71期VS72期

 学生隊舎に轟く怒号、窓が揺れる程の大声。中には半べそをかきながら入退室要領を繰り返す後任期たち。今年の導入教育が始まったことを告げる声だ。


「入ります!」


「声が小さい! やり直し!」


「何回言えば分かるんだ! 声くらいしっかり出せ!」


 たかが部屋に出入りするだけ。こんなことに、なぜここまで厳しく指導するのか。それを考える暇すら後任期たちには与えられない。とにかく言われたことを愚直にこなすだけ。そこにどんな意味があるのかは、今知る必要はない。


『後任期学生舎前集合。服装、乙武装、ライナー。完璧な服装で出てこい。5分以内だ』


 精神的にも肉体的にも疲れきったところへ、容赦なくかかる非常呼集。一体なにが起こっているのか、理解の追い付かない後任期たちは、先輩たちに追い立てられながらも必死で戦闘服に身を包んでいく。


 走れ、と響く月音の声。動作の遅い者を追い立てる春香。きっと人を怒ることが苦手であろう性格なのに、それでも一生懸命に先輩を演じていた。高校の部活とは異なる、自衛隊としての先輩らしい立ち振舞い。慣れないところも多いが、それでも去年の先輩たちはどう動いていたかを思いだし、自分や後輩を騙していく。


 バタバタと着替える伊織はすっかり血の気が引いていて、けれどまだ僅かに残る負けん気が彼女の身体を無理矢理動かす。頑張れ、と心の中で応援しながら、日和は自分の部屋を出て廊下に立った。


 各部屋からロッカーを開け閉めする音や、駆け回る足音が聞こえてくる。呼集の放送がかかってから3分程。そろそろ着替え終えないと集合には間に合わないだろう。


 懐かしいな、と日和は昨年の自分を思い浮かべる。どんなに肝が座った人間でも、いきなり呼集これは混乱する。なにせ昨日まではただの民間人だったのだ。それが入隊式を終えた瞬間から一人の自衛官として扱われ、右も左も分からないのに完璧を求められる。厳しい指導方法だが、これが航空学生という世界だ。


 と、一人の学生が乙武装に着替え終えて部屋を飛び出していった。光だ。他の学生とは違って、全く狼狽える様子がなく、まっすぐに舎前に向けて駆けていく。まるで先任期かと思うような身のこなし。とても先週着隊した新人だとは思えない。


「今の、管野学生?」


 各部屋の見回りをしていた冬奈が険しい顔をしてやって来る。あまりに光の動きが早いので、いい加減なことをしていないか疑っているみたいだ。


「そうだよ。見たところ、着こなしは完璧だった。部屋も綺麗にして出ていったみたいだし、初日にしては十分合格点だと思う。まぁ、同じ部屋の伊織を置いていったのはいただけないけど…」


 やや遅れて、その伊織が部屋を飛び出していった。しかし弾帯だんたい(ベルト)の着け方が定められた方法と逆だ。おそらくこの後行われる服装容儀でこっぴどく怒られることだろう。


 他の学生はというと、まだほとんどが戦闘服への着替えに戸惑っているところだった。中にはいまだに制服を脱ぎきれていない者までいる。お世辞にも出来が良いとは言えない状況だ。


「なんて言って指導するつもり?」


「取り敢えず「余裕があるなら同期を手伝え」ってところかな。すんなり言うことを聞いてくれるとは思えないけど…」


「それよりも、あのタメ語を止めさせた方がいいわよ。管野学生は、自分の立場っていうものが理解できてない」


「うん…でも、何度か注意はしてみたんだけど、聞く耳持たないって感じなんだよね。もっと強く言わなきゃダメなのかな」


 しかし、威圧感だけでねじ伏せるような真似はしたくない。そんな乱暴な指導には意味がないことは分かっていたし、それで光の心が動くとも思えなかった。


「分かってるだろうけど、手だけは出しちゃいけないわよ?」


 少しからかうように笑いながら、冬奈はペチペチと自分の頬を叩く。


「大丈夫だよ。そんなこと、私にできると思う?」


「冗談よ」


 理不尽な指導のオンパレードな自衛隊だが、それでも絶対にやってはいけない指導が「暴力」だ。一昔前なら「鉄拳制裁」と称して拳を使った指導が行われていたが、私的な制裁の横行や時代錯誤な教育方法ということで、ここ数年では厳禁とされている。もっとも、命のやり取りをする職種であるために、言葉よりも先に手がでてしまうことは、現場によってはあるらしいが。


