先任期を送る会
週も終わりの金曜日、防府駅から程近い場所にある結婚式場にスーツ姿の若者たちが集まる。もちろん誰かの結婚式というわけではない。今日ここで開かれるのは「先任期を送る会」という、いわば大きな宴会のようなものだ。
主役である先輩たちより一足早く会場入りし、諸々の準備を進める日和たち。時々鏡を見ては、どこか変なところはないかなと身だしなみをチェックする。なにせスーツなんてものに袖を通すのはこれが生まれて初めてだ。自衛隊生活をしていると大抵のことは制服で済んでしまうし、入隊試験の時も高校の制服で間に合ってしまった。日和を含めて今日の為にスーツを新調してきたという学生が殆どで、多分これからもこれを着る機会はそう訪れることはないのだろうと、鏡に映る自分の姿を見ながら日和は苦笑いした。
それぞれの丸いテーブルに先輩たちの名札を置いていき、同時に椅子や食器、飾られた花の位置などを微調整。会場スタッフたちが綺麗に整えてくれているものの、そのクオリティも航空学生の基準には及ばない。寸分の狂いもなく、全ての座席を整然と揃えていき、先任期を失望させない会場作りを行っていく。それこそが先輩に対しての敬意であり、これから先輩になるという覚悟の表れだ。
ふと日和はひとつのテーブルでその手を止めた。自分の席と、その隣に対番の巴。そして向かい側にはドリル等でお世話になった
この調子で本当に立派な先任期になれるのだろうか。巴や幸人たちも、一年前は自分と同じ気持ちだったのだろうか。テーブルの中央でバケットに詰められた色とりどりの花たちが、日和にはなんだか妙に塩らしく見えた。
『送迎バス第1陣が間も無く到着する。4区隊の学生はエスコートの為、受付前まで集合せよ』
ポケットに着けた無線機から、もうすぐ先輩たちが会場入りする旨の連絡が入る。我に帰った日和は残った仕事を手早く済ませ、他の学生と共に受付に向かって走り出した。
春香と秋葉が司会を勤める中で会はなにも問題なく順調に進み、先任期も後任期もともに満足そうだった。各区隊が余興として準備してきたビデオメッセージも多くの笑いと感動を与え、中には涙を流す先輩もいる程だ。
『若宮先輩はとっても素敵な先輩で、いつも私はその背中を追っかけてました。その後ろ姿が見られなくなるかと思うと、すごく寂しいです』
「おーおー、思ってもないこと言っちゃって。気持ち悪いなぁ」
「ひっどぉい!」
月音のメッセージをケラケラと笑いながら試聴する若宮。けれどその顔はどこか寂しそうで、でも同時に嬉しそうでもあった。
「これ、全員分撮ってあるの?」
日和のすぐ隣で、巴も楽しそうにスクリーンを見つめる。
「はい。私もカメラを回したんですよ」
「じゃあ日和から私へのメッセージもあるのね」
その通りなのだが、何故かあまり聴いて欲しくなかった。言葉だけでは足りないくらいに、巴へには伝えたい感謝の想いが沢山あって、映像に残っていることが全てだとは思われたくない。そしてできることならば、映像を通してではなく、直接その言葉を彼女に聞かせてあげたい。このビデオメッセージを作ることが決定してから、どうも日和の中で乗り気になれない、なにか引っ掛かるものがあったのだが、それはもしかしたら「先任期を送る会」だけで終わらせたくないという想いだったのかもしれない。
やがで、日和の姿がスクリーンに映し出される。淡々と、一度も詰まることなく感謝の言葉を並べる自分の姿。まるでそれはテレビのアナウンサーみたいに、どこか他人事として話しているようにも見えた。
「あの、巴先輩…」
これは自分の本心じゃない。本当はもっと、もっと感謝しなければいけないことが沢山ある。だからこれが全てだと思わないで欲しい。おずおずと日和が巴に声をかけると、彼女は全部分かっていると言いたげに優しく笑った。
「ありがとう、日和。大丈夫、全部受け取ったから、だからそんな顔しないで」
まるで飼い犬みたいに、巴はくしゃくしゃと日和の頭を撫でる。
「でも…」
「後輩にこんな素敵な贈り物されたら、私たちも黙ってはいられないわね。ちょっと待ってなさい」
