また、もう一度前へ

 航空学生たちによるスキー訓練は、水泳の時と同様各個人の実力に合わせて、それぞれグループ分けをされて実施される。


 一つは全くスキーをしたことのない未経験者、そして一度くらいは経験のある初心者、人並みには滑れる中級者と、特に指導の必要がない上級者だ。


 多くのスキー場を持つ長野県出身である日和は、幼い頃からずっとスキーをして遊んでいるので、今更インストラクターに教わることもなく、当然のように上級者グループへ割り当てられていた。他にこのグループにいる学生は北海道や東北といった雪国出身の者が数名、その中には秋葉の姿もあった。


 だいせんホワイトリゾートは大きく4つのエリアに別れており、中でも国際エリアは国体を開催するために作られたスキー場というだけあり、かなり上級者向けの急斜面となっている。


「おおぉ…すっごい良い眺めだね」


 コースの頂上からは日本海を見渡すことができ、その絶景に日和は息を飲んだ。このような景色はいかにスキー場多しと言えど、海無し県である長野では決して見ることができないものだ。


 グループの引率は青木2曹が行っていたが、あくまで一緒について回るだけであり、基本的には自由に滑って構わないとのことだった。学生たちはリフトから降りる、慣れたように次々とコースに飛び込み、頂上には日和と秋葉が残される。


「じゃあ、行こっか?」


 日和が声をかけると、秋葉は小さく頷いた。心身がまだ不安定ということで、もともと彼女はスキー訓練には参加せずにホテルで待機という予定だったのだが、日和が区隊長らにかけあったのと、秋葉本人もその意志があるということで、常に二人で行動することを条件に訓練参加を許可された。


 二人で一緒に滑り出す。上級者向けのコースだが、それを感じさせないくらいの余裕の動き。秋葉も幼い頃からスキーをしていたということで、日和に負けず劣らずの腕前だ。


 昨日に比べて少し明るくなっただろうか。日和は時々後ろを振り返っては、自分の通った道をついてくる秋葉を見守っていた。


 相変わらず秋葉の声は戻らない。本人の意志とは関係なく、話そうとしてもその言葉が口から出てこない。それはまるで呪いのようなもので、彼女の中にいる大きな負の感情が、本当はもっと羽ばたきたいと思っている彼女自身の足を掴んでいるのではないかと、そんな風に日和には見えていた。


 冷たい風をきり、先に出発した同期たちを追い抜かし、一度も転ぶことなく1,600mのコースを一気に下る。我ながら上手いもんだと、ゴールした日和は爽快な気分に浸っていた。そしてほとんど間を空けず、秋葉もゴールに到着する。


 もう一度登ろうか? と日和が頂上へ向かうリフトを指差すと、秋葉は素直に頷いた。と同時に、僅かながらに微笑んだ気がしたのだが、すぐにその瞳からは光が無くなり、また人形のような冷たい表情に戻ってしまう。


 そんな顔しなくたっていい。笑っていいんだよ。


 切なそうに悔しそうに日和は秋葉を見るが、けれどその声が届くことはない。今目の前にいる彼女は空っぽの器みたいなもので、本当の秋葉自身はどこかに消えてしまったかのようで、どんな言葉なら彼女の心を動かせるんだろうかと、日和はどこか無力さを感じていた。




『もしかして、まだ自分が貰ってばかりだと思ってる?』


 日和から貰ったメールは、そんな言葉から始まっていた。こんな声も出ないような自分を、それでも諦めたくないと言ってくれた彼女。どうして彼女はこんなにも真っ直ぐでいられるのか、どうして放っておいてくれないのかと、秋葉はリフトで隣に座る日和を恨めしそうに横目で見ていた。


『秋葉が世界を見ていなくても、秋葉を見てくれてる人がいる。手を伸ばしたなら、必ず誰かが握り返してくれる。秋葉の周りにはね、思っている以上に秋葉が大切な人で溢れているんだよ』


