冬季山岳保命訓練

 自習時間中に秋葉が倒れたという話は、すぐに当直を通じて航学群司令である佐伯1佐まで上がってきた。昨日は吹雪の中で1万m競技会が実施されたということもあり、体調を崩す学生がいたとしても全く不思議ではなく、衛生当直と連係して適切に処置するよう佐伯は群当直に命令した。


 が、翌日になってよく話を聞いてみれば、事態は思いの外深刻のようだった。


「一時的な心理的ショックによるものと考えます」


 わざわざ航学群の庁舎まで足を運んできた衛生隊長はそう報告する。つまり単なる体調不良ではないと。容態は安定しているものの、訓練等に参加するのは難しいということで、現在秋葉は通常の課業を外れ、衛生隊でカウンセリングを受けているところだ。


「フラッシュバックってやつかい?」


「言い切ることはできません。その辺りは慎重に判断していかなくては。特に学生の場合は…」


「そうだね。課程にも支障が出てくるかもしれない。ところで彼女は、カウンセリングが終われば課業に…せめて座学くらいに復帰することはできるのかな?」


「それが…」


 衛生隊長は言いづらそうに目を逸らす。現時点でも相当頭を悩ませる案件だというのに、これ以上に悪い話があるのかと、佐伯はさらに表情を曇らせた。





「声が出ない?」


 群司令室に呼び出しを受けた学生隊長、後任期中隊長、5区隊長の3人。秋葉の話を聞き、学生隊長の野川2佐が怪訝そうに眉間にしわを寄せた。


「出そうとしないわけじゃない。出せないらしい。カウンセラーとは、筆談でやりとりしているようだよ」


「自分のせいでしょうか…」


 5区隊長森脇2尉が気まずそうに顔を伏せる。競技会の後、勝てなかった5区隊の学生に指導を行ったのは彼だ。やりすぎたことをしたのではないか、と森脇は責任を感じていた。


 しかし中隊長猪口3佐がすぐにそれを否定してくれる。


「5区隊長が気にすることはない。指導方法に問題があるなら、私が止めていただろうよ」


「ならいいのですが…」


「終わったことを話しても仕方ない。それより、です。群司令、彼女の課程教育は継続でよろしいのですね?」


「うん。私も野川と同じことを心配しているんだ」


 場合や程度にもよるが、一般的に精神疾患を持つ者はパイロットになることができない。これは航空自衛隊特有のものでなく、民間も含める国内全てのパイロットに当てはまる。航空業務に従事する者は誰もが航空身体検査を受けることを航空法によって定められており、数十もの項目を各専門医が検査した上で、指定航空検査医が適否を判断する。そしてその中には精神神経科の項目も記載されている。


 例えばPTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ病といった精神疾患を持っていたとすると、航空自衛隊においてパイロットになることはかなり厳しいと言わざるを得ない。防衛省訓令ではうつ病等の気分障害及びその既往歴は基本的に不合格疾患であり、復帰可能なものに関しても再発しないことが最低の条件だ。


 本来航空学生制度においては、既往歴を有する受験者は選抜時に全て不合格となり、また抗うつ薬服用中の操縦者については例外なく復帰を認めていない。それなのに秋葉が入隊試験の際に弾かれなかったのは、症状として表れたのが今回初めてだったからだろう。


 このように、精神疾患が絡む話にはパイロットにとって不利益に繋がることが多い。なので精神及び神経系の診断は既往歴、遺伝歴、生活歴、日常行動についての客観的資料をできるだけ集め、検討されなければならない。特に慎重な検討を要する事例については、これらの客観的資料の把握が不可欠だ。


 ちなみに米空軍では空自と同様、全ての操縦者は精神疾患で航空業務停止となり、うつ病の再発などは即欠格となる。ただし、投薬などによって適切に治療が行えている場合に限り復帰も可能とされている。


「だから衛生隊長も「一時的」と言ってくれたんだろうね。ただし、今回の症状が頻発するようであれば…」


「まさか、課程免ですか?」


 森脇の表情がますます暗くなる。


「滅多なことを言うもんじゃない。彼女のためにも、このような事案は今回で最後にしてあげなければならない。我々にできることはそれだけだよ」


「私も中隊長に同意見だ。轟についてはこの後通常の課程教育に戻すつもりでいる。ただし、学生隊は衛生隊と連絡を密にして、彼女の様子をいつも以上によく観察しておくこと。いいね?」


