定時定点必達

 初日の自習時間も終わりに近づいてきた。


 本来自習時間は2000から2130まで設定されているが、導入期間中は1900から2100までとされている。この少し長めの「自習時間」では、始めの30分が指導学生による指導に使われ、30分から1時間が区隊員による反省会、残った時間が座学等の自習時間に使われる。


 2100に自習時間を終えると、次は2115まで隊舎の清掃である。後任期たちは時間になると同時に全力で隊舎まで駆け戻り、それぞれの持ち場について手際よく掃除を始める。日和が担当するのは俊鷲舎しゅんしゅうしゃ1階共用倉庫で、他には同じ4区隊の太田や谷水がいた。


 15分から指導学生が点検を行うので、三人は少しでも綺麗にしようと必死である。


「1階共用倉庫、点検お願いします!」


 時間になり、やって来た指導学生の杉田に報告を行う太田。しかし、


「太田、時計見てるか?」


「はい、21時15分です」


「本当か? よく見ろ。15分か?」


「じ、15分30秒です…」


 遅い、と杉田は吐き捨てるように言う。


「30秒遅れだ。その場に、腕立て伏せの姿勢をとれ」


 即座に地面に伏せる日和たち。最早その姿勢を保つだけで精一杯なほど疲労しているが、日和は歯を食い縛る。


「お前たちは点検を受ける価値もない。あれだけ時間は守れと言われていたのに、未だにこの様か?」


 航空自衛隊の行動を表現する言葉として「定時定点必達」というものがある。定められた時間に定められた場所へ必ず到達するという意味で、遅れることは許されないし、また早すぎてもいけない。


 これは航空自衛隊が想定している作戦の展開速度が、陸上自衛隊や海上自衛隊が想定するそれよりも遥かに早いからである。


 航空機を利用した作戦の利点は行動距離、移動速度、突破力に優れているという点である。特に瞬間的な攻撃力は絶大であり、ここぞというタイミングで効果的な一撃を敵に加えることができるのは航空機ならではの戦法である。そしてそれを可能にするのが、日頃からの徹底的な時間管理なのだ。


 陸上自衛隊は日、海上自衛隊は時間で動くとよく言われるのに対し、航空自衛隊は秒で動く。30秒行動が遅れてしまえば作戦が失敗してしまうことも大いにあり得るし、ましてや航空機を操縦中、30秒判断が遅れればあっという間に墜落してしまう。


 その時間を守る大切さを、ここ航空学生過程では徹底的に叩き込む。それは仲間を助ける為であり、なにより自分の命を守る為に繋がるのだ。


 もうまともに立ち上がることができない程腕立て伏せを命じられ、日和は廊下に倒れる。杉田に整列しろと言われ、太田と谷水に支えられながらなんとか立ち上がった。


「今日のところは以上、点検は行わない。今の自分たちに何が足りないのか、各自よく反省しとけ」


 解散を告げられる日和たち。気付けばあと少しで日夕点呼の時間だった。


「大丈夫か坂井、部屋まで戻れそうにないなら連れてくけど?」


 足元がおぼつかない日和を心配する太田だが、大丈夫だからと日和は断った。こんなところで同期に甘えていては、この先持たない気がしていた。


 点呼の時間が近づき、周囲では早く自室に戻れと同期たちが先輩に怒鳴られていた。自分も早く戻らなければ同室の月音がいらぬ心配をしてしまう。日和は一度息を整えて気を入れ直すと、急いで居室へと駆けていった。



 日夕点呼を終え、すぐに消灯時間となる。ようやく休むことができるということで、多くの後任期たちは緊張から解き放たれた安心感から即座に眠りにつくが、冷めない興奮や不安、様々な想いが巡ってなかなか寝付けない者もいた。


 ふと、向かい側で寝る月音が一つため息を漏らしたのに日和は気付いた。安心したのかその逆か、いずれにせよ同期の様子が気になった日和は声をかけようとしたが、丁度その時見回りに来た当直幹部の足音が聞こえ、慌てて目をつむった。


 すると当直幹部が去って行く前に強い睡魔が訪れ、気がつかぬ内に彼女は深い眠りについた。




 起床ラッパが鳴り響き、ベッドから飛び上がって体育服装へと着替える日和。日朝点呼の後はそのまま駆け足訓練になるので、日夕点呼のように作業服では集合しない。


 4月の朝はまだ肌寒く、並んでいる最中体が震える者も多くいた。女性学生は上に一枚シャツを着ることができるが、男性学生は上半身裸である。これが朝の駆け足訓練時の姿で、一年間変わることはない。


「イッチ、イッチ、イッチニー!」


「そーっれ!」


 掛け声に足を合わせて走る学生たち。この間稽古ではおおよそ1500mを7、8分くらいで走りきる。息が少し上がる程度、そこまで激しい運動ではないが、朝起きてすぐにランニングというのは慣れていないと精神的に辛いものがある。


