先任期 春
進級式
久しぶりに戻った防府の街は昔と殆ど変わっていなくて、懐かしさにあちこちを見て回りたい衝動に駆られながらも、彼女は愛車のNinja ZX-10Rを防府北基地に向けて走らせた。当時外出の為に自転車で何度も通ったその道を、今度は通勤の為にこうして走るなんて夢にも思わなかった。今回の転勤は希望していなかったのに、人使いの荒い人事だと改めて思う。
朝日に辺りが照らされると同時に、見慣れた正門が目に入る。外界と世界を隔てる関所。そこをくぐって中に入る憂鬱さはやはり今でも変わらない。
「おはようございます。身分証と営外証、乗入証の提示をお願いします」
警備の隊員がやって来て、バカ丁寧な対応をしてきた。見せるべきものくらい分かっているというのにご苦労なことだと、思わず頬が緩む。
「幹部です。一時乗入れで」
幹部自衛官にはその身分だけで基地を出入りする権利がある為、外出証や営舎外居住証は必要ない。なので身分証だけを警備に見せる。
「ああ、もしかして転勤ですか?」
「恥ずかしながら戻って参りました。もしかしてお会いしたことが?」
「ないでしょう。私も昨年ここに来たばかりですので」
なんだ、と肩を落とす。知っている人が一人でもいたら気分も晴れたであろうに。
「栄転ですか?」
「左遷ですよ、こんなの。ああ失礼、北基地が嫌だとかそういう意味ではなくて…」
「いえいえ、お気になさらず。ともかく、お帰りなさい。今日から一緒に頑張りましょう」
「ええ、宜しくお願いします」
敬礼を返し、アクセルを回す。腹に響くエンジン音。彼女にはそれが、新たな転勤先で始まる区隊長生活のスタートを告げているようにも聞こえた。
70期航空学生が卒業した翌日。大きな行事が終わったばかりということで基地には穏やかなムードが流れていた。しかし翌週には新しい航空学生、つまり、72期になる者たちが着隊する予定であり そうなるともう「先輩」だ。あまり気を抜いている時間はない。
「いっち、いっち、いっちにー!」
「うぅぅ! さっむぅい!」
朝のランニングをしながら愚痴をこぼす月音。相変わらず朝の空気は冷たく、少し走った程度では身体は暖まらない。そしてそれを口にしたところで寒さが和らぐはずもなく、横の日和は苦笑する。
「でもさぁ、こうやって弱音を吐けるのも今だけなんだよねぇ」
「まあそうだよね。後輩の前だと、カッコ悪いところ見せれないし…」
思えば70期の先輩たちは、日和たちの前で一度も弱い姿を見せたことがなかった。先輩とは常に後輩に頼られる存在であり、強くなければならない。そういう覚悟があるからこそ、僅か一年の違いといえど、絶対的な上下関係が築かれるのだろう。
先輩ぶりたければ先輩らしくあれ。それがたとえ見せかけであっても、後輩の前でだけはカッコ良くあれ。先任期になるとは、そういうことだ。
早く暖かい隊舎に戻ろうと、学生たちはなかなか良いペースで朝の駆け足訓練を終える。この後はいつも通り身辺整理に朝食、清掃、課業準備と、やることが一杯だ。その分刻みの忙しさは相変わらずだが、しかし一年もして手際がよくなってきたのか、昔と比べてかなり余裕を持って行動できる。ベッドメイクが苦手だった月音なんかは、毎朝泣きそうな顔で布団と格闘していたというのに、今では鼻歌混じりだ。
「そういえばさぁ、3区隊長、今日で変わるんだよね?」
さっさと布団をたたんで作業服に袖を通す月音。そんな彼女が作ったベッドを横目に見ながら、まだまだ詰めが甘いなぁと日和は苦笑いする。
「そうだね。WAF(女性自衛官)の区隊長が来る…とは聞いたけど」
「先任期の区隊長って全員パイロット、というか航学出身者だよね。女性というと、やっぱり輸送機の人かなぁ?」
「どうだろう。最近は女性の戦闘機乗りも増えてきたって話だし、一概には言えないんじゃないかな」
着替え終えた日和たちは落ち着いた足取りで部屋を出る。ちょうど冬奈と夏希の二人に出会ったので、一緒に食堂へ向かうことにした。
