7区隊長

 絶景が広がる角島大橋を徹美は愛車で突っ走る。厳しい寒さもどこへやら、4月ももう目の前へと迫るとすっかり空気は暖かくなり、休日は存分にツーリングを楽しめそうだった。


 あまり観光地としては知名度の高くない山口県だが、調べてみると案外魅力的な場所が出てくる。そのひとつがここ下関市は豊北町にある角島大橋で、全長約1,700mの長い橋で、角島と本州とを繋いでいる。橋の造形美もさることながら、まるで南国のようなエメラルドグリーンの海に、その先に見える島の白い砂浜は多くの観光客を魅了し、ライダーたちにとっても憧れのツーリングスポットだ。


 風が心地いい。こうして走っていると嫌なことを全部忘れることができる気がする。しかし少し目線を上げれば憎たらしい程に青く澄んだ空が目に入って、やっぱり空が飛びたいという衝動に駆られる。


 航空学生として入隊してからもう10年。次々と消えていく同期たちとは違って、自分はパイロットとしての道を順調に歩んできたはずだった。幾度も挫折しそうになりながらも、それでも歯を食い縛って耐え、努力し、そしてようやく手に入れたF-15の操縦資格。スクランブルという実任務にも参加し、航空自衛隊の一戦力として活躍しているという実感もある。今後はさらに技術を磨き、ゆくゆくはブルーインパルスかアグレッサーか、とにかく自他共に認める優秀なパイロットになろうとやる気に満ちていた頃だった。


 そこへ突然に言い渡された転属命令。それは実戦部隊ではなく、訓練を主任務とする教育集団隷下の部隊。そしてあろうことか、自分の古巣である防府北基地は航空学生教育群。学生の頃は地べたを這いずり回ってばかりで、飛行機なんて触らせても貰えず、もう二度と戻ってくるものかと思っていた屈辱の基地だ。


 航学群の先任期区隊長や学生隊長、航学群司令といったポストに航学出身者が、それもパイロットが充てられるというのは聞いていた。それが伝統なのか規則で定められているのかは知らないが、なにせ地上でのデスクワークだ。どうせ操縦者としての技術が足りない、将来性のない落ちこぼれが流される場所だろうと、そんな印象を徹美は抱いていた。


 そこへ自分が選ばれた。絶対に自分には縁のない場所だと思っていたのに、他にいくらでも候補はいるはずなのに。まるで「お前はいらない」と告げられたかのような気分だった。


 今でもこの人事に納得はいっていない。だって自分はパイロットなのだから。空を飛ぶことが仕事のはずだ。槍の矛先とも例えられる航空自衛隊の主力的存在。それがなぜ学生の教育なぞしなければいけないのか。


 が、今さら文句を言っても仕方がないことも分かってる。上に向かって唾を吐いたところで、それが自分に戻ってくるだけだ。今は諦めて現実を受け入れ、目の前の仕事をこなしていくしかない。


 クンと速度を上げると、愛車のNinjaが主の声を代弁するかのように吠える。この惨めな気持ちを理解してくれるのはこいつだけだ。せめてこの時間だけは、好きなことに全力で打ち込もうと、徹美は真っ直ぐ前を見据えた。





 自衛官として求められる能力の中で一番重要なものはなんだろうか。


 理不尽さに負けない精神力、厳しい訓練に耐えうる体力、専門的知識や技能…色々と候補はあるが、その中には「お掃除能力」も含まれているのではないかと日和は思う。


 航空学生に限らず、とにかく自衛隊は「見た目」に拘ることが多い。施設の清掃状況は勿論のこと、制服の着こなしであったり、整理整頓であったり、パッと見た時の印象をかなり重要視するのだ。


 それは厳格な規律、つまり精強さを表しているのだということは理解している。ネジ一つ落ちていたら大事故に繋がる、飛行場と同じ。隊舍の清掃だって重要な任務の一つだ…が、やはり面倒くさいものは面倒くさい。


「ついこの前ピカピカにしたばっかりだっていうのに、なんでまた掃除しないといけないかねー」


 日和のすぐ側で器用にポリッシャーで床を磨きながら愚痴をたれる月音。彼女がご機嫌斜めなのも無理はなく、土日だというのに学生たちは外出もせず、隊舍の清掃に追われていた。


 今回行われているのは廊下の汚れ落としとワックスの塗り替えという、なかなか規模の大きいものだ。このような大掃除はそう頻繁に行われるものではなく、例えば点検前であるとか、大きなイベント前であるとか、そのような時にしか休日を利用してまでの清掃はやらない。