日和の言葉を待たずに巴は席を立つ。この後には先任期による後輩に向けた余興が予定されているはずだが、どんな内容なのかというのは勿論知らされていない。巴にはそこでなにか出番があるみたいだが、対して向かいの幸人は座ったままだった。
「先輩は行かなくていいんですか?」
「うん。今回の出し物はね、木梨たち指導学生が中心に準備してくれてね。僕みたいな劣等生はお呼びじゃないってわけさ」
「そんなに卑下しなくても…」
本当のことだよ、と幸人は笑って流す。
「それより、すごく良い映像企画だったよ。感動した。僕たち70期にはまともに編集できる人がいなくてね、去年は酷いものだったなぁ」
「どんな内容だったんですか?」
「パワポで申し訳程度のOPだけ作って、あとはいつも通り体を張って誤魔化したよ。69期の先輩たちもさすがに苦笑いしてたのを覚えてる。だからね、坂井たちは凄いよ。こんなに立派な会を開いてくれるなんてさ」
「私は…なにもしてないですよ。ビデオメッセージだって、本当にこういう形で良かったのかなって。もっと伝えたいことがあるんじゃないかなって…」
「いいんだ。先輩なんだよ? 一年前は僕たちも同じ心境だったんだ。坂井が今どんな気持ちでいるのか、それくらい分かってるからさ」
「…そういうものでしょうか?」
「そういうものさ。坂井も、あと一年すれば分かるようになる。ほら、始まるよ」
幸人が中央のステージを指差す。瞬間、日和たち71期の顔が凍りついた。
そこに現れたのは作業服に腕章を着けた指導学生たち。丁度一年前、入隊式前に行われた洗礼の儀式や、一秒たりとも心休まる時間のなかった導入期間のことが思い出される。
「先輩、これって…」
恐る恐る日和が幸人に視線を戻すと、彼もまた「先輩の目」をして真っ直ぐ前を向いていた。後輩に指導を行うときの、機械のように容赦のない冷たい目。なるほどそういう「儀式」かと、日和は諦めたようにステージへと視線を戻す。
上げてから落とす、というのが航学流。余興なども交えた楽しい宴会で油断させておいて、その浮わついた気分をここ一番のタイミングでドン底まで叩き落とす。先輩がいなくなるからといって決して調子に乗ることがないよう、ここで一度シメておくというのがこの会の目的なのだろう。
「お前ら、随分とお楽しみのようだな」
マイクも使わずに話し出す、指導学生長川越の低く凄みのある声。何度聞いても慣れることのできない、できれば二度と聞きたくない声だった。
「もうすぐ俺たちも卒業し、お前らも先任期になるわけだ。厄介者がいなくなるのがそんなに嬉しいか? 後輩に威張れるようになるのがそんなに楽しみか?」
突然のショックに「はい」とも「いいえ」とも答えることができない後任期たち。そんな彼等に先任期はさらに追い討ちをかける。
「なに黙ってんだお前らぁ! なんか言ってみろよ!」
「もう先輩気取りかぁ?! 背筋伸ばせぇ!」
腕章を着けた先輩たちが辺りを歩き回り、机や椅子を大きな音を立てて叩いていく。まだ状況が飲み込めないのか、日和の手は小さく震えた。
「お前ら変わってないな。一年前からなにも変わってない」
川越が一度全体をゆっくりと見渡し、大きく息を吐いた。
「強くなれと、俺はことある毎にお前たちに言ってきた。航空学生は強くあらなければならない。弱い者には自分も他人も守れない、とな。一年が経って、お前らはどう変わった? 自分だけでなく、同期も守れるくらいに強くなれたか?」
なれました、と誰かが答える。しかしすかさず巴がそれを一蹴した。
「甘い。先任期に求められる責任は、あんたたちが思ってるほど軽くない。私が見るに、71期はまだ後輩という身分に甘えている。いい? 今まではなにか困った時には先輩を頼ればすぐに答えが返ってきた。けど、もう少ししたらその立場に自分たちがなるの」
巴たちが卒業してから次の後輩たち、つまり72期が着隊するまではおよそ一週間ほどしか時間がない。その短い間に日和たちは「後輩」から「先輩」にならなければいけないのだ。そのプレッシャーに耐えれるかと問われると、正直日和にはまだ自信がなかった。
「できることなら私たちだって、いつまでもあなたたちを導いていきたい。だけど残念ながら、それは叶わない…」
(…巴先輩?)
