生意気な後輩

「あり得ない! 本当にあり得ないわ!」


 強く拳を机に叩きつけながら冬奈が吠える。


 新入隊員が着隊したその日の夜、日和たち71期学生は、後輩についての情報共有をする為に一つの教場に集まっていた。


 と言ってもその内容は、ほとんどが沢村の対番である管野かんのひかりについてである。


「これは航学制度の沽券に関わる話よ! 先輩と後輩の間には絶対の上下関係があるはずなのに!」


 冬奈の話はやや大袈裟にしすぎだが、これからの後輩指導に影響する、由々しき事態であることは確かだ。


 古くから航空学生出身者の間では、その期別で互いの上下関係が決まってきた。たとえ年齢や入隊年度が逆転しようとも、航学での先輩と後輩は絶対であり、言動には細心の注意を払わなければならない。


 なぜそこまで上下関係に拘るのかというと、勿論「自衛隊」という階級組織だからというのもあるが、後輩の指導を主に先輩が行うという航学制度の特性が関係している。


 先任期には指導学生という役職が与えられ、訓練や座学等の課程教育を除いた、あらゆる後輩指導を先輩が担当。また学生それぞれに対番というパートナーが割り当てられ、年間を通して後輩を育成指導するという徹底ぶり。防衛大学校では「一年生は物、二年生は奴隷、三年生で人間、四年生は神様」と言われるらしいが、それに近いものがある。


 時には理不尽とも思えるその指導も、全ては将来戦闘操縦者という過酷な職をこなすため…なのだが、厳格な上下関係という土台ができていないとそれも成り立たない。


 その点、光は先輩と後輩の関係というものに全く関心がないようだった。更に彼女は高卒入隊者より一年遅れて入隊している為、日和たちと同い年となる。なので光にとっての日和たちは、先輩というよりも同級生や友達という存在であり、もっとフランクな関係でありたいと考えているらしい。


 そこに悪気はないというのだから余計にたちが悪い。彼女としては先輩と仲良くやりたいだけで、決して舐めているわけではないのだ。恐らく航学ここのことを、学校と同じだと考えているのだろう。


 勿論その事についての教育は行った。これからは今までとは違う世界で生きていくのだから、考えを改めないといけない。たとえ一年程の差であったとしても、先輩には敬意を払うものだ、と。しかし光の言い分はというと…


「私、そういうのを「悪しき伝統」って呼ぶんだと思うんだよね。上司と部下の関係ならともかく、私たちって学生同士なわけでしょ? 先輩と後輩で仲良く、協力しあった方がいいじゃん」


 だそうで、議論したところで納得はしてくれないだろうと感じた日和たちは、ひとまずその場は放っておくことにした。


 だが、いつまでも光を野放しにしておくわけにはいかない、ということで開かれたのが今日のミーティングだ。


「やっぱり、今年もアレをやるべきよ!」


「アレって…洗礼のこと?」


 洗礼。娑婆っ気を抜くために、新入生に対して入隊式前に行われる引き締めの儀式。ある者はショック療法とも呼ぶ。


 直前に各対番区隊ごとで歓迎会を開いて気持ちを緩ませ、その後一ヶ所に集めて長々と説教(指導)を行うというもの。これから飛び込む世界はこれまでの常識が一切通用せず、徹底された上下関係というものを身体で理解させる伝統行事だ。


「私は、あれこそ悪しき伝統だと思う。大した説明もなしに、いきなり権力で押さえつけるのが正しい指導だとは思えないよ」


「私も坂井さんと同意見です」


 と、春香が小さく挙手をする。


「力ずくじゃなくても、ちゃんと話せば分かってくれますよ」


「普通なら、ね。でもね桜庭学生、私が見た限り、あの子は相当な曲者よ。そこらの学生と同じ風に考えないほうがいいわ」


 それより、と冬奈は一層口調を強くした。


「沢村学生! あなたの対番でしょう?! ちゃんと指導しておきなさいよ!」


 光にも対番という指導係がいる。本来であればその対番の先輩が彼女のことをしっかり教育すべきなのだが、その沢村は自分には関係ないと言わんばかりに、いつも通り教場の隅で黄昏ていた。