 来週には新入隊員が到着し、それからすぐに入隊式というビッグイベントが控えているものの、今日の清掃作業はもともと予定されていたものではなかった。と言うのもついこの間70期の卒業式を迎えるにあたってピカピカに仕上げたばかりであって、学生たちが気を使って汚さないように生活していればこのような作業をしなくて済んだ話なのだ。


 だが先日、学生たちも全く予期していなかった大事件が起きた。


「仕方がないじゃない。この前の呼集騒ぎで廊下が靴墨だらけになっちゃったんだから」


「それだよ!」


 せっせと床を磨く冬奈に月音がビシッと指を差す。


「お宅の区隊長があんなことしなければ、今日も平穏な休日が過ごせたハズなのにさ! なんで非常呼集なんかかけちゃうかなぁ!」


 そう、全ては徹美の行った呼集訓練が原因だった。彼女のお陰で学生たちは隊舍の中を駆けずり回る羽目になり、綺麗な廊下は踏み荒らされ、結果このような大掃除をすることとなったのだ。


「聞けばあの呼集、学生隊の人達は誰も容認してなかったらしいですね」


 春香がワックスを持ってやって来る。しかしまだ廊下の汚れが落としきれてないので、その出番はまだ先になりそうだ。


「ということはやっぱり、区隊長が独断でかけたってこと? そんなことってあるのかな」


「当直幹部だったからだよ、日和ちゃん。形上、課業時間外は群司令と同じ権限を持ってるわけだしね」


「なんでもやっていいってわけじゃないわ。特に呼集とかは、群司令にあらかじめ話を通しておくのが普通よ」


 呼集訓練にはかなりの危険が伴う。なにせ一秒を争う事態に、大勢の学生が狭い隊舍内を駆け回るわけだから、ぶつかったり転んだりする者が出てもおかしくない。過去には階段から転げ落ちて骨折したという事例もあるくらいだ。だから通常は、呼集訓練を行う前には群司令なり学生隊なりに許可を貰う必要がある。突発的に行い、翌日に事後報告する場合もあるにはあるが、よっぽどの理由がないと許されないだろう。


「なんて説明したのかは知らないけど、お叱りは受けたんじゃないかしら。呼集をかける明確な理由はなにもなかったからね」


「なんにせよ、とんでもない人がやって来たものだよ。3区隊はこれから大変だね」


「他人事みたいに…そういう月音たちのところはどうなの?」


 月音と春香が所属するのは1区隊。区隊長は先任期中隊長も兼任する国本3佐だ。期別は53期。61期の徹美よりもずっと先輩にあたる。


「いい区隊長ですよ、すごくフレンドリーな感じで。来週には早速団結会を開く予定です」


「夏希たちのところの2区隊長も、パッと見は怖いけどいい人そうだよね。私と冬奈はハズレを引いちゃったってところかなぁ…」


「ていうかさ、ずっと言いたかったんだけど」


 月音が不機嫌そうにぷくっと頬を膨らませる。彼女がこの顔をするのは大抵しょうもない理由で怒っている時だ。


「なんで冬奈ちゃんが日和ちゃんと一緒の区隊なの?!」


 やっぱりだ、と日和は苦笑する。一方で冬奈は鳩が豆鉄砲を食ったように目をぱちくりさせた。


「えっと、区隊編成の話かしら?」


「日和ちゃんのパートナーは私なのに!」


 時々発作を起こす月音の「日和独占病」だ。これさえなければ常識人なのに、誰かが日和と距離を詰めようとすると途端に独占欲が出てきて、子供っぽくなる傾向にある。好意を寄せられている日和本人としては悪い気はしないが、親離れできない子供を相手しているようで、時々困ることはある。


「仕方ないじゃん。私たちが好きに決めれるものでもないんだし。クラス替えみたいなものだよ」


「でも! 私と日和ちゃんはセットだもん!」


「わけがわからないよ…」


「駄々をこねるってこういうのを言うんでしょうねぇ」


 まるで子供のように騒ぐ月音。どこまで本気で言っているのか分からないから余計に反応し辛い。


 だから冬奈も春香も「お前の役目だろ」と言わんばかりに日和を見る。月音の保護者的存在。その立ち位置は別に不満ではないし、なんなら彼女のことを一番よく知るのは自分だとも思っている。そこを踏まえると、自分と月音は二人でセットというのも妙に納得できたし、彼女と別の区隊になったことが、今更ながら残念に思えてきた。


