鉄の女

「入ります!」


「ああ、いいよそのまま。入室要領は省略」


 普段は外来者に使用されている庁舎の空き家部屋。日和がいつも通り大声で扉を開くと、中で待っていた区隊長は驚くほど柔らかい声で彼女を部屋に入れた。


 進級式が終わった後、区隊長らが学生の状況を把握するために面談が行われることとなった。特にこの岩本いわもと徹美てつみ2尉は航学群にやって来たばかりで、日和たち71期のことをまるで知らない。しかし明日にはすぐ通常通りの教育が行われるわけで、円滑かつ質の高い訓練を行うためにも、学生の心情等把握は大切だ。


「緊張しなくていい。別に説教するわけじゃないんだ」


「はぁ…」


 先程の朝礼で見せた凄みのある声もどこへやら。どんな面談になるかと身構えて入った日和だが、すっかり調子を狂わされてしまい、ぎこちない動きでソファーに腰掛ける。


「坂井日和、か。前の区隊長からは聞いているよ。優秀な学生だとね」


「優秀だなんて、とんでもないです」


「学科成績こそ平均並みだが、体力に関しては非の打ち所がないな。特に駆け足、男どもにも負けない程の記録じゃないか」


「陸上部でしたので、走ることだけは。他は大したことないと思いますけど」


「自信を持て。お前は私から見てもデキる部類だ」


 岩本は手元の資料をペラペラとめくる。事前に区隊長が作成し、日和たちに書かせた簡単なアンケートだ。今回はこれを面談用の資料として使っている。


「今のところ、不安や聞いておきたいことは?」


「特には…先任期になって、訓練も厳しくなるので、ついて行けるかどうかは不安ですけど」


「後任期と大して変わらんよ。どうとでもなる」


 ただ、と声のトーンがやや落ちた。


「希望機種は戦闘機、とあるけど」


「はい」


「具体的には?」


「あ、そこまではまだ…考えてなくて」


「ふぅん?」


 岩本の眉間にしわが寄る。まずかっただろうか、と思わず日和は肩を強ばらせた。


「私が今一番心配しているのは坂井のやる気についてだ」


「やる気、ですか」


「私の経験上、目標がはっきりしていない奴というのは長続きしない。希望機種はそのいい例だ。将来自分がどんな航空機に乗って、どこの部隊で活躍しているのか。そういうビジョンが見えていない奴は、ただがむしゃらに頑張るだけで、やる気に欠ける。結果、大成しない」


「私、やる気はあります」


 少し反抗的な口調で返す。まるで自分が否定されたみたいで納得いかなかった。しかし構わず岩本は続ける。


「人並みにはな。言葉を変えれば「情熱」に欠けているんだ。坂井、お前みたいなのを私は見たことがある。恐らくお前は、パイロットになりたいからというよりは、なにか「夢」とかを求めてこの世界に入ったタイプじゃないか?」


 図星だ。もともと自衛隊なんて選択肢にすら入っていなかった。夢も目標もなくて、それでもなにかになりたくて偶然飛び込んだ世界が航学ここだ。


 だがそれがなんだというのだろう。日和自身、自分が選んできた道は間違っていないと思っているし、真剣に空を飛びたいと夢見て毎日厳しい訓練に耐えている。いかに区隊長といえど、それを否定される筋合いはないはずだ。


「…いけませんか?」


「悪いとは言わない。でも向いてない。航学ここを卒業したとしても、良い自衛官にはなれるだろうが、パイロットにはなれん。明確な目標を持たないような奴にはな」


「後から目標ができる人もいるはずです。最初から強い意思を持って「この機体を操縦したい!」と言って入隊してくる人が、一体どれ程いるでしょう? ほんの一握りだと思いますけど」


「実際に最後まで残れるのはそんなほんの一握りの人間だけだよ。それが現実だ」


 現実という言葉が日和に重くのし掛かる。なにせ彼女は10年も先を進んでいる先輩だ。それだけ多くの修羅場を潜り抜けているし、経験を積み重ねている。簡単に聞き流すことなんてできない。


