基本教練

 午前中の座学も終わりに近づき、もうすぐ昼食である。午後からは教練の授業となっており、昼休み中に乙武装に着替えなくてはならない。


 とは言え昼休みは30分もある。そこまで慌てずとも、ゆっくりと昼食をとる時間はありそうだった。ようやくまともに食事ができそうだと、後任期一同待ちきれない様子である。


「授業が終わったらすぐに飯だな。今日は確か豚カツだったから楽しみだぜ!」


 B教授班、6区隊所属の安藤が目を爛々と輝かせて言う。食べるのが大好きで、食堂の献立表を細かく把握しているマメな男だった。


 群庁舎は隊舎と食堂に挟まれた所に位置している。その為学生は皆昼休みを迎えると同時に食堂へと向かい、食事を済ませた後に群庁舎又は隊舎に戻るというのが通常の流れだった。


 午前の課業が終わり、学生たちが一斉に教場を出ていく。皆向かう場所は同じわけだから食堂はかなり混み合う。急がないと何分も行列で待つはめになるだろう。特に日和が所属する4区隊は区隊行動をしなければならないから、全員が整列するまで余計に時間がかかる。


 だが後任期たちが廊下に出た瞬間、指導学生長川越の声が廊下に響き渡った。


「後任期は居室の状況を確認しに戻れ! 整頓されないまま食事に向かうことは許さん!」


 反射的に返事をして足を止める後任期たち。何人かはすぐに回れ右をして隊舎へと駆けていった。


(まさか…)


 嫌な予感がしつつ、日和も急いで隊舎へ戻る。他の学生も何人かは状況を理解したようで顔が青ざめていた。



 隊舎に戻った日和たちの目に飛び込んで来たのは目も当てられない程悲惨なものだった。綺麗に整頓したはずの部屋は徹底的に荒らされ、机の中に納められていた筆記用具等が床に散乱していた。朝時間をかけて作り上げたベッド周りは毛布やシーツが全てひっくり返され、中には廊下にまで飛散している者もいる。随分と強い台風が来たものだな、と日和はため息を漏らした。


 これは午前の課業中、指導学生たちが行った台風指導である。いくら課業中とはいえ、ぶっ続けで授業を受けるなんてことはなく、10分程度の小休止が複数回ある。彼等指導学生はその僅かな休憩時間を利用して隊舎に戻り、こうして部屋を荒らしているのだ。


 この指導は導入期間中毎日行われる。正確に言えば「後任期学生全員が身辺整理を満足に行えるまで」毎日行う。たとえ導入期間を終えたとしても指導は続き、この間後任期たちは昼休みに入るとまず居室に戻って整頓状況を確認しなければならない。これは大きなタイムロスで、午後の授業も座学なら大した問題ではないかもしれないが、今日のように教練だったり体育だったりと特別な準備が必要な授業だったら、まともに昼食をとる時間は無くなるだろう。



 結局日和たちは身辺整理にかなりの時間をとられ、昼食も数分で済ませるはめになり、さらに午後の授業に間に合うことも出来なかった。教練時の服装である乙武装で群朝礼場に集まった後任期は、まず初めにお約束の腕立て伏せを命じられる。


「これから行われる授業は基本教練って呼ばれるものだ。自衛官だったら誰しも最初に身に付けるもの、基本中の基本だな」


 腕立てを終えるとようやく授業が始まった。6区隊長の斎木3尉が前に立って説明を行う。


 教練とは個人及び集団の基本動作を統一させる為の動作様式のことであり、自衛隊に限らず世界中の軍隊、さらには警察や消防の組織でも訓練される。


 各人の基本動作を統一させることにより、指揮官は部隊の行動を容易に掌握、指揮することができるようになる。進むことも止まることも、隊形を変換させることも全て一つの号令で命じることができるのだ。


 起源は古代の戦争で見られたファランクスやレギオンといった密集陣形であり、16世紀頃のオランダ初めて体系化された。16世紀当時の戦争は戦列歩兵と呼ばれる歩兵の密集陣形で戦うことが主流であり、全員が同じ動きをして同じタイミングで射撃をしてこそ威力が発揮できるものだった。日本で言えば戦国時代で見られた鉄砲隊の戦い、中でも長篠の戦い等がイメージしやすいだろうか。


 当時の戦争は兵士の数こそが大きな戦力であり、その為大規模部隊を常備軍として置いておくこと運用上難しく、戦時に一般人を臨時徴用して戦争を行うことが主流だった。しかしそれでは圧倒的に訓練が足りず、せっかく数が集まってもその能力を十分に発揮することができない。