 元々陸上をしていた日和にとってはなんてことない訓練だが、中には着いていくだけで精一杯の後任期もいた。時折皆から遅れそうになるが、隊列を崩してはならない為、同期が背中を押してあげる。


 走り終えても休息の時間はない。既に時計は0610を示しており、あと20分以内には食堂に向かわなければならない。4区隊で定めた次の集合時間は25分。ベッドメイクに使える時間はそう長くない。


「日和ちゃん…全然揃わないよぉ」


 巴と若宮が先に部屋を出て、二人きりになったところで月音が情けない声を出した。揃わない、と言っているのは積み上げられた毛布の端、所謂バウムクーヘンのことである。朝のベッドメイクでは毛布やシーツを畳んで積み上げるのにはそこまで時間はかからず、ほとんどはこのバウムクーヘン作りに時間を費やす。


「次の集合時間もあるから、完璧に仕上げるのはちょっと厳しいかもね。ギリギリの時間まで頑張ろう」


 黙々と毛布を弄る二人。ただ時計の針が動く音だけが部屋に響く。


「何時までベッドメイクする?」


 少ししてまた月音が口を開いた。日和が時計に目をやると、もう20分を指していた。


「集合まであと5分、もう少しベッドメイクできるんじゃないかな?」


「…着替え、間に合うかな?」


 月音に言われて、日和は自分の服装を見た。駆け足してそのままベッドメイクを始めたので体育服装のままである。当然、作業服に着替えないと外には出れない。


「…無理だね」


 直ちに二人は手を止めて作業服に着替え始めた。まだバウムクーヘンは仕上がっていないが、時間を守ることが最優先だ。


 今まで生きてきて、ここまで時間を気にしたことなど果たしてあっただろうか、と日和は考える。普通なら気付かぬうちに過ぎてしまう10分や20分も、ここでは果てしなく長く感じる。


 分刻みで予定が詰め込まれた一日はまだ始まったばかりで、起床ラッパが鳴ってからまだ30分も経っていない。



 流し込むように朝食を済ませ、朝の清掃を終えたらすぐに制服へ着替えて教場へ向かう。この後は朝礼があり、それが終われば教育が始まる。


 わずか5分程度であるが、ようやく後任期たちは教場で息をつくことができた。区隊全員で行動している4区隊員は他の後任期区隊に比べて時間的制約がきつく、すでに疲れた表情をしている者もちらほら見られたが、おかげで一人も遅れることなく、全員が時間に間に合うことができた。


「俺達、初日にしてはいい動きができてるんじゃないか?」


 奥村が腕時計を見ながら言った。


 常に時間を厳密に管理しなければならないという観点から、学生たちには全員腕時計の所持が求められており、またそれも努めて電波時計であるように言われている。


 理由は単純で、基地として基準に定められた時計が電波時計だからだ。


 例えば集合時間を8時と定めた場合、10秒遅れだと指導を受けて「いや、私の時計では間に合っています」なんて言い訳は通用しない。そのような事態を防ぐ為、基幹隊員や学生全員が同じ電波時計を持つことで、秒単位で時間を合わせることができるというわけだ。


 勿論、通常の時計であっても時間を合わせることはできる。至るところに配置された時計や同期の持つ時計に、自分の秒針を合わせればいいのだ。ただ時折時間がずれていないかどうか確認する作業は必要になってくる。


「3、2、1、今。7時40分です」


「っん」


 5区隊教場で互いに腕時計を見合せる春香と秋葉。秋葉の持っている時計は通常の腕時計だった為、電波時計を持っている春香に時間を合わせてもらっている。


「あってましたか?」


「いや、1秒ずれてた」


 秒針を弄る秋葉。二人は昨日の朝も同じように時間を合わせている。秋葉の持っている時計はなかなか年期が入ったもので、価値はあるのだろうが正確性に難があった。一日経っただけですでに数秒のずれが生じている。


「新しい時計を買わないといけませんね」


「んー」


 春香の言うことはもっともなのだが、秋葉はすこし顔をしかめた。あまり買い換えたくないらしい。


「思い入れがある時計なんですか?」


 頷く秋葉。


「多少面倒でも、できればこれを付けたいな…」


 あまり多くは語らない秋葉だが、彼女の時計が大切なものであることは、彼女の様子を見ればすぐに分かった。


 ここ数日で春香は秋葉の考えていることがなんとなく分かるようになった。元々秋葉は口数が少なく感情をあまり表に出さないので、大抵の者はその心うちが分からないでいたのだが、その点春香は他人の気持ちを察するのが人一倍長けていた。


