座学

 航空学生教育群には、その業務を総括する群本部。区隊長や助教らが所属する学生隊、そして学生に対して専門的座学教育を行う教育隊が存在する。


 学生が受ける教育内容は大きく分けて3種類あり、防衛学や教練といった自衛隊関連科目。駆け足や体操等の体育科目。数学や英語等の専門科目がある。


 自衛隊関連科目については学生隊と教育隊が協力して担当し、体育科目は学生隊、専門科目は教育隊が担当している。中でも教育隊が担当している授業は、学生隊が担当しているそれ程の緊張感はなく、学生にとっては唯一気を休めることのできる時間でもあった。


 教育は主に各区隊教場で行われるのだが、この際学生の学力に合わせて3つの教授班に分けられる。


 着隊後に行われた基礎学力試験で出された成績を元に、成績優秀な者から順にABCの教授班に分けられ、定期的に入れ替えが行われる。各人の理解度に合う教育を行う為の工夫だが、所属でその学生の学力が分かってしまうのはあまり気分のいいものではない。


 日和が割り当てられたのはB教授班。つまり71期生の中では中くらいの学力だというわけだ。同じB班には冬奈が、月音と春香はA班に、夏希と秋葉はC班に当てられていた。


「月音や春香って頭良いんだね」


 朝礼等を終え、授業が始まるまでの短い休憩時間で、日和は同じ班になった冬奈に話しかけた。


「教授班編成はあくまでも成績の序列ごとにグループを分けただけよ。それなりに頭のいい人達がここには集まっているんだから、それぞれの教授班に大きな差はないと思うわ」


 彼女の言う通り、航空学生として入隊した者は皆厳しい入隊試験をくぐり抜けて来ているわけだから、極端に頭の出来が悪い者はいないはずである。逆に極端に頭がいい者、例えば有名大学等に進学していた者などは数人いるかもしれないが、それも一握りであって、一つの教授班を満たす程の人数はいない。残りの者はみな似たり寄ったりで、A班であろうとC班であろうとあまり違いはなく、成績が逆転することも十分にあり得る。


「むしろ気を引き締めないといけないのは私たちどっち付かずのブラボー班よ。チャーリーの人達は少しでも上を目指そうと必死になるし、アルファの人達は今の自分の順位を守ろうとするだろうし」


 話しながら冬奈は、日和が自分の話についていけてないことに気付いた。この表情は何度か見たことがあるぞ、と眉をひそめた。


「坂井学生、もしかしてあなた「エー、ビー、シー」でアルファベットを読んでいたわね?」


「…やっぱ違うの?」


 自衛隊では聞き間違えを防ぐため、アルファベットをそれぞれアルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ…といった具合に読む。もともとは「NATOフォネティックコード」といってNATO同盟国の海軍同士で使用するために作られたコードだが、現在では自衛隊に限らず一般でも広く使われている。特に航空業界では官民国籍問わず様々な航空機が飛び交う為、そのやり取りを行う無線ではこのコードを使用するようにされている。


「成る程。確かにCとDとかだと音がにてるから聞き間違えるかもしれないね」


「そういうこと。一部ではアルファをアップル、ブラボーをバターって読むところもあるみたいだけど、意味としては同じよ。自衛隊生活では割りと頻繁に使うと思うから、覚えていたほうがいいわ」


 頷き、メモをする日和。冬奈としては頭の片隅にでも残してくれたら程度で話していたのだが、ここまで真剣に聞いてくれると話しがいもある。


「ちなみに、和文にもあるわよ。いろはの「い」とかあさひの「あ」といった具合ね。こっちは主にトンツー…地上無線員とかが使うだけで、私たちはあまり使うことはないかもしれないわね。現に私は使ったことないし」


「ふぅん…」


 一通りメモをし終えて手を止める日和。


「こういうことも授業で教わるのかな?」


 どうだろう、と冬奈は自信無さ気に答えた。彼女がいくら現自とはいえ、航学の教育を受けるのは初めてなわけで、これからどんな授業があるのかはさすがに分からない。


「多分、教わらないんじゃないかしら。こういうのは日常生活で使いながら覚えていくものだと思うし、知らなかったからといって怒られた覚えもないわ。あるとしたら航空無線の授業とかで触れられるかもしれないけど、その頃には多分身に付いているだろうし」


