洗礼

 AVRに集まった後任期たちは各区隊ごとに席についた。歓迎会の余韻もあってか、学生たちの浮かれ気分は治まることなく、それぞれがお喋りをしながら先輩たちの到着を待っていた。


「ところで、今からなにが…」


 日和が言いかけたその時、入り口の扉が勢いよく開かれ、数人の先任期たちが物々しい雰囲気で入ってきた。その中には巴の姿もあり、日和もすぐに見つけることができたが、今まで見たこともない冷酷な表情をする巴に、日和は血の気が引いていくのを感じた。


「ベラベラと五月蝿うるさい連中だな、まったく」


 そう言って檀上に立ち上がったのは1区隊川越である。その腕には白地に赤文字で「指導学生長」と書かれた腕章がついている。よく見れば他の先任期にも「指導学生」と黒字で書かれた黄色の腕章をつけていた。彼等は川越が前に立つと同時に部屋のあちこちへと配置に着き、四方八方から後任期を見張る。


「おらぁ! 姿勢正せっ!」


 突然一人の先任期が怒鳴った。それが合図だったかのように周囲の先任期からも怒号が飛ぶ。


「人が前に立ってんのにどこ見てんだ、お前はぁ!」


「集合の報告は誰がするんだぁ!?」


 一人の後任期、現自の学生が即座に気をつけをかけ、全員集合したことを川越に報告する。


「もうすぐ入隊式、いよいよお前らも正式に自衛官となるわけだ。だのにお前たちの様はなんだ? まるでなってない」


 川越はゆっくりと全体を見回しながら低い声で語る。視線があった学生は、まさに蛇に睨まれたカエルのように体が固まっていった。


「これから一ヶ月間、導入教育が行われる。そこでお前たちに航学精神というのを叩き込んでやる。指導学生長の川越だ。要望事項に「全力」を挙げる。よろしく」


 即座に「よろしくお願いします」と返す日和たち。驚きのせいか声が裏返っている者もいた。


「お前らメモしないんかぁ?!」


「なんのために先輩がメモ帳買ってあげたと思ってんだ!」


 怒鳴られ、後任期たちは一斉にポケットからメモ帳を出し、要望事項を書き込んでいく。その時だった。


「お前、メモ帳はどうした?」


 一人の学生が先任期に声をかけられた。見ればそれは春香だった。彼女の机にはなにも置かれておらず、真っ青な顔をして体を震わしていた。春香だけではない。他にも数名の者が同じように、なにもない机を呆然と見つめている。


「わ、私…」


 春香なにか言い出す前にその先任期は大きな音をたてて彼女の机を叩いた。


「メモ帳忘れるとはどんな精神してんだお前ら!」


「向上心の欠如だ! もうこの時点で同期と差が出てるんだぞ!」


 あちこちで怒鳴られる同期たち。その時日和は隣に座る月音の体がひどく震えているのを見た。彼女は冷や汗を書きながら、自分が手にしているメモ帳を見つめていた。もし、あの時若宮が月音に声をかけなかったら…そう考えずにはいられなかった。


「坂井、前を見な」


 月音に気を取られていた日和は近寄ってきた先任期に気付かなかった。目を向けると、誰かと思えばそれは巴だった。この空間で唯一助けを求められる存在がいたと、一瞬どこか安心感を得た日和だったが、巴の鋭い目を見ると、そんなものは消しとんでしまった。


「返事は?」


「は、はい!」


 背筋を伸ばして大きく答える日和。そこで初めて日和は自分の体が震えていることに気付いた。その後もあちこちで怒声が飛び交う中、指導学生たちの自己紹介が続いた。僅か10分程度に過ぎない時間であったが、その間気を許すことのできる時間など一瞬もなく、日和たちの精神は限界に近づいていた。


「1区隊所属の指導学生、木梨よ」


 最後に檀上へ上がったのは巴だった。


「私は主に女性学生の指導をしていくことになるわ。男性と隊舎が別だからって安心しないことね」


 日和たち女性学生を舐めるように巴は見回した。


「ただ、私は平等だから、勿論男性学生に対しても同等に指導する。男性も女性も、その指導に差をつけるつもりはないわ。要望事項は団結。以上」


 女性で指導学生となっているのは彼女だけだった。きっと俊鷹舎内の後任期指導については彼女が仕切ることになっているのだろう。運が良いのか悪いのか、巴は日和の対番で同部屋なわけだから、日和は他の女性学生よりも厳しい環境にあると言える。それに気付いた日和は、これからの学生生活を思うと若干の恐怖を抱いた。