「じゃあ、やるわよ」


「うん。初日だから、少し緩めにね」


 まだ後任期たちがその辺りを駆けずり回る中、二人はそれぞれの部屋へと戻り、後輩が一生懸命に作ったベッドの毛布を容赦なくひっくり返した。





 雨が強く身体を打ち付ける中、美咲たちは教場へ向かって走り続ける。自衛隊の雨衣(かっぱ)は動き易さを優先している為なのかやや丈が短く、足元が濡れやすい。おまけに航学ではフードを被ることが禁止されているので、たとえ雨衣を身につけていたとしても、こうして走り回っていると中身はすぐにずぶ濡れになってしまう。そして暑い。ついさっき風呂に入った(と言っても数分程度)ばかりだというのに、もうすでに身体は汗まみれだ。


「うぅぅ…もう無理だよぅ!」


「泣き言言うな、みさきち! 走れ!」


 伊織が励ましてくれるが、既に次の集合時間には遅れている。急いだところで怒られることは分かっているのに、だとしたら何故こんなにも一生懸命に走るのだろうか。


 だがそんなことは考えるだけ無駄だと悟って、美咲は歯を食いしばって地を蹴った。


 先輩たちにどやされながら庁舎の階段を駆け上がる。濡れた床に足を滑らせ、転んでしまう同期もいたが、すぐに立ち上がって走り出した。痛がる暇すら、後任期には与えられない。


「みさきちぃ! あと少しだ!」


「だから…! みさきちは…! やめてって…!」


 息も途切れ途切れになりながらようやく教場にたどり着く。中では既に先輩が美咲たちの到着を待っており、じっと時計を睨んでいた。集合時間からどれくらい遅れているのか、秒単位で計っているのだろう。


 集合完了の報告を上げ、当然の如く訪れる説教タイム。まず時間に遅れたことに対して。続いて今日の朝から今までの行動を、事細かに一つ一つ掘り返されて怒られる。声が小さい、動きに機敏さがない、身辺整理ができてない等々…。


 怒られて、怒られて、その説教を受ける姿勢についてさえ怒られて、一体どれくらいの時間が経っているのかと時計に視線をずらせば、またそれで怒られて。


(なんのために自衛隊に入ったんだっけ…)


 頭ごなしに怒鳴られ続けて、自分がどうしてここにいるのかすら分からなくなってきた。頭を空っぽにして、先輩たちから言われたことだけを考えるようにする。所謂「娑婆っ気を抜く」というのは、こういうことを言うのかもしれない。


「美咲、集中だよ」


「は、はいぃ!」


 いつもより低めな日和の声で、反射的に背筋が伸びる。つい先日までは天使みたいに優しかった彼女だが、今ではまるで別人のように厳しく、そのオーラだけで身が縮こまる。たとえそれが演技だとしても、美咲にとっては恐怖でしかなかった。


「導入教育が始まってもう一週間ね。つまり全体の約四分の一が過ぎたわけだけど…」


 今日のところはもう怒るネタがなくなったのか、教壇には冬奈が立って、締めの一言を淡々と述べていく。こうなると説教タイムも終わりだ。この後は先輩たちも自分の教場へと戻り、残った時間は美咲たちで反省会をするというのがいつもの流れだ。


 思わず安堵のため息を洩らしそうになるが、それに気付いた日和がまた鋭い眼光を飛ばしてくる。やっぱり、最後の一瞬まで気は抜けないみたいだ。


 長々と続く冬奈の言葉が、耳に入ってきては抜けていく。興味がないとか、真面目に聞いていないわけではなく、単純に内容が頭に入ってこないのだ。それは周りから先輩に見張られているという恐怖であったり、一日の疲れであったり、色々なものが原因なわけだが、とにかく早くこの時間が終わって欲しいと祈るばかりだった。