「先輩がいなくなったから指導してくる人もいないねぇ」
「それでも、やるべきことは自分を律してちゃんとやるの。ほら行くわよ。前へ、進め。駆け足、進め」
冬奈の指揮の下、隊列を組んで食堂へ駆ける。先輩も後輩もいない今、自分たちを見ている者など誰もいないのだが、こういうルールはきちんと守らなくてはならない。見られていないからやらなくていい、なんて甘い考えは、この一年ですっかり消えてしまったようだ。
と、日和たちが足並みを揃えて走っていると、一台のバイクが群庁舎の前にある駐車場に入って行った。大きなエンジン音で、遠くエプロンから聞こえてくるT―7練習機のプロペラ音がかき消される。
「お、ニンジャじゃん」
パッと見ただけで、夏希が嬉しそうな声をあげる。
「忍者?」
「バイクのことだよ、日和ちゃん。あれ、大型だよねぇ。結構いい値段するんだろうなぁ」
「おっ、月ちゃん分かる?」
「お父さんがああいうの好きだから、多少はね。それにしても…」
「ちょっと! ちゃんと前見て走りなさい!」
冬奈の忠告をよそに月音は改めてそのバイクをまじまじと見る。この基地ではあまり見たことのない車両。もしかしたらあれが新しい3区隊長なのだろうか。
「優しい人だといいなぁ…」
そんな淡い期待を口にしながら、再び月音は前を向いて走り出した。
「よく戻って来てくれたね」
学生隊長の野川2佐はそう言って彼女を迎えた。群司令への申告を終えた後、基幹隊員との初顔合わせ。隊長室には野川の他に、先任期中隊長兼1区隊長の国本3佐、2区隊長の小幡1尉が集まる。全員パイロット、そして航空学生の先輩たちだ。
「教育現場は部隊(飛行隊)とはまた違った特色がある。色々学んでいくといい」
「ここで学ぶことなど…部隊で一秒でも長く飛んでいるほうがよっぽど勉強になります」
鼻で笑うように、とても新着任者とは思えないような言葉を平気で放つ。国本や小幡は一瞬目を丸くするが、しかし野川は相変わらずニコニコしていた。
「パイロットとしては、ね。しかし我々は一人の幹部自衛官でもある」
「学生の教育は教育職に任せればいいのです。その為の特技制度だと私は認識しています」
「まあ、ロックの言いたいことも分からんではないです」
ロック、と小幡1尉は彼女のことをそう呼ぶ。これはTACネームというもので、パイロットに与えられるニックネームのようなものだ。彼等にはいつもTACネームで互いを呼ぶ習慣があり、それは飛行隊を離れた、ここ教育部隊でも変わらない。
「私だって、できれば早く部隊に戻りたい。操縦者なら誰でもそうでしょう?」
「俺はここの職場、結構好きだよ」
と今度は国本3佐。
「パイロットの卵を暖めるというのも、なかなか楽しいもんだ」
「ぬるま湯に浸かりすぎでは? もっとパイロットとしてのプライドが高いお方だと思ってましたが」
「おいロック!」
「まぁまぁまぁ」
険悪なムードになりそうなところを野川が鎮める。そこで彼女も言葉が過ぎたことに気付いたのか、すいませんと頭を下げた。
「何事も経験だよ。ここがぬるま湯かどうか、実際に体感してみるといい。特に71期はクセモノ揃いだからね、退屈しない1年になると思うよ」
「…御期待に沿えるよう尽力します。それでは私は紹介行事の準備がありますので、これで」
最後まで不機嫌そうな顔つきで彼女は隊長室を出ていった。と同時に男たちは皆疲れたように一つ重たい息を吐いた。女性のパイロットが来るということで、一体どんな人物なのだろうかと思っていたら、予想以上に気が強くて肝を抜かれていたところだ。
「若いな…」
ボソッと国本が呟く。そんな彼を見て野川は笑った。
「国本も昔はああだったよ」
「やめて下さい。あそこまで尖ってませんよ」
「いやいや先輩、当時はキレッキレッだったと聞いてますが? TACネームの「ナイフ」もそこからきているとか」