 巴の挨拶が終わると彼女の代わりに再び川越が前に立った。


「俺たち指導学生はお前たちの指導に全力を注ぐ。お前たちも全力で学生生活に臨め。いいな?」


 指導学生は各区隊に3名ずつ、そしてそれを総括する指導学生長が1人と副指導学生長が二人、計12名だ。彼等は日和たちが着隊する前、より指導力のある者を各区隊から選抜して編成された集団であり、教官たち基幹隊員の教育が行き届かない全てを補完するために存在する。


 因みに巴が着けているのは白腕章、つまり彼女は副指導学生長だった。


「今回はこの辺にしといてやる。メモ帳を忘れた者を残し解散しろ」


 川越の挨拶で周囲の指導学生たちが再び怒声を浴びせ、日和たちは逃げるようにAVRを出ていく。しかし春香たち、メモ帳を忘れた者たちはそのまま凍りついたように席を動けず、続けて先輩たちから指導を受けることになる。


「お前らは今、同期にすら遅れをとった最底辺だ!」


 隊舎へと全力で走りながら、そんな声を日和は聞いた。一体何人の同期が残されているのか、どんな状況なのか、気になって仕方がなかったが、日和たちの中に振り向く者などいなかった。



 俊鷹舎入口まで全力で走った日和はそこで立ち止まり、他の同期が帰って来るのを息を整えながら待った。


 少しして冬奈、そして夏希、秋葉、月音と次々帰ってくる。


「春香は?」


 夏希は比較的前列に座っていたので状況が見えてなかったのだろう。秋葉は静かに首を横に振った。


「秋ちゃん、あんたなんでっ…」


 なんでメモ帳を持ったか春香に確認しなかったのか、と夏希は言いかけたが、やめた。こんなことになるなんて誰が予想できただろうか。誰も春香を、秋葉を責める権利などない。


 強いて言えばこれは後任期全員の責任である。メモ帳は常に持ち歩けと着隊当初から言われ続け、こうして集合がかかる際にはなにか伝達することがあることは容易に想像できる。にも関わらず歓迎会の気分に浮かれてこうしてメモ帳を持ち歩くのを忘れた者が出たというのは、忘れた本人だけでなく後任期としての団結力の無さにも責任がある。誰かが一声「メモ帳持ったか?」と声を挙げれば防げたはずなのだ。


 これは今回に限った話ではない。パイロットとして出撃することになった際でも、誰かが声を出せば防げるミスはいくらでもある。それが個人の弱さを補完できる集団の強みだ。


 入隊して一年間、それを叩き込まれたはずの冬奈は悔しさに奥歯を噛み締めた。この中で一番気付けたはずの学生なのに、それが出来なかった。これでは現自である意味がない。


「で、でもこれが入隊式前で良かったよね! 忘れ物もメモ帳だし、これが装備品だったら大変だったよ」


 重い空気を変えようと、日和は笑顔で言った。


「そう、ね。これは教訓として受け入れればいいわ」


 冬奈の表情も穏やかになり、他の者も徐々に明るさを取り戻していく…が、そこへ春香がトボトボと歩いて戻ってきた。


「た、ただいま戻りましたぁ…」


 すっかり疲れきった様子の春香に、日和たちから再び笑顔が消えていく。


「だ、大丈夫?」


 日和はそんな気休めの言葉をかけるのがやっとだった。大丈夫なわけがない。あの場を離れた後、一体どんなことがAVRで行われたのか想像もしたくなかった。


「いやぁ、すっごい腕立てさせられました。忘れ物した私が悪いんですけど…」


 心配をかけさせまいと、春香は作り笑いをする。服は汗で濡れ、腕と脚は静かに震えていた。それでも動揺を隠せる彼女の精神力は大したものだなと日和は思った。


 というより、むしろ月音のほうが泣きそうな顔をしていた。彼女の場合は本来春香と同じ立場なので、当然と言えば当然だったが。


「…ごめん」


 秋葉が頭を下げる。


「私が、一声かけてれば…」


「いやいや、なに言ってるんですか!」


 謝る秋葉に春香は逆に戸惑ってしまった。


「誰が悪いとか、言い始めたらきりがないと思いませんか? あの時声をかければとか、確認していればとか、そんな「たられば」ならいくらでも思いつきますよ。だから… 」


 春香は秋葉の手を握った。腕立てをした後だからなのか、とても体温が高く感じられた。


「それぞれが反省してこの話は終わりです。謝るのはなしにしましょう! って、私が言える立場ではないんですが…」


 そう言ってまた春香は笑い、それにつられて秋葉も笑顔になった。


 まったくもって春香の言うとおりだった。こんなことで責任を誰かに求めていては彼女たちはいつまでも団結できず、次に進めない。誰かのせいにせず、原因と対策を考えて次に生かすこと。それが重要なのであって、逆に言えばそれだけで十分なのだ。


