先輩はいつも先を走る
『訓練非常呼集。航空学生舎前集合』
ここに来てからもう何度も耳にした、あの忌々しいフレーズがまた放送装置から流れてくる。いつもと違うのは、その対象に先輩たちも含まれているという点だろうか。
さすがに日和の動きは速かった。光がまだ履き慣れない編上靴に手間取っている間に、日和は目にも止まらぬ速さで戦闘服装へと着替え終えて部屋を飛び出して行った。
だが、遅れをとったとはいえ負けたつもりはない。速く着替えることが一体パイロットにとってどう関係してくるというのか。そんなことで優劣をつけてなんになるのか。光は決して慌てることなく、けれど制限時間には間に合うように隊舎の前へと向かっていく。同部屋の伊織を始め、まだ準備が整っていない同期がちらほらといるが、知ったことか。この程度の訓練、自分の力でこなせないほうが悪いのだ。
いつものように舎前へ整列すると、今日は普段見かけることのない基幹隊員が光たちの前に立っていた。3区隊長の岩本2尉だ。他の基幹隊員とは違って、彼女は現役の戦闘機パイロットだ。ただ年数だけ余計とって威張っている先輩たちと違い、光にとって「本物の」先輩にあたる。
なにかためになる話でもしてくれるだろうか。いつも取るに足らない自衛隊の話ばかり聞かされているので、光は少しだけ心を踊らせた。
しかしその期待は瞬時に打ち砕かれる。
「遅すぎるな」
腕時計を見ながら呟くように岩本は言う。
「後任期学生の集合完了時間、6分30秒。論外だ。求められる基準に全く達していない。対して先任期学生の集合完了時間、4分25秒。これもまた遅い。以前私がかけた呼集では、これよりあと30秒は早かったはずだ。油断と慢心の表れだな」
鋭い眼光に、先任期一同は背筋を伸ばす。まるで彼女の恐ろしさを、既にその身で知っているかのような、そんな反応だった。
航空学生が呼集に応じる際に求められる時間は後任期5分、先任期4分と言われている。なにかに定められているというわけではなく、そこに明確な根拠はないのだが、各戦闘機部隊がスクランブルに応じるまでの時間が5分以内というのが一応の基準になっているらしい。
しかし光としてはそんなこと知ったことではなかった。所詮これも早く着替えるだけの訓練じゃないか。こんなことができて一体なんになるというのか。遅すぎると区隊長は言うが、心底どうでもいい。彼女は憧れのパイロット。だが結局話す内容は他の自衛官と同じらしい。もっとためになることが聞きたかったと光は肩を落とした。
「お前たちの性根を叩き直すために、これから特別訓練を実施する。この後は全員、庁舎に行き武器受領」
「武器受領ぉ?」
ここで言う武器というと64式小銃のことだろう。先週行われた武器貸与式で見かけて以降、まだ一度も手にしたことがない。もともと興味はなかったのであまり覚えてはいないが、さほど重たくはなかったなくらいの印象は残っていた。
一体なにを始めるつもりなんだろう。面倒なことにならなければいいが。なんにせよ、自分には関係ないことだ。そんな風に光は考えていた。
と、一瞬区隊長と目が合う。
「走るぞ」
彼女は不敵な笑みを浮かべ、今までに感じたことのない悪寒が光を襲った。なにか恐ろしいことが始まる。よくは分からないが、そんな予感がした。
もしかしたら自分は、自衛隊というところを随分と嘗めた目で見ていたのではないか。今までやってきたことや振る舞いには絶対の自信を持っていた光だったが、どこかで道を踏み外したかもしれないとこの時初めて思った。
隊列を組み、歩調を合わせ、大声を出しながら学生たちはひた走る。横を走る区隊長が時々笛を鳴らし、その度に次の笛が鳴るまで全力疾走をさせられる。
