長い課業後

 「着せ替え人形」と「台風」が容赦なく襲い掛かる非常呼集訓練がようやく終わりを告げたのは1840。しかし後任期たちに息つく暇など与えられない。


 次の行動は身辺整理と入浴を済ませた後、1900に各区隊教場へ集合完了。身辺整理とは「台風」後の整頓であって、自由時間という意味ではない。荒らされた部屋を片付けるのに10分として、移動時間も考えると入浴できる時間は5分もない。航空学生過程においてシャワー室の使用は原則禁止とされており、必ず隊舎から離れた隊員浴場に向かわなければならない。対して女子学生は俊鷹舎内に女性浴場が備え付けられているから、移動時間が省略できるという点では有利である。


 ただし、いくら自衛官と言えどそこは女性、体の手入れに要する時間は男性学生のそれより多く必要である。


「湯船に浸かる暇はないですね…」


 脱衣場で呟く春香。それどころかまともに体を洗う余裕もないだろうなと日和は思った。しかし男子学生はお湯を一杯浴びるだけで入浴を終える者も多くいる。贅沢は言ってられない。


「こういうところで時間を短縮するんだよ! さっさと上がって明日の準備でもしとこうよ!」


 夏希の言葉に頷く冬奈だが、他の4人はあまりいい顔をしなかった。


「…気にしない人は気楽でいいよねぇ」


「なにをぅ!?」


 あっという間に入浴を終える夏希に月音は皮肉のこもった冷ややかな視線を向けた。しかし夏希の言うことにも一理あり、どこに重点を置くのか難しい問題だなと日和は苦笑いするしかなかった。


「ところで、導入期間中ってずっとこの日程で動くわけですよね?」


「そりゃ、まぁ」


 春香に答えつつ、こんな厳しい時間設定にもじきに慣れてくるのだろう、と日和は思った。しかし春香が心配しているのはそこではない。


「洗濯って、どのタイミングですればいいんですかね?」


 何気ない疑問の言葉だったが、先に浴場を出ようとした夏希たちまでもが動きを止めた。


 ここでは洗濯機を使用していい時間は限られており、課業時間中、つまり0815から1700までは原則使用禁止である。朝は分刻みで予定が詰まっており、まず不可能。となれば課業時間後である1700から自習時間開始である2000までの時間で洗濯をするしかないのだが、導入期間中は課業時間後でさえ予定が詰まっている。


「…土日?」


 秋葉が呟き、全員の顔がひきつった。


「え、そんなに服、ないんだけど…」


 日和を始め、全員荷物を最小限にして着隊するように言われている。そもそも制服も作業服も2着ずつしか貸与されておらず、そして一週間分の洗濯物を貯めておく場所などここにはない。


「…使いまわし、かな?」


 秋葉の言うとおり、それ以外に方法はない。衛生面に問題はあるが、毎日洗濯をする余裕などなく、数日間同じものを着る覚悟は必要である。幸いまだ4月。夏程に日中汗をかくことはないかもしれないし、下着くらいだったら毎日新しいものに変えることができるかもしれない。


 ふと、浴場を出ようとしていた夏希が回れ右をして日和の隣に座った。再びお湯をかぶり、体を洗いだす。


「せめて、体くらいは綺麗にしとかないとね…」


 夏希を見て、何かに気付いたかのように他の5人も慌てて体を洗い始めた。まともに洗う時間さえない男性学生には申し訳ないが、他人の心配なんてしていられない。


 結局日和たちは、使える時間を最大限入浴に使い、男性学生とそう変わらない時間で教場に集合することとなった。



 1900までに各区隊ごと教場へ集合しろとの指示だったが、どうやら5区隊は間に合わなかった様子で、腕立て伏せをさせられる声が隣の教場にいる日和の耳にまで届いた。


「うちはなんとか間に合ったねぇ…」


 息を整えながら月音が言う。全員教場まで全速力で駆け付けたものだから、入浴したばかりなのにもう汗をかいている。


 少しして4区隊担当の指導学生たちが教場に入ってきた。担当するのは1区隊の杉田、岡部、遠藤である。日和の対番である巴は副指導学生なので指導学生長の川越らと共に全体を見て回っている。


