払暁

 長いようだった年末年始休暇も過ぎてみればあっという間で、いよいよ最終日となった。今日中には防府北基地に戻らなければならないわけで、明日からまた厳しい生活が再開するかと思うと、少しだけ日和は憂鬱だった。


 既にまとめられた荷物を廊下に出し、部屋を綺麗に片付ける。里見の家族は皆親切で、なに不自由なく休暇を過ごさせてもらったわけだから、これはせめてもの恩返しだ。


「そんな気を使わなくていいぞ。掃除なら俺がやっとくから」


「そういうわけにはいかないよ。今日までここに泊めてもらったのは、私の我が儘なんだから」


 結局、一度も実家に戻ることはなかった。本当はちゃんと母親と向き合い、お互い納得いくまで話をしたいところだったが、そこまで心に余裕がなかったというのが日和の考える言い訳だ。


 今日までずっと、いつだって直也のことを考えていた。


 未だに日和は告白に対する返事ができていない。彼はなにも言ってこないが、きっといつだって日和の答えを待ち望んでいたことだろう。彼の為にも、そして自分の為にも、このままうやむやにして基地に帰ることなんて日和にはできなかった。


「もう出るんだろ? 駅まで送るよ」


 そう言って一番重たい荷物を持ってくれる。こういう小さな気遣いが、今の日和にとっては心苦しかった。いっそのこと優しくしないで欲しい。そうすればきっと、なにも迷うことなく決心ができるだろうから。


 これまで色々な人との出会いや別れを繰り返してきた十九年の人生だが、誰かを嫌いになりたいと思ったのはこれが初めてだった。





 直也の家から最寄り駅までは徒歩で行けるくらいの距離で、普通に歩けば数分程度でたどり着く。しかし二人はそんな短い距離を、名残惜しそうにゆっくりゆっくりと進んだ。辺りはすっかり深く雪で覆われていたが、歩道については綺麗に雪かきがされており、決して歩きづらいということはない。


 道中、直也はずっと日和に明るく話し続けた。やれあそこのビルは中の店が入れ替わったとか、向こうのコンビニには未だに無愛想な厳ついおじさんが店主を続けているとか、そんな他愛もない世間話。日和にとって、そして多分直也にとってもどうでもいい話ばかり。それでも沈黙よりはよっぽどましだと、彼は目に入るなにかを見つけては口を動かす。


 けれど日和はなにも返さなかった。


 なにかを拒むように。なにかから目を背けるように。


 優しすぎる彼から、もうその温もりを受け取らないように。


 彼の明るい声が、無機質な足音が積もった雪に溶けていく。家を出る前には熱く火照っていたその身体も、冬の風が容赦なく冷ましていった。


 そうこうしているうちに駅前までやって来る。普段なら通学の時間帯だが、まだ冬休みに入っているためか学生の姿は殆どない。出勤する大人たちも少なく、これなら電車の中はさほど混雑しないだろうと予想できた。


「ホームまで見送るよ」


「いいよ改札口ここで。ありがとう」


 直也から荷物を受けとる。彼の手の温もりが、僅かに日和へ伝わってきた。


 列車がやって来るまではまだ余裕があり、少しくらいなら話をすることができそうだ。きっとこれが二人に残された最後の時間。意を決し、先に口を開いたのは直也のほうだった。


「日和、どうしても自衛隊に帰るのか?」


「帰るよ。そこが私の居場所だから」


 直也の言いたいことはなんとなく分かる。だから日和も素直に答えた。


「俺の側じゃ、駄目なのか? なんでそこまで自衛隊を…」


「航学だから、だよ。なにも無かった私に、そこに居ていい理由を与えてくれた場所。こんな私が、誰かを守ることができる仕事」


「国を守るとか、俺にはあまりピンとこないけど、凄く大事な仕事だってことは分かってる。でもそれは、べつに日和じゃなくてもいいはずだろ? わざわざ自分からそんな危ないところに行かなくたって、俺と一緒に、ずっと平和に暮らしていけばいいじゃないか。それじゃ駄目なのか」