「別にあなたたちが無能だって怒ってるわけじゃない。成長してる部分だって少なからずあるんだから。明日は、今日よりはまともな動きを期待してるわ。私たちからは以上」


 長い間閉じられていた教場の扉が開き、先輩たちが出ていこうとする。緊張の糸が切れ、誰もが胸を撫で下ろした。


 その時だった。一人の手が静かに上がり、それを目にした美咲たちは再び身を強ばらせた。


「質問でーす」


 人を小馬鹿にしたような、間の抜けた声が響く。その主は、なにかと話題の中心となっている同期、光だった。


「…なに?」


 怒りというよりは呆れたような冬奈の顔。本当は相手にしたくないのだろうが、立場として無視することもできないのだろう。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、光は一瞬不敵な笑みを浮かべた。


「私たちが受けてる教育…部屋の整頓とか掃除とか着こなしとか、これって具体的にいつどんな役に立つんですかー?」


 冬奈の表情が一層険しくなり、和らぎかけた空気が凍り付く。


「いつ…というと?」


「飛行機に乗るようになってからなのか。そうだとして、一体どういう風に役に立つのか教えて欲しいです。まさか、意味のないことを私たちにやらせてるわけじゃないですよね?」


 挑戦的な言い方。およそ先輩に対する態度とは思えない彼女に、美咲は針のむしろに立たされたような気まずさを覚えた。しかし当の本人はそんなのお構い無しだ。


「基本的にあなたたち後任期は、言われたことを愚直にこなすことが今やるべきことで、その教育の意味について議論する立場にないことは分かってるわよね?」


「分かってますよ。じゃあそれを教育してる側、つまり先輩方は、当然その意味とかを理解して私たちに教育してるんですよね? それが確認したかっただけです」


 生意気言うな! と一人の先入期が声を荒げるが、冬奈はとっさにそれを制した。この際、言いたいことを全部言わせようという考えだろう。それを感じとった光はますます態度が悪くなる。


「どーなんですか? 毎日綺麗に布団を畳んで、服もクリーニングにかけたかっていうくらいアイロンにかけて、靴は鏡みたいになるまで磨いて…これってパイロットに必要なことなんですか?」


「パイロットである前に、私たちは一人の自衛官なの。自衛官には「品位を保つ義務」というのが…」


「あはは! 冗談言わないで下さいよ。まさかその見た目ばかりの「品位」っていうのを守るためだけに、これだけ厳しいルールが定められてるわけじゃないですよね?」


「あなたの気持ちが分からないわけじゃないわ。ここまで厳しい指導を行う必要が果たしてあるのか。それは今の私たちでは答えられない。その大切さが分かるのは、それこそパイロットとして活躍し始めてからのことで…」


「なぁんだ。結局先輩だってなにも分かってないんじゃないですか」


 納得できるような答えを見つけられない冬奈を光は鼻で笑い、勝ち誇ったような顔をする。


「もっと先輩らしいこと言ってくれると思ってたのになぁ。がっかりですよ。所詮航学の先輩って、立場と権力で後輩を押さえつけるだけの人達なんですね」


「わぁぁ! 待った待った!」


 いくらなんでも喧嘩を売り過ぎだろうと思ったのか、伊織が止めに入る。ナイスな判断だ。


「ひかりんの奴、ちょっとイライラしちゃってるみたいで! あたしらからちゃんと言っておきますから、ここは見逃して貰えないっスか?」


「なに? 私は当たり前のこと…」


 黙ってろ、と伊織は光を肘で小突く。これ以上彼女に喋らせると取り返しのつかない事態になりかねない。だが今ここで引き下がれば、まだ「後輩が生意気言ってる」だけで済むかもしれなかった。


「…聞かなかったことにするわ。もっと同期間で自分たちの立場について話し合いなさい」


 それだけ言い残すと冬奈は静かに教場を出ていった。彼女としても、あまり面倒事を起こしたくはなかったらしい。残された後任期たちは安心で崩れ落ちると共に、危機を回避してくれた伊織に感謝した。


「はぁ…頼むよひかりん。先輩たちとやり合ったってあたしらに得はないんだからさぁ」


「だからって嘗められたままでいいわけ? 私は嫌だ。こっちは本気でパイロットになりたくてやって来たのに、あの人たちときたら…」


 一息つく間もなく口論が始まる。まだ出会って一月と経っていない彼女たちだが、すっかり見慣れた光景となってしまった。一度ほつれたその関係はなかなか修復することがなく、後任期たちが団結する兆しは未だに見えない。