「お前ら、入隊式を終えていよいよ航空学生になったわけだな」


 壇上に上がった杉田が日和たちを見回しながら話し始める。言われてみれば夕方までは入隊式等の諸行事に追われていたのだと日和は気付く。行事のことよりも、対面式が終わってからの時間のほうが濃く、長い時間に感じたので、今日から航空学生生活が始まったのだということを忘れていた。


「お前らの初日の動きは最悪の一言だ。一つ一つの動きが遅い奴、咄嗟に判断ができない奴…全くやる気が感じられない」


 杉田が話している間、岡部と遠藤が日和たちの間を歩く。少しでも目を剃らそうものなら即座に怒鳴られる。


「あと、お前たちの中に夕食を食べてない奴はいないか?」


 夏希たちのことだ、と日和はすぐに気が付いた。対面式が終わった後、一時解散を告げられた後任期の中には、食堂に向かっていては次の集合時間に間に合わないと判断し、直接隊舎に戻った者たちがいた。日和もその現場に居合わせたが、冬奈に連れられて食堂へと向かった。結果、すぐに隊舎へ戻った夏希たちはなんとか時間に間に合い、日和たちは間に合わなかったわけだが、指導学生たちはそれを全て把握していた。


「いなかったのかって訊いてんだろ! 返事はぁ!?」


 岡部が怒鳴り、即座に「いません!」と答える4区隊員。だがその時、


「木下、なぜ答えない?」


 日和のすぐ後ろの席、同じ4区隊の木下の横に遠藤が立つ。この緊張の中、振り向いて同期の様子を見ることなど日和にはできなかったが、木下の様子がおかしいことはすぐに感じることができた。


 そう、彼は夕食を食べていないのである。夏希の一言で直接隊舎に戻ったのは主に6区隊の学生だったが、中には4区隊、5区隊の学生も紛れていた。木下はその中の一人というわけである。


「俺たちは誰の金で飯を食わせてもらってると思ってんだ? 国民の血税だぞ!」


 遠藤は木下を起立させ、烈火の如く怒り始めた。


 学生たちの食事については、基地の食堂で提供されるものは全て無料である。その食事代は防衛省の予算、つまり税金によって支払われており、これを無駄にすることのないよう、食事の申請をあげたなら必ず食堂で喫食をするよう厳命されている。


 申請については学生隊の基幹隊員が担当しており、基本平日については朝昼夕3食全ての申請があげてある。


 木下たちが行った行為は、言うなれば税金の無駄遣いである。わざわざ用意された食事は誰にも食べられることなく、残飯として棄てられる。勿論、集団給食において残飯問題は切っても離せない問題で、一人や二人が食べに行かなかったところで大きな影響は出ないかもしれないが、だからといって木下たちがとった行動は許されるものではない。


「木下、なぜ食堂に向かわなかった?」


 杉田が低いトーンで訊くが、そんなの答えられるわけない、と日和は思った。たとえ時間がなかったからというのが理由でも、その貴重な時間を余計に浪費してしまった責任は自分たちにあるからだ。


 ところが、


「じ、時間がなかったからです!」


 彼は非常に正直な人間だった。ここで「自分の怠慢です」と答えていたならば、つまり自分以外に責任を押し付けなければもしかしたらその場限りの指導で終わったかもしれない。


「時間がなかったとは言うが、他の同期はちゃんと食堂に向かっているぞ。なのになんでお前にはその時間がないんだ?」


 指導学生たちの目付きは徐々に鋭くなっていく。


「同期にできてお前にできなかった理由があるのか?」


「べ、別行動をしていたからです」


「それは同期に置いていかれたという意味か?」


「そうです」


「同期が自分を置いていったから、自分は食堂に行けなかったと言うんだな?」


「そ、そうです!」


 もうやめてくれ、と日和は叫びたかった。


 恐怖のあまりに木下はパニック状態になっており、思ってもないことでも「そうです」と答えてしまっている。結果、責任は木下本人から彼の同期に移りつつあり、それを黙って聞いている日和たちの顔はみるみるうちに青くなっていった。


