夜は更けて、想い乱れて

 防府の街で飲もうと思ったら、大抵の者は駅近くの車塚か、そこから線路を挟んで向かい側の天神あたりに向かう。ここらは多くの飲食店が立ち並び、さらに駅から近いということもあって、宴会好きの自衛官には大変人気のある場所だ。


 幸人が日和を連れて行ったのはその天神の裏路地にひっそりと佇む古い居酒屋。テーブル席はなくカウンターのみで、最大10人入るかどうかの小さな店だ。


「こんなお店があったんですね」


「僕も対番に教えて貰ったんだ。学生の中でも、知っている人は少ないんじゃないかな。静かに飲むことのできる、僕にとっての穴場だよ」


「確かに、宴会とかはできそうにないですもんね」


「その通り。ただし、気を付けたほうがいい。あれを見てごらん」


 幸人が指差す先には大きな額縁に納められたF-15戦闘機の写真。そしてその端に書かれた「40期野川」のサイン。日和たちの学生隊長だ。


「どういうわけだか、ここには歴代の学生隊長だったり区隊長たちが多く訪れる。油断していると、ばったり鉢合わせることになるからね?」


「き、気を付けます。それにしても、どうして隊長のサインなんて…」


「なんだ兄ちゃん、その嬢ちゃんも操縦学生かい?」


 日和が不思議そうに写真を見ていると、年配の店員が話しかけてきた。


「僕の後輩です。坂井、この人がここの店長さんだよ」


 初めましてと日和は軽く頭を下げ、同時に幸人は適当に注文をする。どうやら二人は互いに知った仲のようだ。


「うちはねぇ、俺がまだひよっこの時から操縦学生さんに贔屓してもらっててねぇ、あんたらの隊長が学生だった時のこともよく知ってるよ」


「はぁ…」


 隊長、野川2佐が学生の頃というとおよそ30年前の話だ。防府に限らず、自衛隊の基地周辺には自衛官御用達の居酒屋が数多くあるというが、ここもそんな店の一つなのだろう。


「幸人先輩、操縦学生って…」


「航空学生の昔の呼び名だよ。操学といって、1期とか5期とかの人たちがその世代になるかな。多分、その時からこの店はやってるんだろうね」


 とそこへ二人の前にお通しと飲み物が置かれた。日和がジュースなのは当然だが、幸人にも日和と同じものが出される。聞けばあまり酒に強くないらしい。


「まずはお疲れ様。そして素敵な「送る会」をありがとう」


「いえ、先輩もお疲れ様でした。その…腕立てとか」


「あはは! あれね。さすがに疲れたよ」


 乾杯をしながら幸人は楽しそうに笑う。


「発案は木梨なんだ。坂井たちみたいに、感動するような映像作品を作ることもできないし、かといって宴会芸とかでお茶を濁すというのもやりたくない。だったらいっそのこと、身体を使ったパフォーマンスをやってやろうじゃないか、とね」


「感動しました。ビデオメッセージより、よっぽど凄かったですよ。練習とかされたんですか?」


「坂井たちにバレないよう、こっそりとね。僕たちはともかく、木梨とか若宮とか、女性陣にはかなりキツかったんじゃないかなぁ」


「はい、お待ち」


 注文した料理がいくつか並べられていく。この店は焼き鳥がお勧めらしく、串ものを中心に数種類。一次会ではあくまでもてなす側という立場もあり、あまり食事をすることができなかったので、日和にとってはこれが夕食となりそうだ。


「兄ちゃんが女の子連れてくるのは初めてだね」


「彼女だったら良かったんですけどね」


「おや、違うのかい?」


「残念ながら…」


 ふぅん? と店主は横目で日和を見た。どうも信じられないといったような顔。なんだか心の内を見透かされているような気がして、日和は愛想笑いを返すしかない。


「嬢ちゃん、パイロットになるんだろう?」


「え? あ、はい」


 いきなり何を言い出すのだろう。不意をつかれて日和の手が止まる。


「あんたらの隊長さんがいつも言ってるよ。パイロットはセッキョクシンシュツ…だっけか」


「積極進取、ですね。何事にも積極的にっていう意味だと思ってます」


「そう、それそれ。あんたもパイロットになるんだったら遠慮なんかせず、ぐいぐい自分の気持ちを表に出したほうがいいんじゃねぇかい?」


「どういう意味ですか?」


 そのまんまだよと店主はちらと幸人を横目で見た。それでなんとなく言わんとしていることが分かる。恐らく彼には自分たちが、仲はいいのにいまいち恋人になりきれない男女とか、そんな風に見えているのだろう。その勘違いが少しだけ嬉しく、同時に空しくもある。