 航空学生課程で行われる専門科目の教育は先任期と後任期で大きく異なる。


 後任期のうちは数学や物理など基礎的な科目を中心に学び、そこで得た知識をもとに先任期で航空工学や空気力学等の航空機に関する科目を学ぶ。航空英語や航空無線について学ぶのはそれよりももっと後のことである。


「じゃあ自分で覚えるしかないんだね」


「構えなくても、自然と覚えるわよ。そこまで難しいものでもないし」


 冬奈はそう言うが、自衛隊のことに関して無知な日和には聞き慣れないものばかりで、意識して使わないと覚えられない気がしていた。でもそういう難しい部分も含めて自衛隊に関する知識を身に付けていくことは、彼女にとって嬉しくもあった。


「冬奈はなんでも知ってるね。私、同じ教授班で良かったよ」


「現自だったらこれくらい誰でも知ってるわ。別に誇れるようなことじゃないわよ」


 そんなことない、と日和は少し強めの口調で返した。


「そりゃ他の現自の人だってこれくらいは知ってるのかもしれないけど、冬奈は冬奈だよ。少なくとも私より沢山自衛隊のことを知ってる。だから私は「なんでも知ってる」って言ったんだ。私は、自分の一番近くにいる「なんでも知ってる」人が冬奈で良かったって思うよ」


「…ありがとう、とは言っておくけど」


 恐らく本心からの言葉で他意はないのだろうが、冬奈はまるで口説かれているような妙な気分になった。


「そういうこと、あまり男性には言わないほうがいいと思うわよ?」


「えっ?」


 無自覚な反応をする日和に冬奈は半ば呆れつつも、この素直さこそが彼女の長所なんだろうなと思った。



 そうこうしていると授業開始の時間となり、痩せたスーツ姿の教官が教場に入ってきた。いよいよだな、と学生たちは背筋を伸ばす。ところが教官はそれとは逆に表情を和らげ、楽にするよう学生に言った。


「最初だからそこまで固くならなくていいですよ。今日は冒頭で今後の教育の流れについて話して、少しだけ授業をします」


 まずは自己紹介から、と教官はホワイトボードに名前を書き始めた。今までの区隊長や先輩たちが行う教育ような緊張感はなく、まるで普通の学校の様な空気に学生たちは拍子抜けする。


「防衛教官の河上です。担当科目は数学系、あと教授班運営全般も担当しています」


 防衛教官とはなんだろう、と日和は一人首を傾げた。壇上に立つ教官は区隊長たちと違って制服も着用していないし、名乗る時も階級をつけなかった。ということは自衛隊員ではないのだろうか。だとすれば部外の先生なのだろうか。


 そんなことを考えていたら、河上教官は日和の顔を見て嬉しそうに笑った。


「坂井学生はいい表情をしますねぇ。そうやって「わからない」って感情を表に出せるのは、授業を受ける上でとっても大切なことです」


 河上教官は再びホワイトボードに向かってなにかを書き始めた。


「…私、そんな顔してた?」


 考えを読まれたような気がして恥ずかしかった日和は、小声で隣の冬奈に訊ねる。


「やっぱり無意識だったのね、それ」


 半ば呆れつつ冬奈が答える。彼女は感情が表情に出やすいようで、恐らくそれが彼女の長所であり短所なのだろう、冬奈はと思った。


「えー、まず君たち学生は国家公務員ですね。正しくは特別職国家公務員ですが」


 ホワイトボードには大きな図が書かれており、一番上に内閣総理大臣、その下に防衛大臣と防衛省が書かれていた。


「同時に君たちは防衛省職員になります。自衛隊は防衛省に所属してますからね。そしてこの防衛省にはいくつかの種類の人達が働いているわけです。まずは一般職の国家公務員。そして君たち特別職国家公務員、つまり自衛隊の隊員です」


 防衛省、と書かれた文字の下に次々と新しい図が書き加えられていく。


「自衛隊の隊員、自衛隊員にもいくつか種類があります。まず君たち自衛官。その他に防衛事務官、防衛技官、防衛教官等ですね。他にも沢山あるのですが、ここでは割愛します」