 こんな調子でやっていけるんだろうか。揉める同期を眺めながら、美咲はいつもより大きなため息を吐いた。





 珍しく沢村は怒っていた。いつもなら「面倒臭い」の一言で流していたかもしれないが、その日の光はとても無視できない程に調子に乗っているように見えた。


 自分にタメ語で話すくらいならまだいい。導入教育について不満をこぼすくらいは可愛いほうだ。しかし彼女はその一線さえも越え、まるで喧嘩を売っているかのような挑発した態度を、それも自分以外の同期にさえ見せるようになった。


 彼女は沢村の対番だ。後輩の言動が悪ければ、それを正してやる責任が彼にはある。


「光!」


 日夕点呼前の短い自由時間。多くの学生たちが明日の訓練等に向けた準備をする中で、一人ふらふらとほっつき歩いている光を沢村は強く呼び止めた。


「なんだ、誰かと思えば礼治君か。どしたの?」


 相変わらずの軽い口調に沢村は更に苛立つが、元はと言えば、これも自分がちゃんと指導してこなかったことが原因だ。面倒臭がらず、初日のうちからしっかり言っておけば良かったと反省する。


「どうしたもこうしたもあるか。お前今日、都筑とやり合ってただろ」


「ああ、あれね。私は普通のこと言ったつもりだけど」


「変に張り合うなって言ってるんだ。気に食わないことがあっても、黙っとけばいい話だろ」


「実害がなければね。でもここの教育は無駄だらけ。私が学びたいこと、なんにも教えてくれないんだもの」


「だからってな…」


 相手の調子に飲まれてはいけないと、沢村は言葉を探すが、それを遮るように光はぐいと身体を寄せてきた。


「礼治君なら、私の気持ちを分かってくれると思ったんだけどな」


 息がかかるんじゃないかと思うくらいに顔が近い。大きく、強い光を宿したその目は真っ直ぐに沢村を捉え、決して逃すまいとする意思がそこにはあった。


「誰かに足を引っ張るのは嫌い。無意味なことはやりたくない。人にナメられるのは我慢できない。私と同じ、こっち側のタイプでしょ? 礼治君は」


「なに言って…」


 鼓動が速くなる。不覚にも「異性」を感じる瞬間。一瞬、沢村の目が泳いだ。


「似た者同士、仲良くしよーよ。私、けっこう礼治君のこと気に入ってるんだよ?」


 予想もしてなかった展開に沢村はますます混乱する。が、同時にこのまま彼女の言うがままにしてしまったほうが楽なんじゃないかとも思い始めた。もともと自他共に認める自己中な性格だ。後輩指導に力を注ぐなんてらしくない。


 光は、顔立ちは綺麗なほうだ。性格的にも、おそらく相性は良い。先輩と後輩という関係さえ気にしなければ上手くやっていけそうではある。


 もう面倒なことを考えるのはやめようか。沢村の手がゆっくりと光の肩に伸びる。その時だった。


「沢村っ!」


 聞き慣れた声で我に帰る。視線を向けると、そこにはやはり日和がいた。怒っているのか、握った拳は静かに震え、いつにない凄みを感じる。その矛先は沢村に向けたものか、それとも光に向けたものなのか…


 横槍を入れられたのが気に食わなかったのか、光は聞こえないくらいに舌打ちした。


「空気読んでよ、日和ちゃん。私と礼治君が仲良くしてるの、気付かなかった?」


「その話し方、やめてよ。私は光の友達とかじゃない。先輩なんだよ?」


「同い年なんだから気にすることないって。先輩とか後輩とか、そんなの面倒臭いじゃん」


航学ここはそういう場所じゃない。いい加減分かってよ」


「ふぅん?」


 急に声のトーンを落とす光。愛想を尽かしたというか、敵と認識したといった反応だ。こちら側から距離を詰めようとしてあげてるのに、それに乗って来ない日和のことが面白くなかったのだろう。


「ま、別にいいけど。そこまで言うなら、あなたくらいには敬語を使ってあげますよ、日和さん。その代わり、私はこれからも礼治君と仲良くさせてもらうから、今日みたいに邪魔しないでね?」