「放っとけよ。あいつの態度が気に入らないからって、俺達が迷惑するわけでもないだろ」


「規律が乱れるって言ってるのよ!」


 冬奈はまた机を強く叩く。


「これをきっかけに航学が馴れ合いだけのユルい集団になってみなさい! 今後空自は腑抜けたパイロットを量産することになるのよ!」


「それで困るのはあいつら自身だよ。俺達じゃない。お前、なんでそこまで後輩なんかに一生懸命なんだ?」


「それ…は…」


 冬奈はなにも返せなくなる。彼の言う通り、たとえ光が自衛隊における上下関係というものを学ばずに育ったところで、それで将来苦労するのは光自身なのだ。そういう「馴染めない」タイプは自然と淘汰されていく。彼女には申し訳ないが「見捨てる」というのも一つの選択肢なのだ。


「そうね、沢村学生の言う通りかもしれない。」


 冬奈の一言で、そこにいた全員が諦めるように顔を伏せた。これはあくまで72期が解決すべき問題。着いてくる気がない者は、そのまま置いていけばいいだけのこと。やる気のない後輩に付き合うだけの義理など、71期にはないのだ。


 けれど、やはり日和は納得できなかった。


「私は、なんか嫌だな。そういうの」


 きっとそれは誰もが捨てきれずにいた気持ち。見失いかけた本心を、日和は代弁するかのように語りだす。


「私は、巴先輩にすごく面倒見てもらったから…だから今ここにいれるんだと思ってる。沢村みたいに、光のことを突き放すのは簡単だけど…巴先輩が守ってくれた、先輩は後輩を助けるものだという伝統を、私は壊したくないよ」


 それは後輩のためというよりは、むしろ先輩のため。上から受けた恩は、下に返すというのが航学流。なんでもかんでも伝統、伝統と言うのは日和もあまり好きではなかったが、それがお世話になった先輩たちが守ってきたものだとするならば、自分もその伝統を大切にしたいと思えた。


「気に入らない部分もあるだろうけどさ、皆で育てていこうよ。私だって、一人で強くなってきたわけじゃないんだから。それに、あんな後輩の手綱も取れない程、私たちは力がないわけじゃない。そうだよね?」


「まぁ…坂井がそう言うなら」


「あれ、なんで坂井学生の言うことはすんなり受け入れるわけ?」


 いつもなら「面倒くさい」と一蹴する沢村が、珍しく素直に頷いた。彼が動けば、71期としての方向性は定まったも同然だ。たとえ気に入らない後輩だろうが、しっかりと責任を持って面倒を見る。もうそこへの迷いは生まれない。


 だがしかし、どのようにすれば光のような後輩を手懐けることができるのか。その具体的な指導方法はまだ見つからないままだった。





 自衛隊に入って最初にやらされたことは、銃を撃つことでも航空機に乗ることでもなく、靴を磨いたりアイロンをかけたりすることだった。言ってしまえばその作業は、パイロットになる為にここに来た光にとっては退屈なもので、寄り道のようにしか思えなかった。


 早く飛行機に乗りたい。空気力学なり航空機力学なり、それに関する勉強がしたい。もともと自衛隊になんて興味はなく、余計な知識など身に付けるつもりもなかった。


「おい見ろ、みさきち! あたしが磨いたこの靴の輝きっぷりを!」


「…まだ片足だけじゃん。両方磨いていかないと、左右で輝きの差が出るって坂井先輩言ってたよ?」


「最終的にどっちもピカピカになればノープロブレムさ!」


 加賀かが伊織いおり赤城あかぎ美咲みさき。同級生…自衛隊風に言うなら同期となる彼女たちは、かれこれ一時間も嬉々として靴を磨いていた。こんなつまらない作業を、どうして二人はこうも楽しそうに続けることができるのだろうかと、光は半ば呆れたようにため息を吐く。


「光はどう? もう靴磨きは終わった?」


「当然。こんなことに時間をかけていられないもの」


 せっせと手を動かす二人に、光は自分の短靴を見せてやる。


「おお、すっごい。さすがひかりん。ピカピカじゃん」


「でもやっぱり、先輩たちのには勝てないねぇ」


「怒られない程度でいいんだって、こんなの」


 靴を片付け、実家から持ってきた航空法規の参考書を開く。今はちょっとした自由時間でも、勉強しなければ勿体ない。


「余裕だね」


 伊織の一言に、ピクリと光は眉を動かす。


「余裕? 私が?」


「靴磨きの他にも、アイロンがけだったり、縫い付けだったり、あとはベッドメイクの練習とか、やることは色々あると思うよ」


「や、やめなよぉ…」


 光の胸が静かに燃える。伊織を止めようとした美咲だったが、もう手遅れのようだ。


「私から言わせれば、君たちのほうが余裕だなって思うけどね。私たちはあくまでパイロット候補生で、空を飛び始めるまでにそう時間はない。国家試験の受験資格を得てから勉強しても遅いんだよ?」