「私には同期が60人いた。特になんの問題もなく、全員が航空学生課程を卒業して、フライトコースへと進んでいった。しかしそこから次々とコースアウトしていって…最終的に何人がパイロットとして残ったと思う?」


 10人だ、と日和の答えを待たずに続ける。


「たった10人。免になっても自衛隊に残り続けた者も含めれば20人かな。三分の二は辞めていった。皆死ぬ気で勉強して、辛い訓練にも耐えたのにな。残酷な世界だよ」


 ぞっとするような数字だった。50倍ともいえる狭き門を通り、ようやく入れることのできる航空学生。そこで2年間もの間厳しい生活に耐え、卒業してからも訓練ばかりの毎日で、ろくに遊ぶこともできない。そこまで人生を空に捧げても実際にパイロットになれるのは一握りの人間のみ。


 自分から辞めるとさえ言わなければ、敷かれたレールを進むだけで空を飛べると、そう後任期の頃は教えられてきた。しかし現実はそう甘くなくて、力がなければ容赦なくそのレールから降ろされるというのが自衛隊だ。


 どこか自分はこの世界を舐めていたのかもしれないと、日和は言葉を失ってうつむく。


「ショックか? まあそうだろうな。でもここはそういう組織だ。金を貰いながら好きな勉強をさせてもらえるのだから、むしろ感謝しないといけないくらいだ」


「…私は、そんな世界に必要ありませんか?」


「ない。少なくとも私は、今の坂井と一緒に空を飛びたくはない」


 ここまではっきりと自分を否定されたことが今まであっただろうか。これが形だけの言葉で、先任期になる為の洗礼というのであれば甘んじて受けるのだが、しかし岩本のそれは本気のように感じられた。


 真剣に空を飛ぶ人にとって、自分はそれほどまでに邪魔な存在だったのだろうか。この一年間で積み上げてきた自信が、ぐらぐらと大きく揺れる。


「それでもお前がこの世界にいたいと思うのなら、もう少し真剣に将来について考えてみろ。ここで私に会ったのもなにかの縁かもしれん。変わるには、まだ遅くないはずだ」


 戻れ、と言われてなにも言わずに立ち上がる日和。そのままふらふらと区隊教場へ戻ると心配した同期たちが声をかけてくれたが、今の日和の耳には誰の声も届かなかった。


 また自分が嫌いになりそうだった。





 その日の課業は終日座学で、面談が終わってからは一度も区隊長と顔を合わせる機会はなかった。あれからすっかり気持ちが落ち込んでいた日和だが、それも時間が経ってだいぶ持ち直してきたみたいで、若干のもやもやを抱えつつも、今では落ち着いて同期と話せるようになった。


「変な区隊長が来たものね」


 課業後、自室に戻ってベッドメイクをしている時に冬奈がぽつりと言う。彼女とは今日から同じ3区隊で、しばらくの間は日和と同部屋になる。


「人の当たりはずれとかは言いたくないけど、もっと話の分かる人が来て欲しかったわ」


「なにか言われたの?」


「面談の時、ちょっとね」


 珍しく冬奈が不機嫌そうな顔をする。いつもは綺麗に敷かれるシーツや毛布も、今日は少しだけいい加減だ。


「本気でパイロットになりたいなら同期を蹴落とすつもりでいけ。友達ごっこをする必要はない、とか沢村みたいなこと言うもんだから、それは違うだろって言ってやったの。そしたら『お前はパイロットになれない』よ。久々に頭にきたわ」


 どうやら彼女も区隊長とひと悶着あったらしい。日和と違うところは、腹をたてるか落ち込むかというその反応だろうか。


「私も、向いてないって言われたよ。なにも言い返せなかったけどね…」


「気にすることないわ。あの人だってまだまだ新米パイロットなんだから、全部が全部正しいことを言ってるわけじゃないはずよ。戯れ言と思って聞き流しなさい」


「うん…」


 冬奈の言いたいことは分かる。岩本2尉も完璧な人間ではない。パイロットとはどうあるべきか、どんな人間がパイロットに向いているのか、彼女自身も未だ模索し続ける日々を送っているはずだ。そんな彼女の言葉を全て真に受けていたのでは、日和の心が持たない。そもそも出会ったばかりの彼女に、日和のなにが分かるというのか。


