最初の休日

 たとえ土日祝日であっても、朝が訪れれば起床ラッパは鳴り響く。学生たちはいつも通りに起き出して舎前に並んで日朝点呼を行うが、そこに平日のような緊張感はない。点呼を終えた学生たちはそのままベッドメイクに居室に戻るか、朝食の為に食堂に向かうのだが、いつもなら駆け足での移動が命じられているところを、休日ほゆっくり歩いていく。それでもちゃんと隊列を組み、足並みを揃えて歩くのは流石としか言いようがない。


 休日の動きは非常にのんびりしている。まず起床時間はいつもより1時間遅い0700時で 、消灯時間も翌日が休日の場合は1時間遅れの2300時となる。


 その他には特に大きい制約はない。食堂や浴場の開放時間こそ定められているが、それを除けば「何時までにこれをしろ」というようなものはない。せいぜい外出する前には部屋を整えてから出ることくらいだ。


 日和たち6人は揃って食堂に来ていた。普段1、2分で済ませている朝食も、今日ならお喋りしつつのんびり食べることができそうだ。


「せっかくの休みでも、外出できないとなると暇だよねぇ」


 夏希が軽くため息を吐いて言う。余計な私物を置いておくおことができない航学生活において休日の楽しみといえば外出することくらいしかないのだが、休日だからといって全員が外出できるわけではない。各当直勤務者は交代で当直室に待機しなければならないし、そもそも導入期間中後任期たちは外出を許可されない。


「何言ってるのよ」


 呆れた様子ですかさず冬奈は返す。


「うちの区隊は課業行進の練習をする予定だし、そうでなくとも制服や靴の手入れ、ベッドメイク等の練習、掃除、やるべきことは色々あるわよ」


 冬奈の言葉を日和は頷きながら聞いていたが、一つだけ理解できない単語が聞こえた。


「ちょっと待って。掃除?」


 毎朝行われている清掃も、休日はやらないと聞いている。となると自主的にする掃除のことだろうか。日和だけでなく、冬奈以外皆同じ表情をしていた。


「ああ、まぁ、すぐ分かるわ。この後部屋に戻ってベッドメイクを終えたら廊下に集まってちょうだい」


 わけも分からず、取り敢えず頷く日和たち。休日は自由に時間を使うことができると誰もが思っていたが、それもまだ先の話になりそうだった。




 航学には各期に一人ずつ「清掃大臣」という者が存在する。平日の朝にいつも行われている清掃作業だが、それとは別に休日を使って大規模な清掃を行う時がたまにある。例えば航空祭などの部外者がここを訪れる時や、定期的な隊舎点検を受ける時、そして酷く隊舎が汚れてしまった時だ。


 これらの作業は通常のそれとは異なり、全体で統制を取りつつ行う必要があるので、その時に代表して指揮をとるのが清掃大臣となる。


 71期で清掃大臣に任命されたのは6区隊の木田だ。因みに木田の対番も同じ清掃大臣であり、この任務は対番系列を通じて代々受け継がれていく。


「先輩から清掃の指示を受けた。清掃箇所は主に廊下と階段、そして各居室の床だ」


 後任期全員を隊舎前に集め、木田が前に立って指示をする。


 連日の非常呼集訓練のため、隊舎の床にはあちこちに学生が駆け回った跡が残っている。特に短靴たんか編上靴へんじょうかは靴墨を使って磨き上げられているため、その靴墨が床に擦り付けられて黒い跡となってしまっている。今回の清掃は主にその靴墨落としが目的だった。


「廊下でやる作業だから、なるべく人がいない時間帯でやりたい。この後先輩たちは外出するはずだから、清掃作業についてはその後実施するつもりだ。目標としては今日の午前中に終わればいいかなと思ってる」


 説明を終えると木田は各区隊から数名を呼び出して掃除道具を渡していった。こうなることを見越して、先輩の清掃大臣があらかじめ道具を買い揃えていたらしい。WAFの6人は俊鷹舎しゅんようしゃの清掃を担当する為、日和が代表して道具を貰ったのだが、靴墨落とし専用と言われて渡された道具は彼女にとって見慣れないものだった。


「これ、スポンジ? こんなので靴墨が落ちるのかな?」


 渡された白くて四角いスポンジを持ち、不思議そうに日和は言う。他に渡された物はなく、洗剤の類もない。


「あー、激落ちさんね」


 日和が貰ってきた道具を見て、やっぱりか、という顔を冬奈はした。


「靴墨落としの時は大抵これを使うのよね」


 冬奈に続いて他の4人も日和の周りに集まる。


「水垢とか落とす時に使いますよね。他にも色々な汚れを落としてくれますから、掃除の時はよく使ってました」


 この「激落ちさん」は市販で手軽に手に入る物なので、春香のように使ったことがある者もいる。洗剤などは必要なく、水を吸わして擦るだけで汚れが落ちるので、自衛隊でも色々な掃除の場面で活躍してくれる優れものだ。


 隊舎に戻った日和たちは早速清掃を始めることになった。面白いもので、廊下や居室の床には自分たちがよく通る所に靴墨の跡が残っており、呼集の時にどのあたりを走って移動しているのかがよく分かる。そして各居室やロッカーの前についている靴墨の状況を見れば、誰がよく床を汚しているのか分かってしまうのも楽しいところだ。