「勿論です」


 学生隊長たち3人は気持ちを切り替え、群司令室を後にする。決して面倒事が増えたとは思っていない。むしろ学生のため、秋葉のためにより一層頑張らなければいけないと、教育者としての魂に火が点いたところだ。


 もともと航空学生課程は、その厳しさ故に心を壊してしまう学生が少なくない。秋葉ほど深刻なケースは稀かもしれないが、学生の心情を適切に管理しつつ訓練や教育を行うことは、基幹隊員たちの大切な任務だ。


「ところで隊長、轟を通常の課業に戻すということは、座学だけでなく、訓育などにも参加させるということですよね?」


「そうさせるつもりだが、中隊長は反対かね?」


「隊長、多分中隊長が心配されてるのはこいつのことかと」


 そう言って森脇は廊下に掲示されている月間予定表を指差す。もうすぐ年度末ということもあり、年間スケジュールの殆どは消化され、後任期に予定されている大きな訓練も残すところあと一つとなっていた。鳥取県は大山スキー場で実施される冬季山岳保命訓練だ。


「ああ、もうそんな時期だったか」


「どうするんです? 今の状態で轟を参加させるのはやや危険かと思いますが…」


「かと言って彼女だけ防府ここに置いていくというのも可哀想だろう。まあまだ時間はある。様子を見つつ、轟の心に負担をかけないような選択をしていくよ」


「…自分だけ訓練に参加できない、というのもなかなか辛いものがありますからね」


 中央階段を降りていく途中、何人かの学生とすれ違う。庁舎内に響き渡るほどの大きな声での敬礼。元気があって大変宜しいと、学生隊長も満足気だ。どうやら今は休憩時間で、1階の自販機コーナーで仲間同士一服していたらしい。早いこと秋葉もあの集団の中に戻って欲しいものだと、去っていく学生の背中を見て森脇は軽く息を吐いた。





 島根県と鳥取県の境目、米子市に所在する航空自衛隊美保基地からも拝むことができるその山が大山だいせんだ。標高1,729m、鳥取県及び中国地方最高の独立峰で、古くから郷土富士として地元民に愛されてきた。日本百名山や日本百景にも選定され、まさに鳥取県のシンボルと言うべき山である。


 その山裾に作られた「だいせんホワイトリゾート」は西日本一の規模を誇るスキー場で、豊富な積雪量と多彩なコース、初心者から上級者まで存分に楽しめるということで大変人気がある。


 またリフトから降りて見下ろすパノラマ風景は「絶景スキー場」と呼ばれるほどの美しさで、弧を描く弓ヶ浜半島に日本海、中海、島根半島を一望することができる。そんな見下ろす海に向かってダイブするかのようなダウンヒルはそうあるものではない。


 航空学生の後任期たちは毎年この大山スキー場で冬季山岳保命訓練を行っている。


 将来パイロットとして勤務するにあたり、万が一雪山に不時着する可能性もないわけではない。しかしどんなに困難な状況であっても、必ず生きて帰ってきてこそ優秀なパイロットというものだ。本訓練では雪山という環境の中で救助が来るまで生き抜く術を身に付け、また厳しい寒さに負けない精神を育むことを目的としている。


「いいか、雪山において一番気を付けなければならないことは体温の低下だ。人間は体温が35℃以下になると正常な判断ができなくなり、そのまま低体温症で死に至る場合が多い。だから身体を冷やす行為、例えば風に当たり続けるなんてことは絶対に裂けなきゃいけない」


 ゲレンデから少し離れたブナの林、一般人がスキーを楽しむ声が遠く聞こえる中で、4区隊助教の青木2曹が学生たちに説明を行う。せっかくスキー場に来たのだから、こんなところで訓練なんてせずに滑りに行きたいなと考えてしまいがちなのだが、これも命を守るための大切な授業だ。頭のスイッチを切り替えて、日和は真剣に青木2曹の話を聞いた。


「とにかく、不時着した場所からあまり動き回らないこと。余計な体力を消耗するからな。そして風雪から身体を守るため、雪洞を掘るというのが有効な手段だ」


 斜面等を利用し、降り積もった雪を掘って作られた横穴が雪洞だ。かまくらと違うところは、新たに雪を積み上げる必要がなく、雪山等で遭難又はビバークする必要が生じた時、比較的楽に早く作ることができる点だろう。