「んー、でもさぁ、あたしらには「やれ」って言われたことがあるわけで、まずは目の前のことを頑張るべきじゃない?」


 航空学生はパイロットである前に一人の自衛官。自衛官として身に付けておくべき基本的なことはできて当たり前であり、そうでなければ空を飛ぶ資格なんてない。だが光にはどうもそれが気に入らなかった。


「私はね、自衛隊に染まりたくないの。ある程度飛行訓練をして、資格もとれたら、さっさと辞めて民航に行くこと。それが私の目標。その為に必要なこと以外は身に付ける気はないよ」


 怒られない程度にはこなすけど、と光は一言付け加える。つまり、周りに迷惑をかけたりはしないから、こっちのやり方に口を出すなという意味だ。それが妙に自信満々で、堂々とした口振りだったので、伊織も美咲もそれ以上はなにも言わなかった。


(靴磨き? ベッドメイク? くだらない。それが上手にできて、一体なんの意味があるの)


 そこになんの疑問も持たない同期たちに苛立ちを覚えつつ、光は二人に背を向けて参考書を読み進めた。





 入隊式を翌日に控えた夜、学生たちはアイロンがけに靴磨きにと大忙しだった。長い長い自衛隊生活の幕開けとなる日、新入生の家族や民間、他部隊からの招待者も多数来基する。決してみすぼらしい姿を見せるわけにはいかない。


 それは式の主役である入隊者だけでなく、共に参列する日和たちも同じことだった。常日頃から官品の手入れは怠らない彼女たちだが、こういう大きな行事の前には、たとえピカピカに手入れされていようが、最後の仕上げを行うものだ。


「先輩! 先輩! あたしのこの制服、どうっスか!?」


「どうって…」


 伊織が制服をヒラヒラとさせながら見せてくる。パッと見たところ、シワはないように思えるが…


「全体的によくできてるけど…ここと、ここ。プレスラインが甘いかな。アイロンの温度上げて、強めにかけてみて」


「こ、焦げちゃわないっスか?」


「勿論、当て布はしてね。生地が溶けるから」


「了解っス!」


「あと、制服だけじゃなくて、作業服も仕上げとくんだよ? 入隊式が終われば、すぐ教育が始まるんだからね」


「っス! 完璧にしときます!」


 嫌な顔一つせず、楽しそうに伊織はアイロンのスイッチを入れなおす。その気合いが空回りしなければいいなと心配しつつ、日和がすぐ隣に目を移すと、もう一人の後輩は相変わらず読書を続けていた。


 管野光、沢村の対番。しかし同じ部屋で暮らす以上、主な面倒は日和が見なければいけない。


 本来なら「明日の準備は終わったのか!」と怒るべきところなのだろうが、これが本当に準備ができているのだから怒るに怒れない。伊織を手伝ってやれとも言いたいが、それだと逆に伊織のためにならないので、結局日和は光のことを放置するままにしていた。


 どう指導したらいいのか、初めて持つ後輩に翻弄されている気がした。


「ひーよりちゃん!」


 とそこへ最近聞いていなかった懐かしい声、月音が顔を覗かせてきた。


「準備、終わった?」


「一通りね。どうかした?」


 白い歯を見せてニカッと笑う彼女。相変わらず、安心できる笑顔だ。


「ちょっとね。お話したいなって」





 月音に連れられて隊舎の屋上へと上がる日和。4月に入り、基地の桜は早くもその花を散らし初めているというのに、軽く身体が震えるくらいに外は寒い。なんだって屋上なんかに呼んだんだと言いたくなるが、それなりに理由があるのだろう。


 このタイミングだ。なんとなくは分かっている。後輩…光についてだろう。区隊こそ違えど、相棒として色々心配してくれているのかもしれない。だがそうだとしたら、もう一人呼ぶべき人物がいるはずだ。