「兄ちゃんもだ。こんな可愛い娘を前にして「彼女だったら良かった」はねぇだろう」


「邪険には思ってませんよ。坂井は僕の大切な後輩ですから」


「そういうことじゃないんだけどなぁ?」


 適当に流す幸人だが、彼もこの店主がなにを言わんとしているのかは理解しているのだろう。


 だからこそ日和は、少しだけ意地悪な一言を彼にぶつけてみたくなった。


「幸人先輩にとって私は、やっぱり「後輩」にすぎませんか?」





 夜も更けて、多くの自衛官があちこちの店で宴会を開く中、一大イベントを終えた巴たち指導学生は駅から程近い居酒屋で打ち上げを行っていた。長かった学生生活も残すは卒業式だけということで、ようやく肩の荷が降りたといった様子。ついさっきまで限界に張り詰めていた緊張も、今ではすっかり緩みきっている。


「これでしばらくは羽を休めそうだな」


 学生長の川越が氷だけになったグラスをカラカラと鳴らす。かれこれ2時間近くここで呑んでいるが、彼は全く酔った素振りを見せない。対して巴は少しだけ顔を赤くして、3次会の話が出たら遠慮しておこうなどと考えていた。


「半年もすればすぐフライトコースよ。休んでいられるのも束の間ね」


「地上最後の楽園、とはよく言ったものだ。木梨は飛準(飛行準備課程)の後はここに残るのか?」


「いいえ、静浜で希望してるわ」


 航空学生課程を卒業し、飛行準備過程を防府で終えた学生たちは、その後初級操縦課程(所謂フライトコース)に進むこととなる。この教育は防府北基地と静浜基地(静岡県)で行われており、ここで始めて学生たちは住む場所を分けることとなる。


「俺は防府に残る。飛準を出たらお別れだな」


「どうせどこかでまた会うわよ。自衛隊って狭いんだから」


「あいつら…71期の連中とも、また部隊で一緒になるんだろうか」


「案外どこかで追い付かれたりしてね。幹候校(幹部候補生学校)の入校が一緒になる、なんて話もあるらしいわよ?」


「…先輩は常に先を行く存在でありたいもんだな」


 違いないわ、と巴は川越のグラスにビールを注いであげる。彼に酔いが回るには、まだまだ酒の量が足りないはずだ。


「ねぇ、次の指導学生は誰だと思う?」


「ゲンジの奥村か都築か、高工(高等工科学校)上がりの福本あたりが学生長だろうな」


「俺は坂井とかいいと思ってる」


 と、隣で巴たちの話を聞いていた別の指導学生。


「人前に立つタイプじゃないけど、割りとまとめ役になってるだろ?」


「さすが、木梨の対番だよな。教育が行き届いてるよ」


「全くだ! 俺の対番なんて頭悪くてまいっちゃうよ」


 声をあげて笑う仲間たち。どうやら彼らも次世代の航学を誰が引っ張っていくのかに興味があるらしい。そこに自分の対番、日和の名前が挙がるのだから、巴としても気分が良かった。


 しかし…


「坂井なぁ。俺けっこうお気に入りだったんだけど、結局関の奴に持ってかれちゃったもんな」


 何気ないその一言に巴の手が止まる。


「ちょっと待って。なにそれ」


「関と坂井だよ。あいつら付き合ってるんだろ?」


「確かドリル練習が始まった、去年の冬くらいからだよな」


「そうなの? 俺はもっと前からって聞いたけど」


 そんな話は初耳だった。


「私、聞いてないわよ」


「そりゃ公言できるわけないだろ。恋愛禁止なんだから」


「俺たち70期が色恋沙汰でやらかしたばかりだしなぁ。バレないよう、こっそり付き合ってるんじゃねぇの?」


 先輩との恋愛が原因で辞めていった同期のことが思い出される。そうなると、ますます巴に焦りが生じていった。


「で、でも、あの二人はただのドリル対番で…」


「それだけなわけないだろ。あんだけ一緒にいて」


「冬休暇、一緒に帰ってくるのを見たぜ。仲良いんだなぁと思って見てたけど、そうかぁ…やっぱり付き合ってたか」


「パッとしない奴だと思ってたけど、けっこう関も隅に置けねぇな」


 彼らは楽しそうに話すが、一方で巴は愕然とする。大切な同期を失った彼女にとって、恋愛は麻薬のようなものだ。どんなに優秀な学生でも、恋心一つで道を誤ることがある。自分と、日和だけはそんなものに惑わされることはないと信じていたが、まさか誰かが、それも身近な同期が日和に手を出していただなんて思いもしなかった。