 ああ、優しいなあと日和は切なそうに微笑む。


 彼は心の底から日和のことを愛していた。日和と一生一緒にいたい、守ってやりたいと思っていたし、だからこそ自ら進んで危険な場所へ飛び込む彼女を止めずにはいられなかったのだ。単純に、自分の側に置いておきたいというエゴでは断じてない。


 その優しさが、余計に日和の心を抉る。


「俺、日和のことをずっと大切にするよ。寂しい想いもさせない。だから自衛隊とか、そんな場所にいないでさ、俺と一緒に…」


「ありがとう、もういいよ」


 想いも願いも温もりも、全てちゃんと受け取った。だからしっかりと応える。


「全部分かった上で、私は航学ここにいるんだ。それも含めて「私」なんだよ。高校の頃とは違う、好きでいられる「私」。胸を張って、真っ直ぐ向き合うことのできる「私」。心配する気持ちも、大切にしてくれてるってことも分かってるけど、それでも私は今の自分が好きだから…」


 里見、と名字で呼ぶ。瞬間、直也の肩が跳ねた気がした。


「私、里見のこと好きだよ。付き合いたい、結婚したって良いってくらいにね。けれどきっと私たちは、大切にしたいものが違う私たちは、たぶん一生分かり合えない。僅かにずれた平行線を、お互いずっと進んで行くことしかできないんだ」


 遠く、警笛の鳴る音。続けて列車がやって来ることを告げるアナウンスが聞こえる。


「私たち、もっと早くに出会えていたなら、一緒に歩いていける未来もあったのかもね…」


「日和…?」


「さようなら里見…好きになってくれて、ありがとう」


「日和っ!」


 改札を抜け、列車に向かって走り出す。全てを振り払って、もうその声が聞こえないように。


なにより、一度決めた心がぶれないように。


「日和、日和! 俺はっ!」


 何度も何度も彼が名前を呼ぶ。それは少し涙声で、悲痛な叫びのようで、日和の胸を背中から突き刺した。もつれそうになる足を懸命に動かし、列車に転がり込む。そんなに長い距離を走ったわけでもないのに激しく息が上がり、鼓動は全く治まることがない。


 そして列車は動き出す。彼を残して、彼女を乗せて、無慈悲に。


「ふっ…くぅ…うぅぅ…」


 ズルズルと身体が崩れ落ち、ダムが決壊したみたいに涙が流れ、床を濡らした。


「あぁ…あぁぁあ!」


 好きだった。直也の気持ちに応えてあげたかった。けれど今の自分を捨てることもできなくて、ようやく見えてきた夢を諦めることができなくて、こんな酷い別れになってしまった。


 こんなことなら最初から、はっきりと断ってしまえば良かったのに。


 彼の優しさに甘えてしまい、この冬を一緒に過ごしたこと。彼が勇気を出して告白してくれたのに、今日まで返事ができないでいたこと。一体どれほど彼の心を傷付けただろうか。


 最低だ、と日和は自分を責めた。


「お客さん、大丈夫ですか?」


 車内を巡回してきた車掌に声をかけられ、ようやく立ち上がる。それでも涙は止まることはなく、大丈夫ですとか弱く答えることしかできなかった。


「…先輩」


 無性に彼と話がしたくなる。そうしないと、罪悪感に押し潰されそうだったから。


 駄目だと分かっていても、震える手で携帯を取り出し、通話ボタンを押した。





 焦っても仕方のない新幹線の中で、関幸人せきゆきとは流れる景色をもどかしそうに眺めていた。


 日和から突然電話があったのは、幸人がちょうど基地に戻る為に東京の実家を出た時だった。休暇の最終日に一体何事だろうかと出てみれば、どうも様子が尋常じゃない。いつもは大人しくて冷静な日和が完全に落ち着きを失っており、聞こえてくるのは彼女が泣きじゃくる声ばかりだった。