「そんなこと、無視できないよ。沢村は私の同期なんだから、光の先輩なんだって関係は変わらない。勝手に友達扱いしないで」


「…なにそれ。だっさ」


 まるで哀れむかのように光は笑う。


「他人の関係にまで自分の価値観を押し付けるんだ。それとも嫉妬? 礼治君に自分以外の女の子が近付くの、気に入らないんだ?」


「からかわないでよ! そんなんじゃなくて…」


「あー、分かっちゃった。そういうことかぁ。どうりで日和ちゃん、私に対して厳しいわけだ。そりゃ恋のライバルは目障りだよね」


「おい光、いい加減に…」


 見かねた沢村が止めようとするが、逆に光は強引に彼の腕を取り、自分の身体に引き寄せた。


「お前、なにしてっ…!」


「カッコ悪いよねぇ。自分の好きな人を守るのにすら、伝統とか立場とか使ってんだもん。特にアクションを起こそうともしないで、なのにあわよくば振り向いてもらおうってのが余計にダサいよ?」


「ち、ちが…」


 否定すればその分彼女の思う壺だ。なにも返す言葉も見つからず、日和は顔を赤くさせて唸る。


「放せ、光!」


「嫌。こういうのはちゃんと分からせてあげないと逆に可哀想だもん。日和ちゃん。残念だけど、多分この人は私との方が相性良いと思うよ。アウトローって言うのかな? 例えるならば、私たちは枠に囚われない、自由に空を飛び回る大鷲。なんでも決められた通りにしかできない日和ちゃんには、籠の中の小鳥とかが合ってるんじゃないかなぁ」



 パシン、と乾いた音が響いた。



 一瞬の出来事。いつだって一歩立ち止まって考えて、絶対に人に手をあげたりはしないであろう日和の手が、繊細で優しい彼女の手が、目にも止まらぬ速さで光の頬を叩いた。


 叩いた方も叩かれた方も、それを間近で見ていた方も、なにが起きたのか分からず呆然とする。


「叩き…ましたね?」


 ようやく頭が周り始めた光が、僅かに赤くなった左頬を押さえながら呟くように言う。


「これ…体罰じゃないですか…先輩?」


 ハッとして日和は自分の右手を見る。ついさっき、耳まで赤くさせていたその顔が、今度はみるみるうちに青ざめていった。


「ごめ…私…なんで…」


 マズいと直感した沢村が、光の手を振りほどき、日和を連れて走り出す。どうするのが正解なのか分からないが、とにかくこの二人を離したほうが良い。日夕点呼を告げる喇叭が鳴った気がしたが、知ったことか。今はこっちのほうが大問題だった。


 なんてことをしてしまったのかと日和の目は虚ろになって、沢村に引かれるがままに走っていた。彼女の手が妙に冷たく、そしていつもより小さく感じる。こんなか弱い手が、本当に後輩の頬を叩いたのだろうか。こんな綺麗な手に、光を叩かせてしまったのか。


 これも全部、ちゃんと指導してこなかった自分の責任かと、沢村は今更ながらに強く後悔した。


 外階段の踊場に出て二人は呼吸を整える。外の空気に触れることで、ヒートアップした頭が徐々に冷まされていった。だが冷静になればなるほど、自分の犯してしまった過ちに向き合わなければいけなかった。


「沢村…私…」


「やめろ。自分を責めるな」


 はらはらと日和は涙を溢す。そんな彼女が痛々しくて、なにもしてこなかった自分が情けなくて、沢村は直視できなかった。


「私…最低だ…」


「…すまん」


 舎前のほうから点呼の為に集まった学生たちの声がする。もう少しすれば、沢村たちがいないことに気付いた彼らが大騒ぎを始めることだろう。それとも光が「先輩に叩かれた」と騒ぎたてるほうが先だろうか。どちらにせよ、今更そんなことどうでもよかった。


 肩を並べて力なく座り込む。見上げる夜空は厚い雲で覆われていて、この調子だと明日も太陽は拝めそうになかった。


 数分後、点呼に集合していない学生の捜索が始まり、血相を変えてやって来た月音たちによって二人は発見された。

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