前夜
「…以上で、第71期航空学生入隊式予行を終了します。部隊解散願います」
アナウンスが流れ、長い時間守られていた静寂と緊張は一気に解かれる。参加していた部隊はそれぞれ解散していくが、日和たちは指示があるまで微動だにしない。
少しすると5区隊長森脇2尉が前に立った。
「よし、楽にしていいぞ。お疲れさん」
瞬間、日和たちは大きく息を吐いた。ようやく解放された。そんな気分だった。
「明日はいよいよ本番だな。今日のでき具合を見る限り、特に問題はない。この調子で明日も頑張ってくれ」
今日行われたのはあくまで予行に過ぎない。明日の本番では航空教育集団司令官や航空幕僚副長といったVIPに、入隊学生の家族も参列する。きっと今日よりも基地全体の緊張感は増すだろう。
家族が来るのか、と日和は少し憂鬱そうな顔をした。学生の家族にはあらかじめ区隊長らが入隊式の招待状を送られ、さらには各地本の隊員がその家族を防府北基地まで案内してくれる。
学校でもないのに入隊式に親を呼ぶのか、というのはしばしば議論にあがるところではある。つい最近まで学生だった者が大半とは言え、彼等も立派な社会人だ。親は子離れ、子は親離れして自立していくべき年頃であるし、家族と離れて暮らすことになる自衛隊なら尚更のこと。民間だって、今時入社式に親を呼ぶという企業も少ない。
しかし自衛隊はその特性上、時に隊員の家族を犠牲にしなければならない場合がある。ただでさえ普段は家を空けおいて、ようやく休暇等で共に過ごせる時間が貰えたとしても、有事となれば問答無用で召集される。さらに言えば災害等で家族が危険な目にあっていたとしても、家族よりも部隊の任務が優先される。そんな職場だからこそ、隊員の親族には自衛隊への理解と協力が必要となってくる。
入隊式に隊員の家族を招待するのにはそこに狙いがある。民間や学校とは違った、厳しく統率のとれた式を見せることで「あなたの家族はこれから危険な世界へ入ります。その覚悟をして下さい」と、家族に自覚を持たせることができると言うわけだ。
「日和ちゃんとこは誰が来るの?」
解散を告げられ、少しだけ与えられた休憩時間。月音が大きく背伸びしながら訊いてきた。
「うちは…うん、どうだろ」
家を出る際の見送りにも出て来なかった両親を考えると、入隊式にも顔を出さないのではないかと日和は思っていた。かといって祖母と妹にここに来るだけの行動力があるとも思えない。祖母は父か母のどちらかが付いていないと長旅が出来ない程体が弱いし、妹はまだ中学生なりたてだ。
しかし「誰も来ないかも」とも言えなかった。ここにいる大半の学生は、もしかしたら日和以外の学生は皆、航空学生になることに家族は賛成してくれていることだろう。実際、入隊式に家族が招待されていることを知らされて浮かない顔をしていたのは日和だけだった。そんな中で「うちの親は自分が入隊することに反対しているんだ」とカミングアウトしたところで、余計な心配をさせるだけだった。
「月音は誰か呼んでるの?」
「私は実家が近いからさ、家族総出で見に来るって言ってたよ」
月音は山口出身である。同じ県内でも彼女の実家は日本側の山陰地方で、防府北基地は瀬戸内海側の山陽地方で別の地域なのだが、全国から学生が集まっていることを考えれば彼女の実家はかなり近くにあると言える。
「爺ちゃんや婆ちゃんは来ないかもだけど、父さん母さんは休みを貰うって言ってたし、弟も自衛隊の基地に入ってみたいってはしゃいでたし」
「弟いるんだ?」
そうだよ、と何故か胸を張って月音は答えた。
「今年で小5なんだけどね、可愛いんだぁこれが」
「へぇ? 私も今年で中学生の妹がいるよ。式に来るかどうかは分からないけど…」
「そうなの? 会ってみたいなぁ!」
月音によく似た妹だと言ったら気を悪くするだろうか、と日和は苦笑いする。
故郷を離れてまだ一週間しか経っていないが、それでも家族に会えるのは嬉しいようで、皆々どこか浮かれていた。そんな同期を眺めながら、ふと日和は家族に会いたいと思っている自分がいることに気付いた。
いつもなにかに縛られ、飛び出したくなる程に窮屈だった我が家。最後の最後まで日和が入隊することに反対し、顔も見せなかった両親。それらを全部捨ててここに来たつもりでいた。それなのに、どうしてここでホームシックになるのだろうか。
(弱気になっちゃ駄目だ!)