 そうだろうか。いや、きっとそうなのだろう。日和を筆頭に、航学ここは本当に優しい人で溢れていて、自分が皆に愛されているという自覚だってある。


 だからこそ、希望を抱いてしまう。


 大切に、大好きになってしまったから。


 皆と一緒に空を飛びたいだなんて。


 けれど失ってしまう怖さはそれよりも遥かに強くて、自分だけ幸せになんかなれないという罪悪感があって、だからこそこうも思うのだ。


 これは、求めてはいけないもの。


 願ったりするとバチがあたるもの。


 人並みの幸せなんて、こんな汚れた自分には似合わない。



『本当に?』



 日和か、内なる自分かが、そう問いかけてきた気がした。





 その日の訓練は日が沈み始める頃には全て終わり、学生たちはまたペンションに戻って小宴会を開くこととなった。この日はジンギスカンの食べ放題。一日中運動をして疲れている彼等にとってはこの上ないごちそうだ。訓練最後の夜ということもあり、きっと今夜は大いに盛り上がることだろう。


 が、やはり秋葉の心は動かない。日和に連れて来られて夕食の席にはついているものの、誰とも目を合わせる様子はなく、置物のようにそこにいるだけだ。


 まだ彼女には時間が必要なのだろうか。しかしその残された時間は、そう長くもないことくらい日和には察しがついていた。


「今日一日、一緒にいてどうだったの?」


 本人には聞こえないよう、月音がこっそり日和に訊いてくる。


「うぅん…正直なところ、無力さを思い知っただけって感じかなぁ」


 声をかけると僅かながらに反応は示してくれるのだが、決定打とはならない。昨日送ったメールも、一体どれほど彼女にその想いが届いただろうか。秋葉がもう一歩先に踏み出すには、まだ何かが足りないのだろう。




『私も時々怖くなるんだ。今の自分が、ここにいる仲間が好きだから、それを失ってしまうとどうなってしまうんだろうって』


 焦点の遭わない目で、ただじっと机を見つめる秋葉。彼女の頭の中ではまだ日和から貰った言葉がぐるぐると回っていた。


『けれど、例えば綺麗な花がそこにあったとして「いずれ枯れてしまうから」って、その花を見ようしない人がいたら…それってとても勿体ないことだと思わない? 秋葉…花ってね、枯れても種は残るんだよ』


 言いたいことは分かる。鋭い針の如く、痛い程に胸に突き刺さる。



 それでも、やっぱり自分には…



「轟っ」


 急に名前を呼ばれ、顔を上げる。するとそこには沢村が、そしていつの間にか5区隊の全員が並んでいて、こんな時に一体何事だろうかと秋葉は目を丸くする。


「すまん、轟!」


 最初に頭を下げたのは樫村だった。


「俺たち、競技会で負けたこと、全部お前のせいにしてしまった!」


「ただの八つ当たりだったんだ。同期として、仲間として、本当に酷いことをしたと思ってる。すまない」


 次々と頭を下げる同期たち。突然の出来事に秋葉はおろか、側にいる日和たちも呆気にとられ、ポカンと口を開けていた。


「お前が教場を出ていった後な、皆で話し合ったんだ」


 溜め息交じりに沢村が言う。


「俺たちがやっていることは単なる憂さ晴らしでしかない。4区隊に負けたことを、何かの、誰かのせいにしてしまえば、自分がしてきた努力を否定しないで済む。俺たちは悪くないって理由ができる。その「誰か」を轟に押し付けてしまったんだ」


 聞けば秋葉が倒れたその日、沢村は区隊の同期たちを全員一発ずつぶん殴ったのだという。普段なにも言わない癖に、都合のいい時だけ彼女を利用するんじゃない、と。


 春香が彼女を連れて戻ってきたら全員で謝ろうと、そう決めていた。しかし結果は思わぬ事態となり、秋葉は戻って来なかった。それどころか、大切な「声」まで奪ってしまった。そこでようやく自分たちが犯した罪に気付いたのだという。