「まあまあ。区隊は別でも、結局私たちはみんな一緒に暮らしてるわけだからさ。二人だけの時間がちょっと減るだけだよ」


「それが嫌だって言ってんの!」


「埋め合わせはしてあげるからさ。今度私たちだけで美味しいものでも食べに行こっか」


「むぅぅ…約束したからね?」


 やや雑に頭を撫でてあげる。こうしているとなんだか犬かなにかを扱っているみたいだ。


「それはそうと、廊下のワックス塗り終えたらどうする? 乾くまでそこそこ時間がかかるけど」


「外出しましょ。みんなで夕食でもどう?」


「そういえば、しばらく6人で外食なんてしていませんね」


 決まり、と日和が手を叩くと一同は再び清掃作業に戻る。目的ができてしまえば動かす手も速い。特に今日みたいな、突発的な理不尽で貴重な休日が潰されてしまった時には、無理やりにでもなにか楽しみを作らなければやっていられない。


 新しい区隊編成も決まり、いよいよ二年目。最後まで全員が走り抜けることを願って、今日はその団結会ということになりそうだ。





 日本最大のカルスト台地である秋吉台を走り抜け、徹美は夕日に照らされる防府の街へと入る。今日は一日中バイク漬けだったわけだが、実はまだまだ走り足りない。本当は明日もツーリングに出掛けたいところだったが、あいにく学生隊の基幹隊員での宴会が予定されている。断りたいところだが、自分の歓迎会も兼ねているとのことなので、出席しないわけにはいかない。というか、航学の先輩たちの誘いを断れるなんて徹美にできるはずがなかった。


 しかし焦ることはない。不本意ではあるが、数年間はこの防府の地で過ごすことが決まっているのだから、これからいくらでも愛車を走らせることができる。皮肉なことに、航空部隊を離れたお陰で飛行機漬けの毎日からは解放され、休日は自由な時間が増えた。県内には他にも幾つかのツーリングスポットがあるらしく、しばらく余暇は退屈しないだろう。


 基地近くの官舎に帰ると、制服姿の学生たちが歩いているのがちらほら目についた。名前が思い浮かばないあたり、自分の区隊員ではなさそうだ。もともと他人に興味を持たない性分なので、人を覚えるがあまり得意ではないのだが、一応教育を行う立場になった以上、早く学生たちの名前を覚えてあげないといけないなと憂鬱になる。


 と、そんな中にWAFの6人組を見つけた。その内二人は自分の区隊員、日和と冬奈だ。多くの学生が基地へと戻って行く中で、彼女たちだけは逆の進行方向。どうやらこれから外出するらしい。このまま無視しようとも思ったが、向こうがこちらの存在に気付いたらしく、大きな声で挨拶をしてきた。仕方ないので、面倒ではあるが大人しくバイクを降りてヘルメットを脱ぐ。


「お疲れ様です。やっぱり良いバイクですよねー。ツーリングに行ってきたんですか?」


「…まぁ、そんなところだ」


 真っ先に駆け寄り、物怖じせずに話しかけてくるこの子は夏希といっただろうか。どうもバイクに興味があるらしい。が、掘り下げればだらだらと話してしまいそうなので、適当に話題を変える。


「お前たちはこれから外出か?」


「はい、団結会みたいなものです。先程まで隊舎の清掃をしていましたので、出るのが少し遅くなりましたが」


 お前のかけた呼集のせいでな、とでも言いたいのだろうか。やや挑戦的な目で冬奈が睨んでくる。それともその反抗的な態度はこの間の面接が原因だろうか。夏希と同様、彼女もなかなか胆が据わっているようだった。


「仲が良いんだな。私の時は、あまり同期間で外食等はしなかった。あくまで競争相手だし、毎日必死だっからな」


「…私たちだって、必死です」


 今度は日和が表情を曇らせる。


「必死だから、助け合いたいから、皆との時間も大切にしたいんです」


「否定はしないよ。けれどそれがいつか足枷になる時が来る。仲の良い同期を失うのは案外辛いものだぞ」


 同期を失う辛さは、その殆どを失った自分が一番分かっているつもりだった。だからこそ、彼女たちには同じ想いをして欲しくない。それだけなのに、どうしてこんな意地悪な言い回ししかできないのだろうかと、自分でも不思議に思う。