日和は自分自身に気合いを入れる。心が弱ってしまうと、ついなんにでも頼ってしまう。そんな都合よく心の支えになってくれるほど、自分は故郷のことを愛してはいなかったじゃないか。
日和は明日の入隊式を楽しみにしている月音を見て、妹のことは話すんじゃなかったなと唇を噛み締めた。
その日の夜、日和が入隊式に備えて制服等の準備をしている時のこと。
「明日の準備もあると思うけど、少しだけ付き合ってくれない?」
申し訳なさそうに巴が頭を下げてきた。何事かと思えば、今から
親対というのは親対番の略称で、この場合は日和から見て二つ上の対番、つまり木梨の対番のことを指す。さらにその一つ上は
まるで血が繋がっているみたいだな、と日和は思った。親や爺という言葉が使われているあたり、彼女がそう思うのは当然とも言えた。人間が子孫を残して、一族を存続させるのと同じように、航空学生もこの系列を使って伝統を代々受け継いできている。
この対番系列が途絶えることなく続いているのは稀で、というのも航空学生全員が全員無事にパイロットになれるとは限らないからだった。中には途中で辞めたり、残念ながらパイロットになれなかった学生も数多くいる。
巴に連れられて日和がやって来たのは
地上準備過程、ひとよんで「
航空学生は毎年60人近い学生を卒業させており、さらにそこへ一般幹部候補生のパイロット要員と防衛大卒のパイロットが加わわるわけだから、年毎のパイロット候補生はそれなりの数となる。これを一度に教育しようとすると、当然練習機の数が足りなくなる。イメージとしては自動車運転免許学校で見られるそれとほぼ同じだ。
そこで、いくつかのグループで分けて順番に教育をさせるために創られたのがこの地上準備過程だ。
A~Gのグループで分けられた彼等は地準の期間を防府北で過ごし、落下傘降下訓練や耐G訓練などを経て、順番がやって来たら静浜基地か防府北基地かに分かれて飛行教育を受ける。
俊凰舎に入る前に巴と日和は自販機コーナーに寄った。先輩を訪ねる時には、先輩と自分たちの分のジュースを買っていくのが航学の習わしなのだという。
「先輩、炭酸飲めないのよね」
そう言って巴は適当に炭酸以外の飲み物を3本選んだ。どれが飲みたいか先輩に選んで貰うためだ。
「ちなみに先輩はなにが好きなんですか?」
「私はオレンジジュースかなぁ」
巴が選んだ3本の中にはしっかりとオレンジジュースが入っていた。こうやって対番の好みを知っておくことは航学生活で必要なことである。
俊凰舎の中は日和たちの暮らす俊鷹舎や俊鷲舎と違って、重苦しい空気に満ちていた。ここには先輩しか住んでいないわけだから、日和だけでなく巴も少し緊張していた。
「入ります」
航学群で聞いているような大声ではないが、凛とした声で巴は先輩の部屋に入る。入室後の敬礼等は全て省略だ。
「お、来た来た。入隊式前日なのに悪いわね」
69期の
「お久しぶりです、早奈子先輩」
「卒業式以来ね。そっちは対番?」
そうです、と巴は日和を横に立たせた。
「後輩の坂井です。うちの系列はWAF系列になりつつありますね」
「そうなると
嫌な呼び方だな、と早奈子と巴は笑った。立ち話もなんだからと言われて巴たちは横のベッドに腰掛ける。
早奈子が初級操縦過程に進むのはこの秋頃で、それまではここでひたすら勉強する。
しばらく雑談を続ける3人。今日ここに来たのは日和のことを早奈子に紹介する為だが、入隊式前日を選んだのには訳があった。
「2年間、たった2年間頑張ればここに来ることができる」
早奈子は真剣な眼差しで日和を見つめた。
「明日から色々きついだろうけど、折れたら駄目だよ。まずは我慢すること。そして慣れること。それを通り越えたらもう2年経ってるんだから」
早奈子は日和の肩を叩く。2年間と聞けば高校生活よりも短い。たった2年間と思う者も多いだろう。しかしこの短い期間には様々な試練が待っている。これから先は休暇の時以外、一時たりとも気を許すことはできないのだ。
しかしそれを乗り越えた先には今の早奈子のような生活が待っている。そしてそのすぐ先には憧れの空が待っている。そのことを教える為に早奈子と巴は入隊式前日を選んだのだった。
辛くなったらまた訪ねて来るといい、と締めくくって早奈子は二人を見送ってくれた。これから二年目に突入する巴も、日和と同様にやる気が出てきたようだった。近い将来あの場所に自分がいると考えると、多少の困難なら乗り越えられそうな気さえした。