決して、決して大した速度ではない。入隊前からトレーニングを欠かさなかった光には、数km程度の駆け足なんて朝飯前だ。それがどうして、ただ走りながら声を出すというだけでこんなにも辛くなるのか。
おまけにこの銃が邪魔で仕方ない。走り出す前は軽く感じていたのに、今ではまるで両腕に鎖と鉄球でも付けられているのではないかと思うくらいに重たい。走る為に腕を使うことができず、これがまた大きな負担になる。
「声が小さくて聞こえんぞ! お前らのやる気はその程度か!」
区隊長がさらに怒声を浴びせてくる。銃を持っていないとはいえ、基本的には彼女も同じ条件で走っている。それなのにまだ涼しい顔をしていられるのは、それだけ桁外れの体力を持っているということなのだろか。
それが自衛隊のパイロットなのか。
バタリとまた一人誰かが倒れた。光の後ろ、同じ区隊の誰かだ。しかし隊列が止まることはない。倒れた者は助教らによって回収され、追走するトラックの荷台に詰め込まれていく。まるで本当に戦場を走っているかのように。
すぐ横を走る美咲からだんだんと声が聞こえなくなってきた。目線は下がり、数歩先の地面を焦点の合ってない瞳で見つめている。こうなるともうダメだ。おそらく彼女ももうすぐ倒れるだろう。声を出し、しっかりと前を向いて走らなければ心は簡単に折れてしまう。とっくに体力なんて限界にきているんだから、ここまでくると根性だけだ。その根性が持たなかった者から順番に倒れていくのだ。
「間隔歩調~! ちょー、ちょーちょー、数え!」
「いちっ!」
「そーれ!」
「にぃ!」
「そーれ!」
先を走る先任期の隊列から、まだまだ元気そうな号令が聞こえてくる。誰一人として脱落していないようだ。こっちは足を動かすだけでも精一杯だというのに、どうしてそこまで余裕なのだろう。これが一年先を行く者の、先輩の力だとでもいうのか。自分には追い付けない程の人達だというのか。それをさも当然のようにこなし、平気な顔をしている日和の姿が目に浮かぶ。
そんなことは意地でも認めたくなかった。
「歩調ぉ! 数え!」
負けじと声を張る。同時に美咲が視界から消えた気がしたが、構うものか。弱い奴は置いていけばいいのだ。
絶対にパイロットになってやる。その時まで、こんなお遊びで潰されてたまるか。胃から込み上げてくる不快なそれを、光は道端に吐き捨てた。
「まだまだ声出るぞ! 根性見せろお前ら!」
また全力疾走の笛が鳴る。しかしもはや怒りは湧いてこない。前を行く日和たちに置いていかれないよう、光はより一層強く地面を蹴った。
「また一人倒れました!」
まるで悲鳴のような衛生隊員の声に黒木はうんざりする。まだ訓練は予定の半分も終わっていないが、一体これで何人が力尽きただろう。いくら全国から集められた精鋭の航空学生とはいえ、数週間前まではただの少年少女たちだ。いきなりこんな辛い訓練についてこれるはずがない。
トラックが急停車し、黒木は荷台を飛び降りる。次は誰が倒れたんだろうかと目を向けると、確かに一人の学生が道の真ん中にうずくまり、それを他の同期学生数人が取り囲んでいた。
「おい、そいつ誰だ」
「あ、赤城学生です!」
顔面蒼白になった後任期学生が答える。赤城というと、6区隊の赤城美咲のことだろうか。
「ここは俺たちに任せて、お前らは先に行け。置いてかれるな」
「で、でも…」
「サボってんじゃねえ! ここでこいつの面倒を見ても、お前らをカーゴ(トラック)に乗せてやるつもりはないぞ! 分かったら駆け足! 進め!」
黒木が渇を入れると、学生たちはバタバタと先頭集団を追いかけ始めた。勿論彼らは休憩するつもりで立ち止まっていたわけではないのだが、彼らが今やるべきことは訓練に集中することだ。たとえ誰か倒れたとしても、助教らの支援が到着したのなら、すぐに訓練へと戻らなければならない。