「ずっと、謝るタイミングを探してた。単純に頭を下げて俺たちの自己満足で終わらない、お前が戻って来てくれそうなタイミングを、な」


 沢村はすぐ横にいる日和に目を向ける。この訓練期間中、ずっと秋葉の側にいてくれた彼女。決して仲間を見捨てはしないと、少しずつ秋葉の心を解していった彼女。日和の想いは空しくも秋葉の声を取り戻すには足りなかったかもしれないが、そのバトンは沢村が確かに受け取った。


「こいつらだって悪気があったわけじゃない。俺も含めて、轟には早く5区隊に戻って来て欲しいと思ってる」


 沢村の声を聞きながら、再び日和のメールが秋葉の頭を巡る。


『秋葉、私たちは「同期」なんだ』


「お前、もしかして貰ってばかりだと思ってないか?」


『私たちにとっても、秋葉は大切な仲間の一人なんだ』


「勝った時の喜びも、負けた時の悔しさも、全部みんなで分かち合うことができるのが同期だ。俺たちだって、お前から色々と大切なものを貰ってるんだよ」


『秋葉が大切なものを失いたくないように、私たちだって秋葉を失くしたくない』


「ほら、思い出してみろ。お前の人生は…」


『本当に貰ってばかりの人生だった?』


 秋葉の中で二人の声が重なり、瞳から涙が溢れる。はらはらと、足元に零れ落ちる程に。


 自分にはなにもないと、なにも求めてはいけないとずっと思っていた。一人ぼっちになってしまった自分には、もう幸せになる権利なんてないのだと、ずっと孤独を貫いてきたつもりだった。


 けれど日和に、沢村に言われてようやく気付く。既に自分の周りにはこんなに素敵な仲間ができていて、皆が自分を求めてくれている。今まで求めてはいけないと拒んできたそれは、もうずっと前からすぐ傍にあったのだと。


 やや乱暴に目を擦り、濡れた頬を袖で拭き取る。最近は泣いてばかりで、これでよく涙が枯れないなと思うが、だけど久しぶりに心の底から笑えた気がした。





 その後の秋葉は今までと比べてとても表情が明るくなり、他の同期とも仲良く夕食を共にする姿が見られるようになった。まだいくらか気持ちの整理がついていない為なのか、未だに彼女の声は聞けていないが、それもきっと時間の問題だろうと、日和はホッとした気持ちで彼女のことを見守っていた。


「またお前に助けられたな」


 ふらっと沢村が日和の隣にやって来る。


「いつかの桜庭の件といい、本当は5区隊の中で解決しないといけない問題だったのに…」


「関係ないよ。同じ71期なんだからさ」


 それより、と日和は彼を隣の席に座らせ、空になっているコップにジュースを注いであげた。


「沢村こそ、色々ありがとうね。秋葉のために、私たちの見えないところで動いてくれてたみたいで」


「なにもしないで放っておくのも気分が悪いと思っただけだ。あいつがずっとあのままの調子でいたら期としての空気は悪くなる一方だし、そうなると俺にも都合が良くないからな」


「そう言って、いつも私たちのことを助けてくれるんだよね?」


「そうでもしないと、お前はすぐ自分を犠牲にしてまで他人を助けようとするだろうが。それ、良くない癖だぞ。轟じゃないけど、お前もそろそろ「自分を大切だと思ってくれている人」がいることを自覚したほうがいい」


「…いいでしょ別に。沢村に迷惑をかけてるわけでもないし」


「迷惑なんだよ。俺はお前が…」


 そこまで言って言葉に詰まる沢村。と同時に、盛り上がりを見せる宴会場の一角で一際大きな声が上がった。どうやらお調子者の学生がカラオケのセットを発見したらしい。宿の従業員に訊ねてみると自由に使ってもいいとのことで、ますます学生たちのテンションは上がる。監視役をしている基幹隊員たちも、今日のところは見て見ぬフリだ。


「じゃあ最初の一曲目! 誰がいく?!」


「言い出しっぺの法則だ。お前がやれよ」


「いやいやいや! ここはもっと適任が…」


 カラオケ特有の、場の空気を更に盛り上げる為のトップバッターを決める流れ。このまま誰も立候補しなければ、恐らく最初にこの機械を見つけた学生が歌うこととなるのだろう。