 しかし彼女たちは強かった。


「大丈夫です。私たち、みんなパイロットになりますから」


 屈託のない笑顔で月音が言う。


「誰も辞めません。全員で仲良く最後まで残ります。精鋭7区隊ですから」


「7区隊?」


 聞き慣れない単語だった。航学には6区隊までしか存在しない。しかし言い間違えたわけでもなさそうだ。


「…この6人でそう呼んでるんです。私が言い始めたことなんですけど」


 そう言う日和はなんだかばつが悪そうで、勝手に「仲良しグループ」のようなものを作っていることを徹美に怒られるとでも思ったのかもしれない。月音もそのことに気付いたらしく、安易に口走ったことを後悔するように口を手で隠した。


「けしからんな」


「友達ごっこはするなってことですか。けど、誰かに迷惑をかけるつもりは…」


「そういう少人数でのグループは、期や区隊としての和を乱しかねん。お前たちがなにか悪さを企むなんてこともありえる」


「そんなことっ!」


 日和が声を荒らげようとしたその瞬間、徹美は財布から一万円札を抜いて彼女たちに差し出した。


「へ…?」


「団結会だろう? 私からの寸志だ。これで良いものでも食べてこい」


「えっと…え?」


 いきなりお金をだされてオロオロしだす日和。まあそれもそうかと、徹美は自分の面倒くささに呆れた。


「代わりと言ってはなんだが、私にその7区隊とやらの区隊長をやらせてくれないか?」


「はいっ?!」


「区隊にはそれを管理する長が必要だ。違うか?」


「いや、それは、そうですけど…」


 6人とも露骨に嫌そうな顔をする。当たり前だ。この面子だからこそ、気兼ね無しに仲良くつるむことができるのに、そこへ他人が、それも区隊長が入ってくるなんてとんでもない話だ。


 それを分かった上で、どうして自分は「仲間に入れてくれ」なんて言い出したのか。


「形だけでいい。お前たちはこれまでと同じように過ごしてくれれば。ただ、時々こうして、お前たちの話を聞いてみたいなと思っただけだ」


 自分たちは大丈夫だと言いきれる自信。その根拠はどこにあるのか。仲間という存在がそこまで大きな力を持っているのか。それが徹美には気になった。自分にはなくて、日和たちにはあるもの。それを見つけてみたくて、ただの興味本位なのかもしれないが、もう少し近い位置で彼女たちのことを見守ってみたかった。


「嫌なら…今日の話は聞かなかったことにするが」


「いえいえ! とんでもないです!」


 すぐ否定したのは意外にも月音だった。


「いいですね、7区隊長。私は賛成です!」


「菊池学生、あなたどうして…」


「これで7区隊の存在は岩本2尉公認ってわけですよね!」


 自分たちで勝手に名乗っているわけではなく、区隊長がその存在を認めている。この事実は大きい。例えば日和たちの中で誰かが「やらかして」しまった時、7区隊なんてものがあるから! と責められることはなくなる。いわば徹美は保証人というわけだ。これを瞬時に思い付くあたり、月音は相当頭の回転が速いらしい。と言うよりは悪知恵が働くのか。


 逆に上手いこと利用された、という感じがするが、お互い様だろう。もとより仲良くしようなんて考えていないのだから。


「成る程分かった。なにかあれば私の名前を出すといい。だからといって、なんでもやっていいわけじゃないからな? 学生としての節度は守ってくれよ」


「勿論ですよ!」


 ついさっきの嫌そうな顔もどこへやら、歯を見せて笑う月音。他の5人も彼女の意図を汲み取ったのか「宜しくお願いします」と頭を下げる。


 心から歓迎というわけではないが、取り敢えずは拒否されなかったことを喜ぶべきか。そもそもなんで自分が学生に対して遠慮しなきゃいけないのかと、なんだか複雑な気分だった。


「じゃあ、私たちはこれで…」


「うん。分かっていると思うが、帰隊遅延だけはしないように。明日には新入隊員がやって来るんだ。初っぱなから私に怒られるような、情けない姿を見せるなよ」


「心配いりません。私たち、大丈夫ですから」


 大丈夫。何度も彼女たちはその言葉を口にする。なにも根拠はないのに、まだなにも身に付いていないひよっこのくせに、一体なにが大丈夫だというのか。しかし何故だか、彼女らの「大丈夫」には妙な安心感があった。


「一体なんなんだ、あいつら…」


 じゃれ合いながら歩いていく背中を徹美はじっと見つめる。羨ましい。気付けばそんな風に感じている自分がいた。それは若さか、同期という絆か、いずれにせよ自分が失ったなにかのように思える。


 今回の異動になにか意味があるのだとすれば、彼女たちがその鍵を握っているのかも。そんならしくないことを考えながら、徹美は再び愛車に股がった。

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