導入期間

導入開始

 入隊式直後に行われる「対面式」とは、隊番区隊ごとに先任基と後任期が対面で並び、互いに自己紹介等をする伝統行事である。


 後任期が順番に前に立ち、氏名や出身地、出身校、意気込み等を大声で語った後「よろしくお願いします」の声に対して先任期たちが「よろしく」と返すのだが、その様子はまるで暴走族や不良グループの挨拶のようだと区隊長らは語る。


 既にこの時から指導は始まっており、教練動作がなっていない、声が小さい等々、あちこちで怒号が飛ぶ。そして全員の自己紹介が終われば辺りは静かになり、続いて服装容儀点検が行われた。それぞれの後任期の前に対番が立ち、作業服の着こなしや靴磨きの状況等を点検していく。


「プレスのライン着けが甘い」


「はい坂井学生、プレスの不備!」


 先輩たちの目はさすがに厳しく、わずかな不備も決して見逃さない。特に巴は指導学生という立場もあってか、彼女の求める基準は他の先任期学生が求めるそれよりも高いものだった。日和は他の同期と比べてプレスや靴磨きは上手なほうであったが、それでも巴を満足させるに足る基準には達しておらず、他の学生に比べて明らかに日和の指摘箇所は多い。


「妥協なんてさせないわ。他の同期と比べれば出来ているとか甘ったれたことは言わせない。何事においても下を見るんじゃなくて上を見て、私たち先任期を追い越すつもりで取り組みなさい」


 巴の言葉は厳しいものだったが、全ては日和を思ってのこと。彼女には自分の対番に無難な道を歩ませる気はなく、全てにおいて一番をとらせるつもりでいた。それがたとえ結果につながらなかったとしても、何でも全力で臨むという精神は、今後長い航空自衛隊生活において大きな力となる。


 対面式が終わる頃、ちょうど1700の課業終了ラッパが鳴り響いた。わずか30分程の短い時間であったが、日和たち後任期にとってはとてつもなく長い時間に思えた。


 やっと終わった。そう安堵の息を吐く者いる。しかし航空学生はそう甘くない。


「次の集合完了は1730。食事とベッドメイクを完了させた後、常装にて各人のロッカー前にて待機。質問は?」


 指導学生長川越の言葉に日和たちは戦慄した。後わずか30分。作業服から制服に着替えるので5分、ベッドメイクに20分とすれば食事の時間はたった5分。しかも移動時間や食堂に並ぶ時間は考慮していない。言い間違えだろうか、という甘い考えが日和の中にふと浮かんだ。


「お前ら質問はないのかって訊かれてんだろうが! 返事はねぇのか!」


 他の先任期が怒鳴り、ほぼ反射的にありません、と何人かが答えた。しかし大多数の者がタイミングを逃し、返事さえもできないでいた。それを先任期が許すはずがない。


「論外だ。教育を受ける姿勢ができていない。全員、その場に腕立て伏せの姿勢をとれ」


 川越に言われ、後任期たちはすぐに地面に伏せる。ただでさえ時間がないのに、返事ができないという理由で貴重な時間がどんどん過ぎていく。


「10回だけでいい。ただし全員が声を揃えて数えろ。少しでも乱れていたらカウントしないからな」


 川越の合図で腕立て伏せを始める後任期たち。しかし1回目ですでに声が揃わず、先任期たちから怒号が飛ぶ。


 自分以外の誰かがやってくれればいい。そんな甘い考えがあれば60人超の声は決して揃わない。先程の返事にしてもそれは言えることで、自分一人くらい声を出さないでも大丈夫だろうという考えを一人でも持っていたら、集団の声は揃うことなく、曖昧な返事しかできなくなる。


 今腕立て伏せをしているこの後任期の惨状は、彼等の集団としての弱さの表れとも言えた。


 結局、腕立て伏せの指導を終えたのは1715頃、残り15分しかない。


 課業時間後、このように理不尽とも思える時間設定がされるのは入隊式を終えてから4週間の間で、この期間を「導入期間」と呼んでいる。


 入隊したてで、学生としても自衛官としても未熟である後任期を、一刻も早く学生に求められる最低基準に到達させる為、約一ヶ月かけて急速錬成するのが導入期間設定の目的で、この期間が終えるまでは彼等は正式な航空学生とは見なされない。