 これは電話で話してもどうにもならない。幸人は敢えてなにがあったのかは訊かず、途中の名古屋駅で会おうとだけ告げた。今は厳しいかもしれないが、時間を空ければ多少は話せるくらいに平静を取り戻せるはずだ。


 高校の同級生に告白されたと日和は言っていた。彼女がこんな状態になってしまったのは、ほぼ間違いなくそれに関係することが原因だろう。


「だから、焦るなって…」


 下手くそな恋をしてしまったのかもしれない。本当はゆっくり時間をかけて踏んでいく段階を、彼女は、もしくは彼女に告白した彼は、焦るあまりに駆け足で踏んでいったのだろう。


 真面目だから、真剣に恋と向き合って、それ以外の大切なものが見えなくなって…


「いや、そもそもは僕が…」


 巴に恋をしているということを日和に話したから、彼女は「恋をしなければ」と考えるようになった。そこへ昔の同級生から告白されるという出来事が重なって、こんな結果になってしまった。


 自分がもっと日和と適切な距離を保っていれば、余計なことを話さなければ、彼女の心もぶれることがなかっただろうに。


 後悔の念を抱きながら、幸人は名古屋駅のホームに降り立つ。もう帰省ラッシュは終わったというのに辺りは人でごった返していて、けれどすぐに彼女を見つけることができた。


 行き交う人々はそれぞれが目的地に向けて歩いているというのに、彼女だけが行き場を失ったかのように一人きりで佇んでいた。


「坂井!」


 声に気付き、停まっていた彼女の時間が動きだす。最初はゆっくりと、だんだん歩みは速くなり、ついには荷物を放り出して一直線に幸人の胸へ飛び込んだ。


「先輩っ! 私はっ…」


 目を赤くさせ、きっと枯れる程に泣いたはずなのに、再び涙が止めどなく溢れだす。その泣き顔を隠すように、幸人は彼女を強く抱き寄せた。


「泣け、坂井。僕はいくらでも受け止める」


「私は…最低です…」


 好きな人の気持ちを、優しさを、全てを裏切ってしまった。自分がいつまでも迷っていたから、余計にその人を傷付けてしまった。そんな罪悪感に日和は潰されかけていた。


 けれど自分を責めないでいい。そう伝えたいはずなのに、今の日和にはきっとどんな言葉も届かない。


「元はと言えば、坂井のことを惑わせたのは僕だ。責任は、とる」


 口ではなんとでも言えるものだ。責任の取り方なんて、自分でも分かってないくせに。


 幸人は奥歯を噛みしめながら、一向に泣き止むことのない彼女を強く抱き締めた。





 山口までの新幹線の中、日和はこの冬の出来事の全てを幸人に話した。直也とはどんな関係で、どのようにして再会したか。休暇中に彼とどのように過ごし、そしてどんな告白を受けたのか。包み隠さず、短い幸せを思い出すように。


 時々泣いてしまいそうになると、幸人はなにも言わずに優しく頭を撫で、日和が落ち着いて話せるようになるまで待ってくれた。思いのたけを全て吐き出せばいい。そう言ってくれた彼は日和の話を聞くことに徹してくれて、時々相槌を打つ以外には一切口を開くことはなかった。


 それがどれだけ日和を救ってくれただろう。否定も肯定もせず、垂れ流しにした言葉を受け止めてくれるだけ。ただそれだけで、徐々に心の整理がついていく。それはまるで自分を見つめ直すための鏡のような存在で、いつもの冷静さを取り戻す唯一の方法だったのかもしれない。


 しかし決して傷は癒えない。それは日和を落ち着かせることはできても、壊れた心を治すような特効薬ではない。自分を見つめ直せば直すほどその傷は露わになって、一通り話し終えた後の日和は、どうにも定まらない虚ろな目を車窓の外に投げることしかできなかった。