「騒がしい奴らだな…」


「まあいいじゃん。今日はそういうノリで…?」


 その時日和の目に入ったのはおもむろに席を立つ秋葉の姿。そして彼女が見つめるのはカラオケのマイク。


「秋葉、もしかして…」


 歌いたいのだろうか。しかし声も出ないのに一体どうするつもりなのか。日和が困惑していると、彼女は一瞬こちらを向いて微笑みを返した。


 だいじょうぶ。そう彼女の口が動く。


 思いもしなかった展開に、ついさっきまで騒がしかった会場は水を打ったように静まり返る。誰もが驚きの眼差しを向ける中、秋葉は堂々と皆の前に立ってマイクを握った。


 今まで誘われても決して立とうとしなかったその舞台。初めて見る彼女の新しい姿。それはまるで生まれ変わったかのようで…


「あいつ、どういうつもりだ? 止めたほうが…」


「待って」


 立ち上がろうとする沢村を日和が制する。やがてスピーカーからイントロが流れ、秋葉は一度深呼吸してその口を開いた。


「~♪」


 誰もが一度は耳にしたことのある、少し昔に流行ったアイドルの代表曲。最初はとても静かな曲調で始まり、サビにかけて段々と盛り上がっていくバラード。そして秋葉の美しい声が響き、日和たちのもとへと届く。


「秋葉…こんなに歌、上手かったんだ」


 一度も聴いたことのなかった秋葉の歌声。それは彼女が全てを失ったあの日、一番大切な友達に聴かせるはずだった歌で…消えたはずの秋葉の声は、誰かに聞かせたかった歌として、こうして戻ってきた。


「なんだあいつ、ああいう顔、できるんじゃないか」


 精一杯歌う秋葉は、これまでの全てに蹴りをつけるかのように少し寂しそうで、けれどこれまでに見たことのない程に良い笑顔だった。





 すっかり元の調子に、むしろもっと強くなった秋葉は、区隊長らから「心身共になにも問題なし」との判断を受け、他の学生と同じように通常の訓練へと戻ることとなった。その後の訓練は全て予定通り順調に進み、あとは防府北基地までの長い道程を、のんびりバスに揺られながら帰ることとなる。


 訓練の疲れもあってか殆どの学生は力尽きたように眠っており、日和も窓の外を流れる景色を眺めながら、うつらうつらと船をこいでいた。


「ねぇ、日和…」


「うん?」


 隣に座る秋葉に声をかけられ、意識が戻る。


「ごめん、寝てた?」


「いや、いいよ。どうかした?」


「…基地に戻ったら、今度の休み、買い物に付き合って欲しいんだ」


「勿論いいよ。なにか欲しいものが?」


 秋葉は少し間を置いて、どこか遠くを見つめるように目を細めた。


「時計を…新しい時計が欲しいんだ。私の持っていたやつは、もう壊れちゃったから」


 いつも肌身離さず持ち歩いていた、親友にプレゼントされた腕時計。今はもうその針が動くことはないが、もしかしたら秋葉の時間は、ずっとあの日から停まっていたのかもしれなかった。


「これも大切だけど、日和たちとの時間も大切にしたいから…だから一緒に選んで欲しい。これから長く使えるような、丈夫なやつをね」


「うん…うん、そうだね。私でよければ付き合うよ」


 二人は揃って窓の外に目を向けた。バスが山道を離れていくにつれ、外に見える雪の量も少なくなっていく。まだまだ冬はこれからが本番、寒い季節が続くが、いずれは必ず暖かい春が訪れる。そうしたらこの雪も溶けていき、また新しく大地から草花が芽生えてくるのだろう。



 ねえ、見ているかな。


 一度は全部失くした私だけど、今ならまだ、また前を向いて歩ける気がするよ。


 だからどうか、そこで見守っていて…


 そしてちゃんと「さよなら」を伝えるよ…



 壊れかけていた彼女の時間は、今またもう一度、少しずつだけれど確実に、音をたてて動きだす。

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