「なんて顔してんだ」


 巴の反応を見て、川越が呆れたように笑う。


「あの二人のことだから、やっていいことと悪いことの区別はついてる。下手なことはしないだろ」


「けど、それで大原は辞めていったわ」


「噂の域を出ない話だ。本当かどうかすら分からん。杞憂だよ」


「そう…よね。うん。そうであって欲しいわ」


 まるで暗示するように繰り返し、残った酒を一気に飲み干す巴。ようやく日和と自分との間にけじめをつけることができた今日なのに、また不快なモヤモヤが胸の中に沸き起こる。


 二次会なんて来なければ良かったかもしれない。酔いであまり頭が回らない中、初めて巴はそう思った。





 後輩にすぎませんか。


 その言葉にどんな意味があるのかくらい、幸人には分かっていた。思えば冬休暇が終わった辺りから、彼女が名前で呼んでくるようになった頃から、妙に距離が近くなったように感じる。それは先輩と後輩という関係を越えた、単なる人間関係ではなく男性と女性としての…


 勿論幸人にとって日和はただの後輩ではない。恐らく同期よりも信頼できる、どんなことでも心の内をさらけ出して話せる唯一の存在だ。


 そんな彼女に好意を寄せられて、嬉しくないはずがない。けれど幸人が恋心を抱いている相手は巴であって、そこに迷いはない。だから日和の想いに応えることは、彼女にも巴にも、そして自分自身にも嘘を吐いているようで、それだけは絶対にできなかった。


「…後輩の中でも、一番大切な後輩だよ」


 そんな誰も得をしないような曖昧な答えを返してこの話は終わる。ごめんと言えば良かったのだろうか。しかしどんな言葉であっても誰かが傷付くことになるのだろうと、幸人は自分の不甲斐なさを悔やんだ。


 それからの二人は他愛もない話で時間を潰し、気付いた頃には店を出て、人通り少なくなった夜の街をふらふらと歩き回っていた。


 本当ならばそれぞれの下宿だったり基地だったりに帰るべきなのだろう。そうしなかったのは、互いになにか言い残したことがあったからだろうか。


「…さっきの話なんですけど」


「うん」


 またしても日和が先に口を開く。


「私は今まで幸人先輩に、たくさん助けて頂きました。ドリルのメンバーにも選ばれましたし、他にも色々…」


「お互い様だよ。僕だって坂井がいてくれて、どれだけ心が楽になったか」


 これは本音だった。好きになった人の対番が、自分のドリル対番に選ばれる。それだけでも十分運命的なのに、日和はとても素直で人柄もよく、幸人は同期にさえ話すことのなかった心うちを彼女に打ち明けることができた。言ってしまえば日和は、幸人にとって誰よりも信頼のおける存在でさえある。


「それでも、やっぱり私は先輩にとって「後輩」のままですか?」


「…」


 二人は歩くのを止め、真っ直ぐ身体を向き合わせる。想いを伝え、受け止めるために。目を逸らさないように。


「幸人先輩が巴先輩のことを好きだってことは分かってます。だからこそ私に優しくしてくれたということも分かってます。でも…私には幸人先輩しかいないんです」


「坂井、僕は…」


「私ではいけませんか? ずっと先輩の傍にいる人が、私では足りませんか? やっぱり巴先輩の代わりには…」


「違うよ坂井。君は君だ。木梨じゃない。だからこそ僕は…くそ…」


 今にも涙が溢れそうな目で、日和はじっと見つめてくる。そんな彼女に幸人の心が揺れ動きそうになった。いつの日か「責任はとる」と彼女に言った。そこに嘘がないのだとすれば、今返す言葉は決まっているのかもしれない。


 だがそれで正しいのか。その自分勝手な罪滅ぼしは、いつか彼女を傷付けることになるのではないか。


「日和…」


 初めてその名前を口にする。女性のことを名前で呼ぶなんて、小学生以来だろうか。


「君といると、僕は時々自分が分からなくなる…」


 これが今の自分にできる責任の取り方でけじめだとするならば、それも一つの答えなのかもしれない。そう思いながら幸人は日和の肩に手をかけた。



 その時だった。



「あなたたち…なにしてるの?」


 聞きなれた声に、反射的に振り替える。同時に失いかけていた理性が幸人の頭をぶん殴り、目の前が急に鮮明に写りだした。


「関…あなた、その子が誰の対番だか知ってる?」


 背筋が凍るような重たい声色。酔いと怒りで目が据わり、けれども鋭く光る。何度も見てきた副指導学生長の顔。いや、それ以上に厳しい表情かもしれない。


 そこにいたのは幸人の想い人。そして日和が絶対の信頼を寄せる対番。木梨巴だった。

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