 防府北基地に着くと、区隊長らへ帰隊報告を済ませると、幸人は日和の手を引いて隊舎の屋上へ連れて行った。もう片方の手にはドリル用の短木銃を持ち、まるで今から練習にでも行くかのように。しかしやや強引に、有無を言わさず。当然そこには誰もいなくて、いつも練習場所として使っている群朝礼場とはことなり、二人だけの空間となる。


「…先輩?」


「僕の与えた課題を覚えているかい?」


 日和に背を向けたまま、幸人は柵に肘をかけた。


「好き、という言葉では表せないくらい、恋には色々なカタチがある。僕の「好き」も坂井の「好き」も、そしてたぶん坂井に告白した子の「好き」も、全部違う意味を持ってるんだ」


「…里見は、側に居てくれって言ってくれました」


「そうだね。それが彼の考える恋のカタチだったわけだ。けれど坂井はそれに応えられなかった」


「私が、里見よりも自分の夢を優先したから…」


 違う、と幸人は振り返る。


「坂井の「好き」と里見君の「好き」は別のカタチを持っていたいう、それだけだよ。一緒にいたいというよりは、守ってあげたい、大切にしたいという…僕の考える「好き」に近いのかな。その感覚が、里見君とは相容れなかった」


「でもそれも、結局私の我が儘じゃないですか」


「そうだね。けど、里見君の気持ちだって我が儘なんだよ。互いの我が儘をぶつけあって、少しずつ歩みよって、二人の恋を形作っていく。それが理想なんだろうね。今回の場合、里見君も坂井もその結論を急ぎ過ぎたわけだけど…」


 そこまで言って、幸人は短木銃を日和に渡した。


「とにかく、坂井は里見君と生きる道ではなく、航学こっちの世界で生きていくことを選んだ。そしたらやるべきことは一つ、がむしゃらに、目の前のことを頑張るしかない」


「目の前のことを…」


「無理に恋をしようなんて考えるな。今はとにかく銃を取れ。それが里見君の気持ちを振り切ってでも戻ってきた坂井にできることだ」


 そしてそうすることで、日和は余計なことを考えずに、背負わずにすむ。今の彼女には、色々なことから距離を取らせたほうがいいと幸人は考えていた。


 勉強でも、訓練でもなんでもいい。なにかに一生懸命になっていれば、再び恋に惑わされることもない。ドリルの練習をすることで日和が迷わずにすむのなら、いくらでも練習に付き合ってあげる。それが幸人にとっての責任の取り方だ。


「幸人先輩…」


「やめろ坂井、僕を名前では呼ぶな。僕にそんな資格はない」


 始めようか、と言われて日和はクルンと銃を回した。久しぶりに手に取ったそれは思いの外冷たく、軽くて、それでも以前より綺麗に回せた気がした。





『訓練非常呼集、航空学生舎前集合。乙武装、ライナー、2種編上靴』


 まだ朝日が昇る前、すっかり聞き慣れた放送で学生たちは目を覚ます。これから舎前に集まった彼等は防府の街を走り抜け、近くの神社に行って今年一年の安全等を祈願する。払暁訓練と呼ばれるものだ。


 年末年始ですっかり鈍ってしまった身体に渇を入れ、心身共にスイッチを入れる。声を出し、歩調を整えて走っていると、やはり自分は自衛官なのだなという自覚が日和にも戻ってきた。


 今目の前にあることを、ひたすらに頑張る。そういう世界で生きていくことを選んだ。だからもう迷わない。


「歩調ぉ! 数え!」


 冷たい風がピリピリと肌に当たるのを感じながら日和は声を出す。ふと、先を走る幸人がこちらを見て笑った気がした。


 大丈夫。そう目で返す。この数週間で、自分はずっと強くなれたから。大切なものを見つけたから。今はただ、あなたの背中を真っ直ぐに追いかけるから。


 強く強く地面を蹴る。東の空には朝日が僅かに顔を出し、基地の方角からはようやく起床ラッパが遠く聞こえてきた。

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