 雪はその70%が空気であり、非常に高い断熱性を持っている。仮に外気が-20℃であったとしても、雪洞の中は雪の温度である0℃前後が保たれる。決して暖かい環境というわけではないが、十分耐えることができる寒さ。実際に自然界で生きる野生動物たちは、こうして冬を生き延びている。


 とはいえ、パイロットが不時着した際にはスコップなどの道具を持っているはずがなく、学生たちはまるで狐が狸のように、手で一生懸命に雪を掻き出す。雪が硬く固まっているところは足で蹴って崩し、時間をかけつつも着実に雪穴を掘り進めていった。


「け、けっこうな重労働だね…」


 額に汗を流しながら月音は雪の壁を蹴る。ある程度氷を削ったら、それを雪洞の外まで掻き出し、そしたらまた中に入って削る作業だ。


「大丈夫? 代わるよ」


「うん、お願い」


 月音に代わり、今度は日和が洞に入った。小柄な月音が入るとするならば、もう少し掘れば足を伸ばして寝れるくらいの広さになるが、日和が入るとなるとまだかなり雪を削らなければならない。


「ふぅ、雪洞を作るだけでだいぶ体力持っていかれるんだけど…」


 疲れはてた様子で月音はその場に座り込む。訓練中にみっともない…が、今日の訓練はいつもと比べてだいぶ和やかなムードで進んでおり、彼女のことをみて助教らが怒ってくる気配もなさそうだった。


「考えたくないけど、緊急時は一人でこれを作らないといけないわけだよね。単座の戦闘機からベイルアウトした場合は、だけど」


「うわー、一人で遭難とか嫌すぎる! やっぱ私に戦闘機とか無理だ! 輸送機とかで、絶対誰かと一緒に飛ぶ!」


「墜ちる前提で飛ばないでよ…」


 苦笑する日和。そうこうしている間にだいぶ雪を削り落とし、大人一人が寝れる程のスペースは確保できた。あとは水が垂れてこないように天井をなるべく滑らかに仕上げ、寒気が抜けやすいよう床の端に溝を掘って完成だ。


 思いの外体力を消耗する作業だったが、それと同時に楽しくもあり、先ほどの疲れもどこへやら、月音は嬉しそうに洞の中で寝転がったり、出たり入ったりを繰り返した。さながら雪で遊ぶ子供のようで、また雪穴を出入りする姿がウサギにも見えてくる。が、これを言ったらまた彼女は怒るだろうから、日和は黙って彼女がはしゃぐ様子を眺めていた。


「よーし、穴を堀り終えたら仕上げだ。飛行隊の救装きゅうそう(救命装備分隊)から本物のパラシュートを借りてきた。こいつを使ってだな…」


 青木2曹がパラシュートを持ち出し、洞の入り口付近に大きく広げる。雪の上に濃い赤と白のストライプがよく目立ち、遠くから見てもここに何かがあるというのがよく分かる。


「こうして目印を作ってやることで、救難員がお前たちのことを見つけやすくなる。場合によっては風除けにも使えるから一石二鳥だぞ。覚えておけ」


 助教の話を聞いているのかいないのか、学生たちは初めて見る本物のパラシュートに興味津々だ。しかし月音はというといまだに洞の中に入ってままで、なにをしてるのだろうかと日和が中を覗いてみる。


「ねえ月音、もう完成したんでしょ? 出てきたら?」


「クオリティを高めてるんだ。それに、もっと広いほうが快適でしょ?」


「なに言って…うわ、すごっ」


 いつの間に月音は洞をさらに広く掘り進め、寝心地がいいよう床は綺麗な平らにならされ、ろうそくなどの照明を設置する横穴なんかも掘ってあった。あれだけ疲れていたのに、どこにそんな元気があったのだろうかと不思議になる。こうやって遊び(訓練なのだが)に真剣になる部分はいかにも子供っぽい。


 ちょうどそこで日和はある視線に気付く。みんなが作る輪から外れて、一人訓練の様子を眺めていた秋葉だ。あの日以来、誰ともまともにコミュニケーションをとっていなくて、そこに佇むだけというのが多くなってしまった彼女。当初は本訓練には参加できないかもしれないという話だったが、けれどなにか回復のきっかけになればと学生隊長が彼女を同行させた。