 しかし彼女が自分たちよりも経験を積んでいるというのは紛れもない事実だ。それなりに重みは感じる。いくら聞き流せといっても、やはり日和には岩本の言葉が今でも強く響いていた。


「ねぇ冬奈。冬奈は私が、それか自分が、本当にパイロットになれると思う?」


「…確かに71期の全員がパイロットになれるとは限らない。けど、少なくとも可能性は誰しも持ってると思うわ。素質があるからこそ、選ばれてここに来たんだもの」


 迷いのない答えだった。強いな、と日和は羨ましく思う。おそらく彼女は他人にどれだけ貶されようが、自分には素質があると信じて疑わないのだろう。それを裏付けるのは知識だったり経験談だったり、もともとの芯の強さだったりするのかもしれない。


「そう言えば今日の群当直幹部、さっそくうちの区隊長だったんじゃない?」


「うん、さっき腕章付けてるの見たよ。今夜は気を抜けないね」


「あれは絶対に見回りとかちゃんとするタイプよ。若い幹部ってのは堅物ばかりで嫌ね」


「岩本2尉のTACネーム、聞いた? ロックだって」


「石頭…ってことかしらね」


 違いない、と二人は声を揃えて笑う。今日は一日中気分が沈んでいたが、それも冬奈と話していてだいぶ晴れてきた。彼女の言う通り、いつまでもこんなことで落ち込んでいられないと、そう思えてきた時だった。


 スピーカーから流れるぶつっという鈍い音。ほぼ反射的に学生たちが背筋を伸ばすその音は、誰かが当直室の放送器具に電源を入れた音だった。





 着任早々に当直上番というのもひどい話だなと考えながら、徹美は重たい足取りで学生隊舍へと向かっていた。今は航友会の時間らしく、学生たちが部活の為にそれぞれの場所へと走って行く。彼らはすれ違う度に相変わらずの大声で敬礼してきて、懐かしさを感じると共に耳障りでもあった。


 遠く空をT-7が夜間飛行訓練の為に上がっていく。自分が学生だったころはまだ一世代前のT-3が飛んでいたものだが、今では全ての練習機がT-7に置き換えられた。改めて入隊してからかなりの時が経ったことを実感する。


 数年ぶりの学生隊舍。廊下はピカピカに磨かれており、隅には埃一つ落ちていない。この徹底された清掃ぶりはどこの部隊や教育隊でも敵わない。それだけ高い規律が保たれているという証拠だ。徹美が数年前に入校した幹部候補生学校でさえも、航学の生活に比べれば生ぬるいほうだった。


 ならばその実力も試させてもらおう。


 正面玄関から隊舍に入り、そのまま真っ直ぐ当直室へ。既に勤務していた当直学生たちが「お疲れ様です」と挨拶してきたが、それを無視して徹美はその一言を乱暴にぶつけた。


「非常呼集」


 瞬間、当直学生の顔は一気に青ざめ、放送装置のマイクへと走った。


「訓練非常呼集! 訓練非常呼集! 航空学生舍前集合! 服装、乙武装ライナー!」


 突然の呼集。部活の為にあちこちへ散らばった学生たち。制限時間は5分。


 長い長い課業後の始まりだった。





 いつも通りの生活をしていた学生たちが突然の呼集に対応できるはずもなく、隊舍はまるで蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。何故このタイミングなのか、どんな目的があるのかなど考えている暇はない。とにかく急いで作業服に身を包む。ある者は隊舍内にすらおらず、それでも全員が集合しなければ意味がないため、彼らを呼び戻す為に遠く離れたグラウンドや体育館まで走った学生もいた。