 そこで部隊の指揮と訓練の簡易化を目的として考案されたのがこの基本教練である。この存在のお陰で、徴用されたばかりの兵士は容易に戦闘行動の基礎を習得することが可能となり、戦時における部隊の急速錬成に大きく貢献した。


 日本における軍事教練はオランダ陸軍発祥のものを基礎としており、それがほとんど変更されることなく自衛隊に受け継がれている。


「自衛隊で一番厳しいことは集団生活でも鉄砲持って走ることでもない。こういう基本中の基本、教練が一番厳しい。それは何故か? 都築」


 斎木3尉が冬奈を指名した。


「はい都築学生」


「基本教練の目的とは?」


「個人及び部隊を訓練して諸制式に熟練させると共に精神を鍛練し、各種の任務を遂行させるための基礎をつくることにある、であります」


 流石は現役出身、迷うことなくスラスラと出てくる。その通り、と斎木3尉は満足気だった。


「お前たちには既に「基本教練」の教範が配られているはずだから、今日の自習の時間にも確認してみろ。都築の答えは合ってるはずだ」


 斎木3尉の説明にあわせて6区隊助教の田村3曹が教範を皆に見えるようにかかげた。A4サイズの、表紙には「基本教練」という文字だけが書かれた、絵もなにもない無機質な教科書だった。確かにあれは制服等と一緒に配られていたな、と日和は思い出す。


「今言ったように、教練ってのは部隊の任務遂行の基礎をつくるためにあるんだ。だから一番厳しく訓練する。今日は初回だから大目に見るけども、次回からは服装や靴の状態についてもキッチリ点検していくからな」


 日和たちは自分たちの服装に目をやった。昨日の導入教育ですっかり汗まみれになった作業服をそのまま着てきた者がほとんどだった。まともにアイロンをかける暇も靴を磨く時間もなかった為に、彼等の格好はお世辞にも綺麗とは言えなかった。


「今日はこのまま教育に移るけども、次回からは知識事項の確認も行っていく。お前たちは次の教練の教育までに「基本教練」の教範の中から「基本教練の目的」という項目と「各個教練の目的」という項目を暗記して来なさい。さっきは現自の都築に訊いたが、次からはランダムに当てていくからな」


 慌ててメモ帳を取り出し書き込んでいく後任期たち。覚えて来いと言われた項目を忘れないよう目もしているのだが、また聞いたことのない単語が出てきて日和は首を傾げた。各個教練ってなんだろう、と。


 と、斎木3尉が気を付けをかけ、各区隊助教に訓練実施を命ずる。教練の訓練は71期全体では行わず、各区隊ごと別れて行われる。というのも教練では各個人の姿勢や挙動を入念にチェックする必要があり、指揮官(この場合は助教)が指揮する人数がより少ないほうが掌握しやすいからである。


「よぉし、いよいよ訓練の時間だな!」


 4区隊助教、青木2曹が目を爛々と輝かせて言う。後任期が着隊するまでのここ数週間、ずっとデスクワークをしていた為なのかやけに楽しそうだった。見れば他の助教たちも青木2曹同様に生き生きしている。3人とも椅子に座っているよりも、外で体を動かすほうが性にあっているのだろう。


「ザ・教育職って感じだな、この人達。脳味噌まで筋肉でできてそうだ」


 助教たちには聞こえない程度の声で4区隊奥村が言う。聞けば教育隊の助教や班長というのは、どこの基地でもあんな感じらしい。学生と共に走ったり筋トレしたりする機会が多いからか、なるべく運動が得意な人が教官として選ばれるらしい。


 特にここ航学群の助教たちはその傾向が強く、レベルも高い。例えば5区隊助教の山本3曹は元陸上選手であり、箱根駅伝出場経験者である。さらに6区隊助教の田村3曹は日体大出身者で、さらに自衛隊体育学校で体育課程を修了している。彼等のようなプロフェッショナルが存在しているお陰で、学生たちは他の一般隊員が受けられないような、より高度な教育を受けることができるのである。


「じゃあ早速教練の訓練をしていくわけだけれど、その前にちょっと基本的な知識をつけておこうか」


 各区隊ごとで訓練が始まり、5区隊や6区隊は準備体操等で早速体を動かしているが、青木2曹はまず4区隊の皆を円になって座らせた。


 教練と言っても幾つか種類があり、大きく各個教練と部隊教練の2種類に分けられる。今から日和たちが訓練していくのは各個教練のほうで、4区隊全員としてよりも各個人の動作について重点的に訓練する。