 さて、と言って河上教官は振り返った。


「自衛官とそれ以外の人達、共に防衛省自衛隊に所属する隊員ですが、そこでの大きな違いってなんだと思いますか?」


「武器を扱えるか、否かです」


 教官が誰かを使命するよりも冬奈が先に答えた。


「その通り。これらを武官と文官、制服組と背広組なんて呼び分けたりもしますが、文官の人達は武器を持てません。従って国際法上で彼等は戦闘員とは見なされません。同じ自衛隊員なのに非戦闘員ってなんか不思議ですよね? どうしてこんな制度があると思いますか?」


 これには冬奈も答えられなかった。他の学生も同様に首を捻るが、なかなか答えは出てこない。


「…無駄だから?」


 ポツリと日和が呟き、河上教官はすぐ彼女に視線を向けた。やけに楽しそうだ。


「坂井学生、どうしてそう思いますか?」


 皆の視線が日和に集まり、少し戸惑いながらも日和は立ち上がった。


「自衛隊って一言で言っても、色々な仕事があるわけですよね。戦うだけじゃなくて、それをサポートする人とか。そういう人達全員に訓練を行うのは効率的ではないんじゃないかな、と」


「いいですねぇ、当たらずとも遠からずってとこです」


 ありがとうございます、と河上は日和を座らせる。


「坂井学生の言うように、普段後方で事務仕事等の業務を行っている人たちに戦闘訓練を行っても大した戦力にはなりませんし、訓練を行う部隊にとっても大きな負担になります」


 自衛隊は基本的に少数精鋭主義である。誰も彼もに訓練を行い、むやみに数の力だけ増やすことはその運用思想に反する。


 そこで、専門的な知識を必要とする後方業務、事務や教官については非戦闘員を割り当て、その業務に集中してもらうことで全体の質の向上を図るというのがこの制度の趣旨だ。


「おかげで私は戦わない代わりに学生の教育に全力を注ぐことができます。君たち学生はより質の高い教育を受けることができ、結果的に質の高い戦闘員が育成できるわけです。要約すれば、それぞれの役割が持つ力を全力発揮させる為の制度ってわけです」


 余談ですが、と繋げながら河上教官はホワイトボードに書いた図を消していく。


「期間業務隊員や文書補助員という人達を部外から募集したり、ある基地業務を部外に委託するのも同じ理由です。あらゆる業務を自衛官だけで補ってしまうと、それを教育する労力や費用は莫大なものになってしまいますから、その対策ですね」


 例えば基地警備業務の一部や基地内施設の清掃、または簡単な雑務等は部外委託されている基地が多い。ここ防府北基地では給食業務も部外委託されており、最近は多くの基地でこの傾向が見られる。


 しかし何でも部外委託にしてしまうと、当然ながら有事即応能力は低下していく。防衛省で担当したほうがいいのか、それとも部外に委託したほうがいいのか、その線引きは難しいところではある。


「坂井学生のように「何だろう、どうしてだろう」と疑問に思うことはとても大切です。これからあなた達は沢山の規則や制度のもとで知識や経験を身に付けていくわけですが、その時「どうして?」と思うことを癖つけて下さい。あらゆる規則や知識には必ず意味があります。それらを丸々受け入れるのではなく、一歩立ち止まって「何のために勉強してるのか」と考えることによって、物事の本質が見えてくるのです」


 あらゆることに意味がある、とは着隊初日に日和が対番の巴に言われた言葉でもある。ここでの生活は細かいルールが多く、面倒に感じるかもしれないが、そのルールを守る癖は後々必ず生きてくるものだ、と。


 2年間という学生生活は長く感じられるかもしれないが、一人前のパイロット候補生を育成する期間としてはあまりに短すぎる。この短い期間の中で無駄な規則や教育などなにもなく、意味も無く行っている訓練もない。その本質に気付けるかどうかによって、教育を受ける者としての質が大きく変わってくる。


「導入部分としては長くなってしまいましたね。少し休憩してから続きをしましょうか」


 穏やかな空気のまま小休止を迎える一同。思いの外緊張感のない、緩い雰囲気で授業が進んでいくんだなと日和たちは安堵した。


 このように教育隊担当の授業は心身共にリラックスした状態で受けることができる。むやみやたらと厳しく指導することが、必ずしも良い人材を作るのではない。勉強する時には勉強する為の最適な環境というものがある。このような環境を整えることで学生たちは勉強に集中することができ、そして学生の質を高めていくのだ。

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