 当然、時間内に集まれるはずがない。結果は散々なもので、全員集合の報告が岩本2尉に上げられたのは、最初の放送から十数分が経過した後だった。彼女にとってそれが満足のいく結果ではないことは言うまでもなく、その後も部活動や貴重な自由時間を返上して呼集訓練が繰り返された。


「次の服装、甲武装。4分で出てこい。別れ」


 一斉に学生たちがそれぞれの居室に走り出す。気が遠くなる程に繰り返されるそれは、ちょうど一年前の導入期間を思い出させた。


 満身創痍の身体に鞭を打ち、階段を駆け上がる。息が整わないままにロッカーを開け、素早く指定された服装に着替える。全く無駄のない動きだが、これでも設定された時間に間に合うかどうかは分からない。


 なんだって突然にこんな訓練を始めたのだろう。


 きつく弾帯を締めながら日和は思う。そもそも呼集訓練なんてそんな頻繁に行うものではない。この早着替えの行為そのものにはあまり意味はなく、たるんできた精神を引き締める為だとか、しめしやけじめをつける為だとか、要は「学生がなにかやらかした時」くらいしか呼集はかからないのだ。


 今回の訓練になにか理由があるのだとしたら「先任期になったことへのけじめ」だろう。しかしそれにしては他の基幹隊員の姿が見えず、やはり岩本が独断で呼集をかけたとしか思えない。


 舍前に並び、報告が上がる前にちらと岩本の顔を見る。まるでなにかを憎んでいるかのような冷たい表情。他の区隊長らが見せる厳しいそれとは、全く種類が異なるものだ。


「報告します! 航空学生総員61名、事故なし現在員61名集合終わり!」


「…4分35秒。話にならんな」


 もう一度呼集をかけるようにも思われたが、時間の無駄だと言わんばかりに彼女は学生に「休め」をかける。


「これがお前たちの現状だ。最低限のラインだけクリアする、その程度。どうせ今だって、我慢さえしてれば時間が解決してくれるだろうとか、甘ったれた考えでいるんだ。そんなことではパイロットにはなれん」


 一瞬、日和と岩本の目が合った。特にお前は、と言われたような気がした。


「来週には後輩が来る。来年にはもう卒業する。そうしたらすぐフライトコースだ。長いようで、思いの外残された時間は少ないぞ。後輩はすぐにお前たちに追い付き、同期には置いていかれる。本気でパイロットになりたいならば、もっと気を引き締めろ。現状に満足するな。突然こんな呼集がかけられたくらいで狼狽えているようではまだまだだ」


 罰としての腕立て伏せを命じ、彼女は隊舍の中へと戻って行く。まだ全てが終わったわけではないが、取り敢えず学生たちは安堵の息を漏らした。


 つまりこの呼集は緩んだ気持ちを引き締めるための儀式なのだ。先輩になるからといって調子に乗るなよという意味の洗礼であって、他に深い意味はない。多くの学生はそう感じていた。


「そこまでして厳しい区隊長を演じなくてもいいのにね」


 日和のすぐ横で冬奈が苦笑しながら言う。


「演じてるのかな?」


「そうだと思うわよ。変に優しくして、学生に舐められることがあっちゃ、区隊長としてやっていけなくなるから。最初の当直上番ということで、一度シメておきたかったんじゃないかしら?」


 肩をぐるぐると回し、次いで腕立て伏せの姿勢をとる。回数は定められていないが、限界までやれということだろう。心身共に疲労がピークに達しているが、もう一踏ん張りだ。


「私、さっきはあの人のこと石頭だって言ったけれど…」


「ああ、ロックの由来のことね」


「あれは石なんてもんじゃないわ。鉄よ鉄」


「…鉄の女ってやつだね。笑えないや」


 突然に、嵐のように現れて日和たちを掻き回す岩本徹美。彼女が一体なにを考え、どんなことをここで行おうとしているのか。その真意を日和はまだまるで掴めていなかった。

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