「おい、大丈夫か?」
「痛たたたたっ! うぁああ!」
「足がつってるだけだ。大袈裟に騒ぐな、みっともない」
取り敢えず彼女を引きずって道の脇に移してやる。こんなところで倒れていては、後続の車両が前に進めない。
少しすると衛生隊員が救護セットを小脇に抱えて駆け付けてきた。ご丁寧にAEDまで持っている。そこまで大事ではなかったため、心配いらないと黒木はヒラヒラと手を横に降った。
「ほら、これ飲んどけ」
僅かに脱水の症状もみられたので、あらかじめ用意しておいたスポーツ飲料を手渡す。するとよっぽど喉が乾いていたのか、美咲は礼を言うのも忘れてゴクゴクと飲み始めた。落ち着け、と軽く頭を叩く。
「赤城、お前ちゃんと飯食ってるか? エネルギーとらないと訓練には付いていけないぞ」
「…いえ、あまり。時間がなくて」
「時間がない、は言い訳だ」
痛みがひいてきたようなので、黒木は美咲に肩を貸して立たせる。この調子なら後遺症にもならず、翌日には再び訓練に戻れるだろう。
「食事にしたってなんにしたって、時間は平等に与えられてる。みんな時間が無い中で工夫して生活してるんだ」
「先輩たちも、ですか?」
そうだ、と黒木は頷く。これも訓練の一環なのだ。限られた時間で色々なことをこなす技能、時間管理能力などは、今後自衛官としてもパイロットとしても必須となってくる能力だ。そこに先任期も後任期も関係ない。
「もしかしたら未だに、飯を食うのに苦労している先任期もいるかもなぁ」
「それなのに、こういう訓練でも付いて行けるんですね…。キツくないんでしょうか?」
「いや、多分かなり辛いと思うぞ」
黒木の知る限り、71期は全員が全員完璧な学生というわけではない。勉強が苦手な者もいれば、運動が苦手な者もいるわけで…
「それでも誰一人欠けることなく付いていけるのは、チームワークや根性だろうなぁ。やっぱり、一年かけて積み上げてきたものが
「積み上げてきたもの…?」
「実力とか才能とか関係なく、後輩が先輩に絶対敵わない要素、とでも言えばいいかな。お前たちの上下関係を決定付ける要因の一つで、71期と72期の明確な違いだ」
途中ふらつきながらも、なんとか美咲を荷台に乗せる。学生たちの掛け声はもう遠く聞こえ、このトラックが訓練部隊からだいぶ引き離されているのが感じられた。学生たちの行進速度は速く、僅かな時間であっても大きく前へと進んでいく。
その差が一年もあれば尚更だ。
「私にも…そんな先輩になれるでしょうか?」
遠く空を見つめながら美咲は訊ねる。同時にトラックのエンジンがかかり、訓練支援隊が動き出した。
「まだ一人前の後輩にすらなれていないのに、なにを言ってるんだ」
「そ、そうでした!」
「けど、期待してるぞ」
「…頑張ります」
今はまだ、焦らず彼らを追いかけるだけでいい。彼らは常に先を行くが、後に続く後輩たちを決して見捨てたりはしない。それこそが先輩という存在であり、敬意を払うべき道標なのだ。
そこに気付いてくれたのが一人でもいるならば、少しはこの訓練を強行した甲斐があったのだろうか。そんなことを考えながら、黒木は優しく美咲の肩を叩いた。
地獄のような訓練を終え、学生たちは再び隊舎の前に整列する。整然と並ぶ先期に対して、後任期のほうは満身創痍、死屍累々といった様子。そこに並んでいるのがやっとのようで、つついてしまえば倒れてしまいそうだった。
それでも光は耐えてみせた。どうだ見たかと得意気に岩本2尉を睨み付ける。こんなことでは潰されない。自分には先任期たちにも負けない程の実力があるのだ。
これで一人前だと認めてもらえる。そんな風に考えていた。
「後任期の脱落者は8名か。散々な結果だな」
ついて来れなかった者はただの弱者だ。そんな奴らにパイロットになる資格はない。