 そして教練には停止間の動作と行進間の動作というものがあり、その中にも通常時と執銃時という種類がある。日和たちはこれから約1ヶ月かけてこれらを訓練し、少しずつ身に付けていくことになる。


 最初は停止間動作、つまり「気を付け」や「休め」そして「敬礼」等である。それらを身に付けた後に行進間動作、「前進め」や「分隊止まれ」等の動きを訓練する。


「その中でも一番大切な姿勢、教練をやる上で全ての土台となる姿勢があるんだが、なんだと思う?」


 少し考えてから月音が口を開いた。


「敬礼ですか? 一番よく使うし、自衛隊らしさが表れる部分ですし」


 言われてみれば、とほかの区隊員も月音と同意見のようだった。確かに「敬礼」は基地内で生活していれば頻繁に行う。これが綺麗にできないと、やはり自衛官としては格好悪い。


「菊地はいいところに目をつけたな。でも残念。正解は「気を付け」なんだ」


「気を付け?」


 意外な答えに一同は納得いかないようだったが、一人現自の奥村は何かに気付いたように手を叩いた。


「そうか、不動の姿勢だ」


 その通り、と青木2曹が頷く。


「教練の教範にはこう載っている。不動の姿勢とは、隊員基本の姿勢であり正しくしかも気勢が充実し、いかなる号令にも直ちに応じられるものであらなければならない」


 不動の姿勢とは「気を付け」をかけられた際にとる姿勢のことだ。隊員は「休め」の姿勢から「敬礼」や「前へ進め」等といった動作に移ることはなく、必ず「気を付け」をかける。この姿勢をとるということは「次になにかの号令をかけるぞ」という合図でもあり、この姿勢が正しくとれていないと他の動作に移ることができない。まさに基本中の基本、一番重要な姿勢というわけだ。


「教練ではどの動作も完璧を目指すけれども、うちの区隊では特に「気を付け」に重点を置いていく。この姿勢だけは他の区隊に負けないような、綺麗な姿勢を身に付けていこうな」


 それともう一つ、と青木2曹は続けると、まだ話しているのか、という目で区隊長たちが彼を見た。他の区隊はとっくに訓練を開始しているが、4区隊員だけまだ座ったままだ。しかし区隊長らの視線に気付いた青木2曹は彼等に頭を下げて謝りつつも、もう少し待ってくれと合図した。


「もう一つ大事なことを教えておく。教練の時間に限らず、お前たちが指揮官の指揮を受けている間は、如何なる号令であっても指揮官に従うこと。逆をいえば、号令以外の行動をしないことを守ってくれ」


 例えば、と青木2曹は群朝礼場の隅に生えた松を指差した。


「お前たちがあの木に向かって行進していたとする。その時俺が他の号令をかけるまでは、あの木にぶつかるまで行進を続けろってことだ」


 極端な言い方をすれば、上官が死ねと命じたならば隊員は死ななければならない。勿論そんな無茶苦茶な命令を出すことはないのだが、出そうと思えば出すことができるし、隊員も命令に従う義務がある。


 自衛隊とは、階級組織とはそういうところだ。どんな命令でも隊員は指揮官に従い、そこに迷いや躊躇があってはならない。この基本が崩れてしまえば階級組織は成り立たなくなってしまい、作戦も失敗してしまう。だからこそ指揮官が命令を出すことには大きな責任が伴い、その内容についても正しい命令を発するように義務付けられている。


「教練は自衛官にとって基本だと最初に言われただろ? それにはこういう意味も含まれているんだ。部隊を動かすとはどういうことか。指揮官とは、分隊員とはどういう存在なのか。そういうことを考えながら訓練に臨め。いいな?」


 青木2曹が気を付けをかけ、全員が立ち上がった。ここから先は訓練の時間で、今から彼が日和たちの指揮官だ。それは「教官」という立場より、ずっと責任が大きい存在のように感じられ、分隊員である日和たちの間に自然と緊張感が漂った。


 学生隊が担当する授業と教育隊が担当する授業、やはり全く別物だなと日和は思った。このような張り積めた空気を作り出すことは教育隊には出来ないだろうし、かといって座学に適した空気を作り出すことは学生隊には難しいだろう。


 それぞれの部隊が持つ特性を生かし、得意とする科目を担当することでより良い教育を学生に対して行うこと。それこそが自衛隊における教育の在り方なのだ。

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