 相変わらず秋葉は一人ぼっちだ。同期たちの中に入って行こうという様子はなく、いつもなにを見ているのか分からない顔をしている。皆もそんな彼女に距離を置いてしまい、いるのかいないのか分からない、まるで人形のようになってしまった。放っておけばこのままフッと消えてしまうんじゃないかと、そんな気さえする。


「秋葉」


 名前を呼ぶと、少しだけ瞳に光が戻った。


「おいでよ。月音が作った雪洞、なかなか凄いよ?」


 ちょいちょいと手をこまねいてみるが、秋葉は弱々しく首を横に振るだけだった。やはりそう簡単には心が動きそうにない。


「まだ戻って来てくれないね」


 ひょっこりと月音が穴から頭だけ出す。


「うん。でも、諦めるつもりはないよ」


「勿論だよ」


 いつかまた彼女が71期の一員として帰ってくるために。しかしどうすればいいのか、その答えはまだ手がかりすらも見つかっていなかった。





 保命訓練については初日のうちに予定されていた全ての項目を終え、翌日については部外のインストラクターに指導してもらいながらのスキー研修、その翌日には帰隊となる。あくまで初日の保命訓練が主目的ではあるものの、その実は楽しむことを中心とした、学校で言うところの修学旅行のような意味合いを持っているのがこの山岳保命訓練だ。


 夜は学生と基幹隊員たちで夕食という名の宴会となり、少しではあるが余興なんかも行って盛り上がる。この一年間、厳しい訓練を乗り越えてきた彼等にとって、この最後の訓練はまるでご褒美のようなものだった。


 けれど秋葉はそんな賑やかな輪から外れて、一人だけ先に自室へ戻っていた。どうしてもあの明るい雰囲気の中に入っていく気が起きない。それにどうせ自分がいたところで場の空気が白けてしまうだけだ。


 なにも求めず、貰わず、静かに、声を殺して生きていく。それが本来の自分の姿だ。航学ここはそんな自分がいていい場所じゃない。


 この訓練が終わったら、ちゃんと「辞める」と言い出そう。そんなことを考えながら、秋葉は窓の外に見える夜のゲレンデを眺めていた。


「秋葉」


 と、そこへ日和が部屋に入ってくる。放っておいてくれたらいいのに、わざわざ同期たちとの宴会を抜けて、様子を見に来てくれたらしい。


「ちょっと、話さない?」


 そう言って彼女は秋葉の隣に座った。話をしようにももうその為の声は出ないのに、と顔をしかめると同時に手元の携帯がブルブルと震えた。メールだ。


『こういう形で話すのも、たまにはいいかなって。大丈夫。秋葉の声はちゃんと届いているよ』


 相変わらず妙なことを考えつくものだと呆れながら、それでも一言『わかった』と返すと、日和パッと顔を明るくさせた。


『明日はスキーだね。秋葉は滑れるんだっけ?』


『そこそこ』


『自慢じゃないけど、私も割と滑れるんだよ。上級者コースでも平気なくらい』


『凄いね』


 しばらく他愛もない言葉のキャッチボールが続く。秋葉が一言でしか返さないのに対して、日和はなんとか話題を探して、長い文を打って送ってきた。


 どうしてこの子は側にいてくれるんだろう。伸ばしてもいない手を、なんでこんなにも一生懸命に掴みにくるのだろう。


 ズキンと胸が痛くなる。懐かしいような感覚。けれどこれは求めてはいけないものだから…


『苦しい?』


 急に文面の空気が変わる。一瞬背筋が凍るが、決して目を逸らしてはいけない気がした。


『苦しいよね。きっと私なんかじゃ分け合えないくらい、すごく辛いんだと思う。でも、それでも私は秋葉を諦めたくないから、一方的かもしれないけれど、私の気持ちをぶつけるね?』


 今さら、こんな自分にどんな言葉が響くというのだろう。もうこれ以上構ったところで、余計に日和の心が辛くなるだけなのに。


 少し間を置いて、もう無駄なことはやめようと秋葉が携帯の電源を落とそうとした時、日和は彼女の手を優しく握った。


 そして届く一通のメール。彼女の想いが込められた、少し長めの文面。このまま閉じてしまってもよかったのかもしれないが、僅かに残る未練からなのか、秋葉はおもむろにその電子の言葉を開き見た。



 やがて、彼女の頬に一筋の滴が流れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る