「坂井は先に部屋へ戻っていて。私は同期のところ寄って行くから」
「はい。今日はありがとうございました」
巴はニッと笑うと俊鷲舎へと駆けていった。日和はそれを見送ると、自分も明日の準備をしなくてはと俊鷹舎へ走り出した。と、それを迎えるかのように向かい側から月音が走ってくるのが見えた。なぜか焦っているようで、日和に大きく手を振っている。
「日和ちゃん、ようやく戻ったんだね!」
一体何があったというのか、月音は血相を変えて日和に駆け寄った。よく見れば俊鷹舎の正面玄関には他のWAF後任期たちが集まっていた。きっと日和の帰りを待っていたのだろう。ただ事ではないな、と日和は直感した。
「辞める…?」
目を丸くする日和に月音は頷いた。
「6区隊の田山って子、いるでしょ?」
別の区隊なので正直まだ印象に薄かったが、その学生のことは日和も覚えていた。あまり人前に出る性格ではないのか、教育の時も同期の影に隠れていて、そして滅多に喋るような人ではなかった。
「着隊当初から、この子大丈夫かなとは思ってたんだけどさ」
そう語るのは同じ区隊の夏希だった。
「4日目あたりから区隊長や学生隊長の面接を受けてて、どうかしたのかと思ってたら、辞めたいって相談してたみたいだね」
4日目というと歓迎会が行われた次の日、つまりAVRでのあの一件が起こった翌日である。そう言えば彼も春香同様に忘れ物で残された組だった。
「自分には向いてないって、あそこで直感したみたいね。まあ、あれくらいで心が折れるくらいなら、どのみちこの先やっていけないわ」
厳しいことを冬奈は言うが、その表情は悲しげだった。自分の区隊から初の脱落者を出したことが悔しかったのだろう。聞けば、同期には全く相談してこなかったらしい。
田山の両親はもともと入隊式に出席する予定だったらしく、明日の朝は予定通り基地を訪れる。そこで学生隊長らともう一度面談を行い、気が変われば式に出席するが、変わらなければそのまま辞めて帰ることになる。
「そっか…残念だね」
肩を落とす日和。たとえまだ教育が始まっていないとしても、着隊した時から同期は全員仲間だと思ってこの一週間を過ごしてきた。
入隊式の前に諦めて辞めていく者は毎年いるらしいが、それよりも全く相談されなかったことが同期として歯痒かった。
「私たちは、絶対に相談しましょうね!」
急に声を張る春香に、一同は伏せていた顔を上げた。
「今は大丈夫でも、この先どうなるか分かりません。心が折れてしまう人も出てくるかもしれません。でも、そんな時は必ず誰かにに相談しましょう。なにも言わずに居なくなるなんて、そんなの悲しすぎます」
「そうだね。約束しよう。なにかあったらまずこの6人で共有し合う。一人で抱えこまず、みんなで悩むって」
日和は6人が作っている輪の中心に手を伸ばした。それに応じるように5人も手を伸ばし、重ね合わせていく。
「円陣、組むの初めてだね」
秋葉がクスリと笑った。航空学生では各区隊ごとにオリジナルの円陣があり、毎日の朝礼で円陣を組んで課業に臨むというのが伝統だった。各区隊長からは入隊式までにこの円陣と掛け声を考えておけと言われており、その為区隊で円陣を組んだことはまだない。
「掛け声とか、どうしますか?」
「坂井学生、あなたが組み始めた円陣よ。あなたが考えなさい」
「えぇ…」
そう言われても、ノリと勢いで手を伸ばしただけの日和はなにも考えていない。少し間をおいた後、そうだ、と声をあげた。
「私たちだけで区隊組もうよ。7区隊」
本来航学群に存在するのは6区隊まで。だがそれとは別に71期のWAFだけでグループを作り、団結していこうというのが日和の考えだった。
「いいね、それ! 秘密の区隊…カッコいいよ!」
日和の横で月音が楽しそうに言った。他の者も同じように頷いている。
「じゃあ、細かい掛け声は後々考えるとして、とりあえず…」
一呼吸おき、気持ちを切り替える。
「7区隊、ファイト!」
「「「「「おー!」」」」」
6人の少女の声が夜の空に響く。それが彼女たちにとっての団結の証であり、決意の表れだった。
明日はいよいよ入隊式。彼女たちの物語はまだ始まってすらいない。
翌日、田山は入隊式前に航学を去ることとなり、71期航空学生は残り62人となった。
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