 その証拠に、彼等にはまだ航空学生の証の一つである識別帽を付与されていない。


 識別帽とは隊員の所属を識別しやすくする為の帽子で、部隊ごとに色やデザイン等が異なる。航学群の場合は、区隊長ら基幹隊員が紺色、先任期学生は青色、そして後任期学生は水色の識別帽を着用する。これによって学生は同期なのか先輩なのか、はたまた基幹隊員なのかを見分けることができるのだが、これを付与されていない導入期間中は制帽、作業帽といった航空自衛隊統一のものを着用する。


 ちなみにこの「導入期間」という呼び名だが、以前は「第二次対番指導期間」とも呼ばれていた。第一次は着隊してから入隊式までの期間を指すが、後任期の指導は対番学生のみでなく、航学群全体で行うべきという考えのもと、名称が変更された。


「あとたった15分、夕飯を食べてる余裕なんてないんじゃない?」


 夏希の一言で、食堂に向かおうとしていた後任期数人の足が止まった。言われてみればそうかも、と何人かが頷く。


 学生生活において最も大きな時間ロスとなるのが食堂での待ち時間だ。


 喫食者をなるべく渋滞させないよう、食事を提供する側も配食等を行い、なるべく早く食事が終えれるよう工夫はしてくれるものの、60人もの大人数が一度に食堂に入れば当然渋滞は起こる。きっと最後尾になった者は待っているだけで15分経ってしまうだろう。


「でも、そんなことしていいのかな?」


 夏希の言うとおり夕食をとらず、そのまま隊舎に向かえばギリギリ間に合うかもしれない。だが先程の指示は「食事とベッドメイクをすませる」だったはずだと日和は心配していた。


 しかし今は悩む時間さえ惜しい。夏希を中心とする何人かがすぐに隊舎へと走り出し、日和はどうするべきか立ち尽くした。その時だった。


「何してるのよ坂井学生、行くわよ」


 冬奈だった。彼女は日和の手をとり食堂へと走り出した。その半ば強引な様子は、まるで夏希たちには付いていくなとでも言っているかのようだっだ。



 後任期が全員夕食を終え、ベッドメイクも済ませて常装へと着替え終えたのは1750頃。これでも可能な限り急いでおり、日和に至っては一口しか夕食を食べていない。


 しかし時間を守れていないのは事実。遅れた者は容赦なく、再び腕立て伏せをすることになった。


 予定より大幅に遅れたが、続いては各部屋ごとで入室要領の演練が開始された。日和の部屋では、巴が指導学生として他の部屋を見回る為、若宮が日和と月音の指導を行うことになる。


 入室要領とは、学生が自分の居室以外の部屋に入る際に行う一連の動作のことだ。具体的には


1 ノック2回した後「入ります」と言いつつ入室。

2 ドアを閉め、回れ右をして一歩前に出る。

3 部屋内の先任者(一番階級が高い者)に正対して敬礼。

4 所属、氏名、要件を告げる。


 退室時には


1 先任者に正対し、敬礼しつつ「帰ります」。

2 回れ右をして速やかに退室。



 というのが一連の流れだ。これを一つでも間違えれば入室することは許されず、即ち学生生活で最初に身につけなければならない基本的動作となる。


 頭では理解できていても、行動に移すとなるとなかなか難しい。さらに常に大声を出さなければならないのだから、体力的にも余裕がなくなり、次第に頭が回らなくなってくる。


「4区隊坂井学生は若宮学生のもとに参りました!」


「一歩出てない。やり直し」


 冷たく言い放つ若宮。月音と合わせて、何度部屋を入退室したか分からない。かれこれ30分も練習をしているが、何事もなく入退室できたのは片手で数える回数でしかない。


 日和と月音は疲労しきった顔を見合わせた。あとどれくらい繰り返すのだろう、と日和が言いかけたその時だった。


『航空学生舎前集合。服装、乙武装おつぶそう、ライナー、2種編上靴。指導学生対象外』


 放送がかかり、先任期たちが一斉に戦闘服装へと着替え始めた。なにが起きたのか理解できない日和たちだが、呆然とする暇は勿論ない。


「急げ! 5分以内に舎前に集合! 遅れることは許さないわよ!」


 廊下の中央で巴が叫び、日和たちは慌てて自分のロッカーに走った。航空学生にとって「舎前に集合」という放送がかかったらそれは非常呼集と同じ意味である。学生は速やかに戦闘服装に着替え、5分以内に隊舎前に集合し報告をあげなければならない。