声を揃えて笑う男たち。なかなかのクセモノがやって来たようで一度は驚いたが、今ではこの先に不安など感じさせない、余裕の表情だ。
「ところで彼女が持つのは3区隊か。学生にはどんなのがいたかな?」
「こちらです、隊長」
国本から名簿を渡され、野川はざっと目を通す。するとその中にいくつか気になる名前を見つけたようで、穏やかだった眉間にシワを寄せる。
「なかなか面白そうな学生がいるね」
「区隊長と合わせて、どんな化学反応を起こすか楽しみですね、ナイフさん?」
「…厄介ごとにならなければ、な」
この後は群の朝礼で着任幹部の紹介行事があり、その後進級式、つまり71期が先任期へと変わる儀式が行われる。後任期で編成されていた各区隊は一度解散され、再度先任期として再編成が行われる(要はクラス替えのようなもの)のだが、その新たな3区隊の名簿には、71期の中心人物、そしてある意味問題児たちが名を連ねていた。
学生隊長への挨拶を終えた彼女は一足先に群朝礼場へと向かう。まだ紹介行事までは時間があるが、スムーズに朝礼を進行させるため、本番の前に式次第等の説明を受ける予定だ。
しかし実際に外に出てみると、まだ群本部の隊員たちがマイクチェックなどの機材準備を行っており、仕方ないのでしばらく待たせてもらうことにした。
「すいません区隊長、段取りが悪くて…」
そう言って頭を下げてきたのは3区隊の助教、黒木3曹だ。恐らく同い年くらいの好青年。これから一年間、一緒に区隊をまとめて行くパートナーとなる。
「構わないよ。隊長らと話しているよりは、こっちで時間潰しているほうが気楽だしね。焦らず、のんびりやってくれ」
そう答えつつ、先程のやり取りを思い出す。最初の印象としては最悪だろう、という自覚はあった。しかし思ったことは隠していられない性分だし、こんなところで上司のご機嫌をとっても仕方ない。
おおよそ二年程の辛抱だ。それだけすればまた飛行隊に帰れる。情が移らないくらいに、上手く立ち回ろう。そんな風に考えていた。
「そういえば区隊長は教育現場は初めてですよね。どうですか、意気込みのほどは?」
「そうだな、取り敢えず…」
少し考え、そしてニヤリと口角を上げる。
「私が区隊長をするからには、学生の何人かは辞めさせるつもりでいるよ」
「…はい?」
今日初めて見せたかもしれない彼女の笑い。しかしその横顔は不気味なくらいに残酷で、恐怖を感じた黒木はそれ以上なにも訊けなかった。
朝礼場に並ぶ学生たち。今日から先任期、そして新しい女性区隊長がやって来るということで、どこか浮き足立っている様子。しかしそれも気を付けの号令がかかると一気に静まりかえり、そわそわしていた学生たちは微動だにしなくなる。
「新着任幹部の紹介を行います。着任幹部登壇」
司会のアナウンスで紹介行事が始まり、日和は朝礼台に立つ噂の女性区隊長を見上げた。凛とした顔立ちで、細くて芯がある身体。対番だった巴のことを思い出させるような、いやそれよりもより強くて厳しそうな印象を日和は受けた。
「紹介します。
自分たちより10期上の先輩。第6航空団というとF-15を中心に運用している部隊だ。そして彼女の胸には誇り高く輝いたウイングマーク。ということは所謂イーグルドライバーなのだろう。
順調に進めば10年後には自分もこんな風になれるのだろうか。憧れと希望で、日和の胸がトクンと鳴った。
「転入幹部、挨拶」
「…学生諸官、おはよう」
低くて落ち着きのある、けれどよく通る声。学生たちは大声で挨拶を返す。
「若々しい君たちを見ていると、私も10年前そこに立っていたことを思い出す。どうか、その元気を絶やさないで、強くあり続けることを望む。私も全力でそれに応えよう。これから一年間、宜しく」
淡々と、どこか事務的な挨拶で、終始笑顔は見せないまま。厳しそうだが、それがクールでカッコ良くて、日和にはかなり好印象だった。もしかしたらそれは、卒業していなくなった「先輩」という穴を埋めてくれる存在に見えたのかもしれない。
