けりゃこんな苦労しなくても良かったのに」
続くように別の学生も不満を口にした。決して本人に向けて言っているわけではないが、それを聞いてしまった春香はばつが悪そうに体を縮こませる。
「おい、それは違うだろ。なんで桜庭一人に責任を押し付けるんだ」
樫村が立ち上がり、やや強めの口調で反論する。こうなってしまうともう後には戻れない。教場の空気は一気に重たくなり、学生たちの感情もヒートアップしてくる。
「例えば一昨日、丸井、お前が点検に遅れなければこんなに長引くことも無かったんじゃないのか?」
「はあ? 俺のせいかよ。それこそ違うだろ。そもそもの原因を作ったのは桜庭だろうが」
「そうだぞ樫村。お前すぐ桜庭を庇おうとするけどな、本質を見失うなよ。正直、こいつに振り向いてもらおうっていう下心が見え見えなんだよ」
「なんだと!? もういっぺん言ってみろ!」
論点がずれていく彼等の口論を聞きながら、どうでもいいとばかりに沢村は目線を窓の外に向けた。こういう時は下手に首を突っ込んでもなにも解決しないので、なるべく関わらないに限る。みんな自らの鬱憤を晴らしたいだけで、放っておけばじきに治まるだろうと沢村は考えていた。なにも口出しできず、小動物のように背中を丸めている春香のことは若干気の毒には思ったが、それも彼にとっては関係ない。あんまりにも酷くなるようだったら止めに入ろうか程度に考えていた。
「もう…やめよう」
そんな時だった。普段沢村以上に自分の意見を口にすることのない秋葉が、この口論に割って入ったのだ。これには沢村も驚き、剃らしていた目線を彼女に向けた。
「なにかあった時、誰かのせいにするのは私らの悪い癖だ。過ぎたことを話していても仕方ないでしょ」
「なんだよ轟、桜庭のこと庇うのか?」
「誰を庇うとか、誰のせいとか、そんな話自体に意味がないって言ってるんだよ。仮に春香が全部悪かったとして、皆に謝ればそれで解決するの?」
相変わらず春香はなにも言わず、俯いたままだ。しかしその肩は僅かに震えていた。
「いつも私たちはこうだよね。責任を誰かに押し付けたくて、大事なことを忘れちゃうんだ…一体導入教育でなにを学んできたの?中隊長は春香個人じゃなくて、私達全員に対して怒っていたんじゃなかったの?」
今回の服装容儀点検で指導を受けたのは明らかに個人のミスが原因だ。しかし中隊長はミスをした個人に対してではなく、後任期学生全体に指導を行った。
連帯責任と言ってしまえばそれで終わりだが、本質はそこではない。春香が犯した個人的なミスは、同期のカバーで十分防げたミスだったはずだ。誰か一人でも春香と相互にチェックをしあえば済む問題なのに、それを怠ったことを中隊長は指導したのだ。
個人に足りない部分を集団の力でカバーする。それこそが組織としての長所であり、航学生活を乗り越えていく為の絶対条件。それを4月の導入教育で身体に叩き込んだはずなのに、いつの間にかそんな大事なことを忘れていた。
「もう一度原点に戻って、みんなでカバーし合おう。点検準備だけでなく、生活面全般も。みんなで助けあえば、導入を乗り越えた私達なら絶対合格できるはず」
秋葉の言葉で、教場は再び静かになった。樫村を始めとする全員が煮え上がった頭をヒートダウンさせ、自分の行動を見直し始めた。
(こういう役割はいつも坂井が担当していたけどな…)
秋葉が場を治めるパターンは珍しいなと思いつつ、沢村は再び目線を窓の外に向けた。
金曜日の朝、予定通り後任期のみの服装容儀点検が実施された。結果は何の問題もなく全員合格。あれだけ怒っていた中隊長も「やればできるじゃないか」と一言告げるだけだった。
点検の後、春香は後任期全員の前で頭を下げて謝った。しかしそれを受けて不満を口にしたり、彼女を責めたりする者は誰もいなかった。むしろ「もう終わったことだ」と水に流してくれる者がほとんどであった。
たかが服装の点検。毎日厳しく指導をしていれば、こんな形式ばった点検なんて必要ないのではないかという声もある。
しかし大切なのは節目をつけることだ。服装にしろなんにしろ、時折このように一つの行事として点検を行うことで、普段気付かなかったことや忘れていたことを思い出すことがある。
今回の服装容儀点検は、71期の学生にとって基本的なことを思い出させる良い機会となったと言えるだろう。
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