 日和が制服を脱ぎ始めた頃、既に若宮は作業服へと着替え終わっており、瞬く間に弾帯とライナーを着けて部屋を飛び出して行った。その時間わずか3分。日和から見ればまるで魔法のような早さだった。


(うぅ…履きづらいな)


 焦りと苛立ちで日和は顔を歪めた。新品で、まだ固い編上靴は履くまでに結構時間がかかる。足が入りきっても側面のチャックが上がりきらず、さらにその後決められた通りに靴紐を結ぶのだから、作業服を身につけるよりも編上靴を履くのに一番時間を要するだろう。


 日和がやっとこさ戦闘服装に着替えて舎前に向かうと、既に先任期は全員揃って報告を上げ終わっていた。その後に後任期全員が揃う頃には先任期は解散を告げられた。


「10分53秒…」


 集合完了の報告を受け、腕時計を見て指導学生長川越が言う。


「最低だ。ここまで酷いとは思わなかった。これだけ時間をかけたのだから、さぞかし完璧な服装で出て来たんだろうな?」


 服装容儀点検実施、という川越の合図で指導学生たちが後任期の服装を点検しに向かう。対面式後の点検とは違って数人の指導学生が複数人の点検を行うので、巴は日和の所には来なかった。


 次々と不備を指摘される後任期たち。日和の不備箇所は弾帯だんたいの装着位置、ライナーの傾き等だった。彼女はまだマシな方で、編上靴の1種と2種を間違えている者、装着要領が間違っている者など様々だった。


 その後は勿論反省の腕立て伏せである。既に体力の限界に達している者もおり、日和の隣では月音が、これ以上腕立て伏せが自力ではできない程に疲労しきっていた。


「次の服装、常装。一斉に別れる。別れ」


 腕立て伏せを終え、日和たちは疲れた体に鞭打って居室に駆け出す。次は戦闘服装から制服に着替えて集合しなければならない。目標時間である5分をきれるまで何度も繰り返されるこの訓練は、一部の者から「着せ替え人形」とも呼ばれていた。この集合に間に合わなければ再び戦闘服装。それも駄目なら再び常装と、走っては着替えてを何度も繰り返す。


 ここで難しいのは、回数を繰り返せば繰り返す程動きが悪くなる、つまり遅くなるというところだ。走り、着替え、腕立てを繰り返していれば当然体力を消耗する。体力が無くなれば動きは遅くなり、そして間に合わなくなって腕立て伏せ…と悪循環に陥るわけだ。だから「なんとしても次こそ間に合わせる」という気持ちで臨まなければならない。


 居室に走りながら日和はそれを直感していた。もしかしたら他の学生の中には「間に合うワケない」と諦めている者もいるかもしれない。しかし諦めればそれで許してもらえる程、ここは甘い組織ではない。


 全速力で居室に戻った日和は、目の前の光景を見て絶句した。彼女たちが必死の想いで整え、綺麗にされていたはずの居室が、まるで泥棒に入られたかのように荒らされていた。


 俗に「台風」と呼ばれる指導である。指定された通りに居室を整頓できていなければ、それを点検しに来た教官や先輩が部屋を荒らし、もう一度整頓を実施させるというもので、まるで台風が過ぎ去った後のようになることからそう呼ばれる。


 一瞬体が固まる日和だが、狼狽えている暇はない。早く部屋を片付けて制服に着替えなければまた遅れてしまう。


 が、日和たちが必死になって外に出て来ても制限時間に間に合うことはできなかった。ただ着替えてくるだけでも間に合うかどうか怪しいのに、それに加えて部屋の整頓も行っているのだから間に合うわけがない。だが指導学生たちは「そんなことは関係ない」と言わんばかりに容赦なく指導を行う。


 この地獄のような訓練は導入期間中毎日行われる。呼集がかかってから5分以内に着替えて集合完了する。これが一つの大きな課題となる。この5分という時間がきれない限り導入期間は終わることはなく、過去には導入期間延長の措置をとった期もいたという。


 人生で最も濃い2年間と呼ばれる航空学生過程の中で、最も濃い一ヶ月と呼ばれる導入期間。日和たちが経験するその期間は、まだその一部分しか姿を見せていない。

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