さぁ、言え。残った者は一人前だと。もうくだらないごっこ遊びは終わりだと。きっとこれから、ようやくパイロットになるための訓練が始まるのだ。そのはずだ。
「これも先任期の指導力が足りないからだな。もはや71期にこいつらの教育は任せていられない。これより後任期学生は、もう一度同じ距離を乙武装で駆け足行進を行わせるが、どうか?」
冗談じゃない! と学生たちはざわつき始めた。今ですら体力がギリギリの状態なのに、これをもう一回行うなんて耐えられるはずがない。しかし岩本2尉は本気のようで、後任期学生にのみ気をつけをかけ、地面に置いた銃を取らせた。
このままだと潰される。つい先程まで勝ち誇っていたはずの光の顔は引きつり、カタカタと小さく膝が震えた。
これが自衛隊なのか。どこか甘く捉えていた、この組織の持つ本当の厳しさ。今まで触れたことのないその現実に、光は初めて恐怖を感じる。
その時だった。
「なんだ、坂井?」
先任期集団の中から挙がる一つの手。坂井日和だった。華奢で、凛として、つい先日自分の頬を叩いた右手が、いくつも並ぶヘルメットの中から真っ直ぐに伸びていた。
「私が責任を取ります!」
「…はぁ?」
思わず彼女に目を向ける。一体この人はなにを言っているのだろうか。まるで状況が理解できなかった。
「俺も取ります!」
「わ、私も!」
続いて沢村が手を挙げ、間髪入れずにもう一人が、そして次々と手は挙がっていき、ついには先任期全員が「責任を取る」と挙手していた。
岩本2尉は小さく舌打ちする。
「なにが「責任を取る」だ、馬鹿者。後任期の代わりに、お前たちが銃を持って走るとでも言うのか?」
「走ります!」
即答したのは日和だった。
「後輩が出来ないのであれば、私たちが示します! 先輩として、72期を育て、守ります!」
力強く、覚悟が感じられる声。「守ります」という言葉に胸が締め付けられる。なにが彼女をそこまで突き動かすのだろうか。先輩としての意地か、それとも馬鹿がつく程にお人好しなだけか。いずれにせよ、彼女は自分たちのことを庇ってくれている。
散々嘗めた態度をとり、挑発し、挙げ句手まで上げさせた後輩だというのに。
光にはまるで分からず、ただただ混乱するだけだった。
「よし。そこまで言うのだったら見せてもらう。黒木3曹!」
「はい黒木3曹!」
区隊長に呼ばれ、助教が走って前に出てくる。その表情はなんだかやけに嬉しそうだ。
「中隊を率いてもう一度武装走、やってくれるな?」
「お任せ下さい。さっきみたいな緩い走りはさせませんよ」
端で待機している衛生隊員たちが呆れたように笑う。本当にもう一度走るのか、と。しかしそこに心配はない。この先任期学生たちなら、誰も脱落することなく完走してくれると信じているからだろう。
「よしお前ら、先輩らしいところを見せてみろ! 銃を取れ! 駆け足、進め!」
「うわぁ、本当にブラッキーが引率かよ…」
「容赦ないからな、ブラッキー。限界まで苛めぬいてくるぞ…」
「おぉい! 聞こえてんぞ!」
和気あいあいと、余裕の表情を見せながら先任期たちが出発していく。さっきは嫌々そうに走っていたのに、今回は何故だか楽しそうだ。後輩のために一肌脱いでやるか、とか言ってそうな雰囲気。そんなに先輩ぶるのが楽しいのだろうか。
憎たらしい。面白くない。感謝の気持ちなんかない。それを認めてしまうのは、あいつらに負けたというのと同じ意味だからだ。
けれど悔しいことに、膝の震えはいつの間にか止まっていて、もう走らなくていいという現実に安堵している自分がいた。
顔を伏せると、汗と涙が地面にこぼれた。
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