「よし分かった。今回の件については71期全員に問題があるというわけだ」


 そうです、と答える木下。すると杉田、岡部、遠藤の3人は目を合わせて頷きあった。


「今後、4区隊については移動間における全ての行動を区隊行動とする。そうすれば誰かが同期に置いて行かれるということは無くなるだろう」


 冗談じゃないぞ、と日和たちは目を丸くした。当たり前だが、共に行動する人数が増えれば増えるほど、それに要する時間は長くなる。分隊として整列して並び、人員を掌握する必要があるからだ。しかも全ての移動が区隊行動ということは、食堂に向かう際や隊舎と庁舎を行き来する際は勿論のこと、誰かが忘れ物をした場合全員で取りに戻らないといけないのである。これは4区隊にとって大きな足かせだ。


 一同は木下を呪った。しかし同時に、彼を食堂まで連れて行かなかった己の未熟さも呪った。特に日和は現場を目撃しているわけなのだから、直接隊舎に戻る木下を止めることは十分にできたはずなのだ。


 楽をしようと手を抜けば、結果的に自分たちの首を締めることになる。これは航学生活ではよく見られる光景で、今回の件はその典型的な例である。


 決められたルールを守り、その中で全力を尽くすこと。それこそが航空学生に求められる姿であって、そのルールを犯すならば、さらに新しいルールが追加されるだけである。




「みんな、ごめん。僕のせいで…」


「いや、いいよ。木下だけの責任じゃない」


 指導学生たちが教場を出た後、区隊員たちによる反省会が始まった。始まりと同時に真っ先に謝る木下を一同は責めようとはしなかった。


「お前が謝って何になるって言うんだ。それよりも今後のことだ。移動が全部区隊行動っていうのは、簡単そうに思えて実のところかなり負担だぞ」


 そう語るのは同じ区隊の奥村である。彼は冬奈と同じ現自の学生で、元々は陸上自衛隊の普通科隊員である。


「各人が全力で動くこと、これは変わらない。大事なのは集合してからの動きだな」


 奥村の言葉に4区隊員は頷く。


 建物の外を一人で行動することを単独行動と自衛隊では呼んでいるが、航空学生では当直勤務者を除く学生の単独行動は厳禁されている。学生は必ず二人以上で行動し、さらに一人が指揮官となって部隊行動をとらなければならない。


 部隊行動というのは、指揮官の指揮のもと決められた動作で出発、停止し、行進中は手足を揃えて移動する一連の動作で、部隊が大きくなる程、つまり人数が増える程指揮をするのは難しくなる。


「一番最初に集合した人が指揮者になろうよ。それなら、後から来る人の人数を数えていけば人員掌握も簡単だし」


「そうだな。あと基本的に一人にならない、させないこと。特別な事情があるなら誰かに言付けすること。でないと来るはずのない奴をいつまでも待ち続けることになるからな」


「指揮者の動作もおさらいしとこう。いざとなったら案外できないもんだぞ」


 案外、区隊員の気持ちの切り替えは早かった。今や誰も木下のことを責める者はおらず、その本人も徐々に表情が明るくなっていった。この空気をつくりあげた奥村は流石だな、と日和は思った。


「なんかさ、この区隊ならうまくやって行けそうな気がしない?」


 他の皆には聞こえない声で、日和の隣に座る月音が言った。


「そう、そうだね。この導入期間も、きっと難なく乗り越えられる気がする」


 そう日和は返したが、しかしどこかに不安はあった。


 教育が始まってまだ初日、学生たちの心身の余裕はまだ十分ある。その余裕を、果たして全員が最後まで保たせることなど出来るのだろうか?


(今は、そんなこと考えても仕方がないか)


 不安を拭いきれない日和だが、隣でニコニコと微笑む月音を見ていると、これも杞憂に過ぎないかもしれないと思えてきた。


 たとえこの先どんなことが待ち受けていようとも、日和たちに出来ることは今を精一杯頑張ることで、見えない未来に怯えている余裕など彼女たちにはない。


 反省会と自習の為に与えられた時間は2100まで。消灯時間である2210時にはまだまだ遠い。

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