 それにしても、彼女の精神力は大したものだと日和は感心した。激しく指導された直後でこうも明るく振る舞える図太い精神は春香の持ち味である。お蔭で日和たちの気持ちは沈むことなく、清々しい気持ちでこの場を終えることができたのだ。


 日夕点呼が近いこともあり、その場は解散となって皆それぞれの居室へ戻っていった。日和と月音が居室に戻ると、部屋を出る前と同じ様子で若宮が缶ジュースを飲んでいた。


「お、戻ったね」


 お疲れ様、とだけ若宮は言う。月音はなにか言いかけたが、先に口を開いたのは日和だった。


「先輩は、知ってたんですね?」


 知ってたよ、と若宮は答える。だからどうしたとでも言いたげな、そんな調子だった。


 なんで教えてくれなかったのか、なんて言えなかった。教えてしまっては指導の意味がなくなることくらいは日和にも理解できた。


「あの…」


「お、菊池。それ持って行って良かったでしょ?」


 ようやく口を開いた月音を遮るように若宮は言った。メモ帳を握りしめ、頷く月音。


「あの、どうして助けてくれたんですか?」


 月音から出たのはお礼でも謝罪の言葉でもなく、疑問だった。今回の指導について先任期は一切の口封じを命じられていた。というのも、忘れ物をするとどんな目にあうのか後任期に教えることこそが今回の目的なわけで、事前情報が流れてしまっては後任期のためにならない。しかし若宮は月音にメモ帳を持っていくことを指示した。


「勘違いしないで欲しいんだけどさ」


 若宮は買っておいた缶ジュースを二人に投げ渡した。


「そうやって疑問に思って私に訊いてくるってことは、反省すべき点は反省してるってことだと思うのよね。これがもし「おかげで怒られずにすみました。助かりました」とか言ってきたら、私は菊池を怒ってたわ。きつい言葉で怒られないと分からない奴は当然いる。けど、そうでない奴もいる。私は菊池を後者だと思っただけよ」


 必要以上に叱責はしない、というのが若宮の考え方だった。一週間にも満たない短い期間で、若宮は月音のことをじっくりと観察し、どういった指導が一番彼女のためになるのか考えていた。だからこそ、今回は月音を助けたのだった。


「ただ、次はないわ。私は優しくするつもりで菊池を助けるわけじゃない。そこを勘違いして、気を抜くことだけは許さないからね」


 そう言う若宮は先輩らしい目をしており、月音の体は再び固まった。それがなんだか可笑しくて、緊張していた日和の精神は少しだけ緩んだ。


 と、そこへ巴が戻ってきた。指導学生の腕章は外されており、表情もいつもの穏やかなものに戻っていた。


「あら、お帰り巴。お疲れ様」


 若宮が巴に缶ジュースを投げる。点呼まで五分とないのに飲みきれるか、と巴は苦笑いした。


「案外、坂井も菊地も平気そうね。菊地とかは泣き出すかと思ってたけど、うちの部屋は優秀ねぇ」


 感心する巴に、どうだか、と言って若宮は月音を見た。瞬間、目を逸らす月音。確かに後任期の中で一番泣きそうな顔をしていたのは彼女だった。


「驚かすようなことをして悪かったわ。私としてもこの伝統行事は好きじゃないんだけど、まあ、先輩からのメッセージみたいなものだから、悪く思わないでね?」


「それ、後輩に言っちゃうわけ? 副指導学生長さんが」


 巴は腕章を着けていない右腕を見せた。今はただの一学生に過ぎない、というわけである。


 しかしそれは、あの腕章を着けている間は決して油断ならないという意味でもある。そして「その時」は、もう目の前に迫っている。


 点呼ラッパが鳴り、4人は部屋を飛び出した。忘れてはならない、と日和は走りながら思う。ここは学校ではなく、自衛隊で、いついかなる時も「その時」が訪れれば気持ちを切り替えて事に臨まなければならない。それはまるで歓迎会で浮かれていた気分を、直後に引き締めるかのように。


 どんなに羽目を外そうとも、心の奥底では自衛官であることを忘れてはならないのだ。

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