急に声のトーンが下がる。それはまるで自分に言い聞かせているかのようで、辛そうな表情で、彼女がなぜそんな顔をするのか日和には理解できなかった。
「坂井、よく見ておくんだ」
真っ直ぐ、眉一つ動かさずに幸人は巴を見つめていた。
「これが木梨のけじめだよ。坂井と自分を切り離す為の、ここを卒業して次のステップへと進むための…」
改めて日和はステージに立つ巴を見る。この一年間、様々なことを教え導いてくれた対番。日和が最も慕っている先輩。その彼女がもうすぐ卒業していなくなる。
頭では理解できているものの、いまいち実感が湧かないでいた。このままではいけないと、後輩としてけじめを付けないといけないと思っていたが、それは先輩にとっても同じことだったのだろうか。
皆に見守られる中で、巴は一度顔を伏せて拳を強く握り締める。
「だから最後に、最後に一度だけ私たちが見本を示す。これが70期の、不器用だけど真っ直ぐ走り続けてきた私たちの成果であり、けじめよ。しっかり見ておきなさい」
「先任期学生気を付けぇ!」
川越の号令で会場の先輩たちが一斉に立ち上がる。驚いて日和が目の前の幸人を見ると、彼は一瞬だけニヤリと笑った。
「その場に腕立て伏せの姿勢をとれ!」
「1、2!」
思わず71期の学生たちも次々と立ち上がった。自分たちの為に示してくれるその背中を、座って見届けるなんて真似はできない。
「行くぞお前ら!」
「応っ!」
「1! 2! 3! 4! 5…」
一糸乱れずとはまさにこのこと。70期の66名全員が誰一人遅れることなく、声をあわせて回数をこなしていく。誰を見ても手抜きなんかしていないし、姿勢もペースも綺麗に保ったままだ。
見ているだけで鳥肌が立ち、手足が震える。一体どれだけ練習してきたらこんな真似ができるのだろう。先ほど幸人は、技術がないから身体を張って誤魔化してきたと語っていたが、日和たちが準備してきたビデオメッセージよりも、こっちのほうがよっぽど心が震える気がした。
「56! 57! 58…」
巨漢の川越が吠える。巴の額を汗が滝のように流れる。幸人が歯を食い縛り、若宮が、瀬川が顔を歪ませた。けれどペースは落ちない。悲鳴もあげない。震える腕を根性で押さえながら身体を下げる、上げる。その勇姿に日和たちはぼろぼろと涙を溢した。
「98! 99! 100!」
腕立て伏せ100回。言葉だけならば大した回数ではないように思える。しかしそれを60人以上が声と動きを揃えて、ペースを落とすことなくとなると相当辛いものがある。きっと今の日和たちには出来ない、そんな困難を巴たちはやってのけた。
立ち上がり、服装を正す先任期たち。息は上がり、せっかくのスーツも汗まみれだが、誰もそんなこと気にしていなかった。
「これがお前たちに示す、俺たちの団結力だ!」
全てを締めくくるように川越が声を張る。
「同じことができるようになれ、とは言わない。でも、これと同じくらいの課題がこなせるくらい、お前たちには強くなって欲しい。先任期になれば、その責任に押し潰されそうになることもあるだろう。それでも! 後輩は常にお前たちの背中を見て育つ。どんなに苦しくても顔には出さず、弱音を吐かず、挫けずに頑張って欲しい。最後に…こんな素晴らしい会を計画、準備してくれた71期のみんな、今まで俺たちについてきてくれて本当にありがとう。長い航空学生生活も折り返し、お前たちならきっと大丈夫だ。先にフライトコースで待ってるぞ!」