「でしたら今のままで頑張りましょう。時間を合わせたい時は遠慮しないで言ってください。私でよければお手伝いしますから」


「うん。ありがとう」


 ただでさえ時間が限られた航学生活だが、この程度の作業ならものの数秒で終わる。春香にとっては全く負担に感じなかった。


「まーた桜庭は轟のこと甘やかして」


 そんな二人に口を挟んだのは同じ5区隊の樫村である。


「そんなに大事なものなら尚更普段は付けないでロッカーに保管しとけばいいじゃないか。時間は学生にとって命。正確な時計を着けることも俺達の務めだぞ」


 彼の言うことは全くもってその通りなのだが、それでも秋葉が今持っている時計を着けたいのにはそれなりの理由がある。だが彼女はそれを語ろうとはしない。


「もう、駄目ですよ樫村さん。こういうのはですね、理屈じゃないんです」


 春香は俯く秋葉の手を取りながら言い返した。


「確かに、私たち航空学生はあるべき学生像を追及して、それに近づかなくちゃいけませんし、それが自分や仲間の為にもなります。けどこうして、訳あって踏みとどまる仲間を皆で支えてあげるのって素敵な話だとは思いませんか?」


 春香の言葉に樫村は苦笑いするしかない。


「…ロマンチストは長生きできないぜ」


「リアリストの細くて長い人生よりかはいいですよ」


 そもそも、と春香は樫村に顔を向けた。


「パイロットってロマンチストであるべきだと思うんです。よく考えてみてください。夢が「空を飛びたい」なんて、普通の人は言いませんよ」


 周囲の何人かが頷いた。いつの間にか樫村以外の同期も春香の言葉に耳を傾けていた。


「勿論樫村さんがパイロットに向いてないなんて思いません。むしろその冷静に物事を見ることができる力はパイロットにとって必要だと思います。ただ、ひょっとしたら私と樫村さんはあまり仲良くできないかもしれませんね」


 何も言い返せずに樫村は呆然と立ち尽くす。丁寧な口調で腰が低そうなのに、案外はっきりと自分の考えを伝えるんだなと呆気にとられたのだ。


「…フラれてらぁ」


 同期の一人が呟き、どっと笑いが起きた。


「おい、お前らっ!」


「認めろよ樫村。誰が見てもお前の負けだよ。桜庭にだって悪気はないんだから、あんまり怒るなよ」


 ニヤニヤと笑いながら同期は言う。早い話が、着隊当初から樫村は春香のことが気になっていた。しかし秋葉は5区隊の中では春香にしか心を開いていないようで、二人はいつも一緒だったことから、樫村はなかなか春香に接することができないでいた。今回もまた秋葉が春香に面倒を見てもらっていて、それがなんだか面白くない樫村は二人の間に割って入ったのだが、それが春香のことを怒らせるとは思いもしなかった。


 返す言葉もない樫村は乱雑に頭をかき、そして秋葉に頭を下げた。


「悪かったよ。俺がデリカシーに欠けていた。時間を合わせるくらい俺も力を貸すからさ、桜庭と同じように遠慮なんてしないでくれ」


 しばし秋葉は目を丸くしていたが、すぐに小さく頷いた。


「樫村だけじゃねぇぞ。俺たちだっているんだからな?」


「同期を頼ることに躊躇なんてすんなよ。俺だって轟に頼ることだってあるはずなんだからな」


 樫村に続いて口々に言う同期たち。その時初めて秋葉は5区隊の仲間全員に笑顔を見せた気がした。


 そうこうしているともうすぐ朝礼の時間だった。廊下ではすでに学生たちの足音や先輩の怒鳴り声が響いている。自分たちも急がなくては、と5区隊員たちは教場を出て行く。


「ありがとうございます、樫村さん」


 秋葉の心を開くきっかけを作った彼にお礼が言いたくて、教場を出る直前に春香は樫村を呼び止めた。


「私、樫村さんのそういう真っ直ぐなところ、好きですよ」


「えっ?」


 樫村が聞き返す前に春香は教場を出て行った。慌てて彼女を呼び止めようとするが、彼等にそんな時間的余裕はない。樫村は他の学生に続いて朝礼場へと駆け出した。


「おはよう春香」


 群庁舎の階段を駆け降りる時、日和は偶然春香と会った。


「おはようございます。今日も頑張りましょうね」


 やけに上機嫌だな、と日和は感じた。きっとなにか良いことでもあったのだろう。


 時間に追われ、多くの学生が余裕のない表情をする中で、彼女のように笑顔の者がいれば不思議と元気が湧いてくる。こういうところは見習うべきだな、と日和は微笑んだ。


 朝礼の開始は0750。集合完了したのはその10秒前。理想的な動きをした後任期たちに指導学生たちは少しだけ感心の眼差しを向けた。

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