紹介行事が終わればすぐに進級式へと移る。この時点でまだ学生たちは自分がどの区隊に所属するのかは分かっておらず、誰が区隊長になるのか、誰と同じ区隊になるのか非常に楽しみなところだ。まずは古い区隊の編成で並び、そこから新区隊長に名前を呼ばれたらそこまで全速力で走って行くという流れとなる。
「奥村学生、1区隊!」
「はい奥村学生!」
「樫村学生、3区隊!」
「はい樫村学生!」
順不同で次々と学生が呼ばれていく。日和はまだだが、月音と春香は1区隊、夏希と秋葉は2区隊、冬奈は3区隊に呼ばれていった。残された人数はどんどん少なくなり、そしてついにその瞬間が訪れる。
「坂井学生、3区隊!」
来た。大きな返事をして走り出す。新任区隊長が率いる3区隊。後任期の時に同じ区隊だった月音と別れてしまうのは寂しいが、どうせ今後も頻繁に絡むのだから大した問題ではない。
それより冬奈と同じ区隊になれたのは日和にとって嬉しかった。彼女とは座学の教授班が同じなので、平日においてはむしろ月音よりも一緒にいる時間が長い。それに日和たちの中では一番しっかりしているリーダー的な存在だ。安心感がある。
…なんて話を月音にしたらきっと嫉妬するのだろう。
「進級おめでとう。そしてこれから宜しく」
区隊長、岩本2尉に先任期の証である真っ青な識別帽を被せてもらう。これでいよいよ2年目のスタートだ。これからはもっと訓練が厳しくなるし、たくさん勉強もしなければならない。決して浮かれず、気合いを入れていこうと日和が決意した時だった。
「沢村学生、3区隊!」
その名前を聞いて全員の顔がひきつる。71期のトラブルメーカー。自己中で冷徹で、けれど実力はあるものだから文句を言うこともできない憎たらしい存在。
しかし日和はあまり悪い気はしていない。確かに彼は性格に難があるが、同期が困っていたらそこに手を差しのべるような人物でもある。足を引っ張られるのが嫌なだけだと本人は言うが、恐らくそれは照れ隠しだろう。手綱の取り方さえ間違えなければ、彼はとても頼もしい仲間に他ならないのだ。
「さて、新生3区隊の諸君、改めて進級おめでとう。区隊長の岩本だ」
全員の名前を呼び終わり、各区隊ごと最初の朝礼が始まる。
「私の要望事項として「強くあれ」を挙げる。いいかお前たち。弱い者に空は飛べない。パイロットを目指すのであれば、心身ともに強くなれ。君たちが思っているほどに、この世界は甘いものじゃない」
それくらい理解している、と学生たちは半分流すくらいで岩本の話を聞いていた。そのような話は耳にタコができるくらいに聞かされている。新任区隊長といえど、やはり話す内容は似たようなものかと少し残念そうだった。しかしそこで彼女の目が一層鋭く光る。
「断言しておこう」
その一言が、退屈そうな学生たちを現実に呼び起こす。
「君たちの中でパイロットになれるのは、ほんの数人に過ぎない。たとえ
ざわつき出す3区隊の学生たち。いつもならここで一言返す冬奈も、驚きで声を出せない様子だ。
「自分に自信を持てないくらいなら今すぐにでもここから出ていけ。私もそんな学生の面倒なんて見たくない。強くなる意思があるものだけ、私についてこい。以上だ。あとは助教、宜しく」
岩本と入れ替わり、黒木3曹が前に出て挨拶を始める。しかし先程の話が頭に残って、彼の言葉が全く入って来ない。
辞めろ、だなんて一度も聞いたことがなかった。
新しい区隊長の下、これからどんな一年間になるのかと色々楽しみにしていた日和だが、もしかしたらとんでもないハズレを引いたかもしれない。不安からなのか恐怖からなのか、震える拳を必死で押さえる。
もうすぐ4月。太陽の光もかなり暖かくなってきた今日だが、時折吹き抜ける風はまだまだ冷たいままだった。
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