乾杯、という川越の発声で学生たちは杯を高く掲げた。指導学生たちは一斉にその腕章を外し、張り詰めた弦を緩めるかのように顔をほころばせる。近くで対番同士が仲良く談笑する中で日和が巴に目を向けると、彼女はふっきれた様子でウインクを返してきた。私はもう大丈夫。だから日和も頑張れと、そう言われた気がした。
先任期を送る会は一応これで終了であり、この後は基地や下宿に戻るなり、別の店で二次会へ行くなりと自由の時間となる。
「素敵な会をありがとう。今日はこれから指導学生で飲みに行く予定だから、今度二人きりでご飯でも誘うわ」
そう言って巴は日和に別れを告げ、防府の街へと繰り出していった。残された日和には特になにも予定はなく、同じように行き先のない同期たちと二次会に行くか、それとも大人しく基地に戻るかで悩んでいた。
暗くなり、すっかり人通りも少なくなった駅前のロータリー。白くなる吐息と一緒に空を見上げながら、日和は今日のことを振り替える。
巴はこれで「けじめ」をつけたようだった。きっと彼女も卒業を目の前にして色々と迷っていたのだろう。
71期は、自分の対番である日和は無事にあと一年を乗り越えることができるだろうかと、なにか教えていないことがあるのではないかと。そんな迷いがきっと彼女の中にもあったはずだ。その想いが今日の会で払拭されたのだったら、日和にとってそれは嬉しいことだった。
だから自分も覚悟を決めなければいけない。もうこれからは先輩に頼っていくことなく、後輩に頼られる存在になる。今まであまり実感が無かったが、ようやく日和もその「けじめ」をつけることができそうだった。
ちょうどその時だった。
「やぁ坂井、一人かい?」
ふらっと幸人がやってくる。思わぬ人物の登場に驚きつつも、お疲れ様ですと日和は小さく会釈する。どうやら彼も一人らしかった。
「先輩は二次会とか行かないのですか?」
「その時のノリと気分で決めよう…っていう話だったんだけどね、少人数のグループで分散しちゃってこの様さ。僕みたいなのは、どこもお呼びじゃないんだね」
「…相変わらず、自己評価が低いですね」
「坂井には言われたくないかなぁ」
「え、私…そんな風に見えますか?」
「よく言うよ。実力はあるのに自信がない。ドリル練習の時、散々僕が指導したことじゃないか」
「ああ、そういえばそうでした」
二人の笑い声が静かな駅前に響く。あくまで先輩と後輩という、上下が存在する間柄なのだが、なぜだか日和は彼と話していると心がフッと軽くなるような気がした。
「どう? 似た者同士、これから飲みにでも」
「私は未成年なのでお酒は無理ですけど、お供します」
よし決まり、と歩き出す幸人のすぐ隣に日和は並ぶ。心なしかいつもより一歩近く、互いの熱が伝わるくらいに。
「僕がよく行く店があるんだ。そこでいいかい?」
「是非。幸人先輩のお勧めなら行ってみたいです」
無意識に名前で呼ぶ。けれど彼はいつかのように、それを否定はしなかった。
今でもこの人は、巴先輩に恋心を抱いているのだろうか。もしかしたら…なんてことはあり得るだろうか。
いつの間にかそんなことを考える自分に気付き、そんなことではいけないと日和は頬を軽く叩いた。
「どうかした?」
「いいえ。さぁ、早く行きましょう」
冷たい風が吹き、幸人は日和を庇うように歩く。
卒業式までのカウントダウンは始まっている。暖かい春の訪れは、もうすぐそこだ。
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