 などと考えていたら、いた。転落防止の柵にもたれかかって、柄にもなくカッコつけている男、沢村が。


「なにしてんの、こんなところで…」


「いたら悪いかよ?」


 相変わらず可愛くない返答だったので日和は一瞬ムッとなる。しかし…


「違うよ日和ちゃん。私が沢村くんに、日和ちゃんを呼んでくれって頼まれたんだよ」


「はぁ?」


 途端に沢村は小さく舌打ちして顔を背ける。どうやら言わない約束だったみたいだ。


「そんなの、直接私に言えばいいのに。携帯もあるんだから…」


「あ、駄目だよ、察してあげなきゃ。沢村くんは、二人きりで日和ちゃんに会うのが恥ずかしくて私を使ったんだから」


「黙れ菊池!」


 沢村が月音の頭を平手打ちする。ひょっとして図星だったのだろうか。だが日和としてはそんなことどうでもよかった。


「光のことでしょ。今さら対番としての責任を感じてきたの?」


「そんなんじゃ…いや、その通りかな」


 急に語尾が弱くなる。らしくない。


「あいつ、お前にもタメ語使ってんのか?」


「そうだよ。同い年だからいいよねって」


「…悪ぃ」


「なんで沢村が謝るの。指導が足りてないのは私も一緒」


 加えて、素直に頭を下げる彼なんて、見ていて気持ちが悪いというのもある。


「俺だけならともかく、俺の責任でお前がナメられるっていうのは…なんだ、面白くない」


「本人としては先輩を嘗めてるわけじゃないと思うけどね。むしろ嘗められたくない、みたいな? いやそれより、問題はそっちじゃないんだよ」


 身辺整理にしろなんにしろ、光は「怒られない程度」のレベルをクリアしてくる。センスがいいのかどうかは分からないが、それだけの実力は持っているのだ。これでは先輩としても彼女を指導することなんてなにもない。


 だがそれだけだ。彼女は同期を手伝わない。怒られはしないが、誉められるようなこともしない。このまま放っておけば彼女とその同期たちとの間で溝が生まれ、やがて72期はチームとして成り立たなくなるだろう。そこが日和には一番心配だった。


「ね、この状況、いつかと同じだと思わない?」


「…一年前の俺だ。自覚はある」


 今でこそかなり同期たちと打ち解けてきたが、ちょうど一年前、出会ったばかりの沢村はまるでハリネズミのように尖っていて、誰とも馴れ合おうとしなかった。そこが亀裂の始まりとなり、71期は崩壊寸前の危機にまで至った。


「多分だけど、光を今のまま放っておくと、きっとあの子たちは分裂する。この一ヶ月、導入期間の間にそれが起こってしまえば、この先二度と団結なんてできなくなると思う」


「分かってる。だからお前を呼んだんだ」


 どういう意味か分からず、小首を傾げる日和。


「あの時、日和ちゃんが私達をまとめあげたんだよ。皆から孤立しそうだった沢村くんを助けて、ね」


「感謝はしてるんだ。そして、光のことをなんとかできるのもお前だと思ってる」


「二人して勝手なこと言わないでよ。私にそんな力なんて…」


「俺の責任だ。でも情けない話、俺には光をどう扱えばいいのか分からないんだ。あいつといるとどうも調子を狂わされて、結局手玉にとられちまう」


 彼がここまで弱気になるのも珍しい。それだけ光は特殊な存在なのだろう。それは日和にも分かっていたから、特別沢村を責める気にはならなかった。


「俺にできることならなんでもする。だから、お前の力を貸してくれ」


 お願いされなくてもそのつもりだ。光の面倒を見る義務は、なにも沢村だけにあるわけではない。きっとこれは、先任期になった71期に与えられた、最初の試練というやつなのだろう。これを乗り越えない限り、これから一年間、彼女たちの前で先輩らしく振る舞うことなんでできるはずがない。


(大丈夫。巴先輩だって、その上の先輩だって、皆これを乗り越えて来たんだから)


 どのような指導をしていけばいいのか、具体的になにかが思い浮かぶわけじゃない。だけど不思議と不安はなくて、胸の中で小さな闘志がふつふつと沸き上がっていた。


「ところでさ、話は変わるんだけど…」


「なんだよ」


 一つだけ、ずっと抱いていた違和感。無視してもよかったのだけれど、ちょっとからかうつもりで訊いてみる。


「光のこと、名前で呼んでるんだね」


「はぁ?」


 なんとも間の抜けた声を出す沢村。直後、そのすぐ横で「…嫉妬してる」と月音が呟いた。


 明日は入隊式。いよいよ本格的に、先輩としての2年目が始まる。

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