 全ての汚れを手作業で落としていくのは流石に骨が折れるので、大まかな汚れはポリッシャーを使って落としていく。こちらは「激落ちさん」とは違って家庭や学校に置いてあるような物ではないから、初めて使う者も少なくない。流石に冬奈は手慣れていて、見事なポリッシャーさばきでどんどん汚れを落としていく。


「なんかそれ、楽しそうだね」


 ちょっと使わせて、と月音が冬奈に代わってポリッシャーを手に取った。


「危ないと思ったらすぐスイッチを切りなさいよ?」


「平気平気。そんな難しいものでもないでしょ…って、うわわわ!」


 スイッチを入れた途端ポリッシャーが右に左に大暴れする。操作には少しコツがいるので、最初から冬奈のように上手に操るのは難しいかもしれない。慌てて冬奈が止めに入ろうとすると、月音はそれを手で制した。


「このっ! んっ! よしっ!」


 悪戦苦闘しつつも、なんとかポリッシャーを操る月音。まるで暴れ馬を乗りこなそうと奮闘するジョッキーのようだ。だが少しすればそれも落ち着き、冬奈のようにまともに操れるようになってきた。


「おお、月ちゃんやるねぇ」


 夏希が思わず拍手しながら言うと、月音は得意気にピースをした。油断するとまたポリッシャーが暴れだしそうだったが、もうその心配も必要ないようだった。そんな彼女の様子を見て、最初は止めに入ろうとした冬奈も安堵のため息を漏らす。


「それの操作は菊池学生に任せるわ。私は磨き終わった所を拭き上げていくから、この調子でさっさと終わらせましょう」


 頷き、手際よく清掃を再開する一同。初めは面倒だと思っていた掃除も、なんだかんだ皆楽しそうに作業を進めている。たとえ外出ができないとしても、皆が揃っていれば退屈はしないのだろうなと日和は笑った。




 清掃作業は午前中のうちに終わり、午後は課業行進の練習や、身辺整理をして過ごした日和たち。羽を伸ばす、と言う程ではないが、自由に時間を使えるというだけで後任期間たちにとっては大分気が楽だった。


 あっという間に夜になり、日和は月音と一緒に居室で靴磨きをしていた。同部屋の若宮は外出してまだ帰っておらず、指導学生のため外出できない巴は日和たちに気を使ってくれているのか、他の部屋に遊びに行ったきりまだ戻って来ない。


 靴を磨きつつ時折月音は携帯を弄っていた。きっと誰かとメールのやり取りでもしているのだろう。平日は携帯を触る暇さえなく、外部と連絡をとる手段がなかったため、久しぶりに携帯を開くと多くの着信履歴が誰の携帯にも残っていた。その返信ができるのは土日の限られた時間の間だけであり、それが過ぎるとまた一週間程外部と連絡がとれなくなる。


「友達?」


 月音があまりにも頻繁に携帯を触るものだから、気になって日和は声をかけた。


「うん。それとお母さんから。全然連絡とれてなかったから、結構心配してくれてたみたい」


 ニコニコと笑う月音を見て、日和も自分の携帯を開いてみた。


 地元の友達から数件のメールと、あとは妹の灯から毎日一件ずつ。友達のほうは返信をくれないことに若干苛立っているような内容のメールがいくつか届いていたが、その点こっちの事情を把握している灯は特に気にしている様子はなく、ほぼ一方的に近況を告げる内容や応援してくれている内容のメールを送ってくれていた。


『なかなか返信できなくてごめん。多分今後もずっと連絡がつきにくくなると思う』


 事務的な、簡素なメールをそれぞれに返す。それ以上は特に望まなかった。ここからやり取りが続いても、どうせまた一週間は音信不通となるし、もともとそんなに仲の良い友達がいたわけでもない。日和が通っていたのは県内でも有名な進学校だったので、彼女のように就職の道を選んだ者とは目指すものも生活も違う。同じ部活の同級生等とは頻繁に連絡をとっていたが、彼女らも今頃は大学生活を満喫しているはずで、こんな自衛官になどかまっている程暇ではないだろう。


 少しすると期待していなかった返信がやって来た。思いの外早いな、と日和はまた携帯を開く。


『気にしないでいいよ! お姉ちゃんのタイミングでメールを返してくれれば、私は十分嬉しいから!』


 灯だった。やっぱりなと少し残念に思いつつも、自分のことを気にしてくれていることが素直に嬉しかった。


「…誰かと繋がっているって、羨ましいね」


「ん? 日和ちゃん、何か言った?」


 何でもないよと返しつつ、日和は携帯を置いてまた靴磨きを始めた。


 その後もやっぱり妹以外にメールはやって来なかった。友達からも、親からもない。逃げ出すように自衛隊に入った反面、色々なものを捨ててきたのかもしれないなと日和は少し後悔する。あるいは何も作ってこなかったのかもしれないが。


 なんにせよ、日和にとって今一番頼りになるのは他でもない同期たちだ。ここに集まった者たちは皆同じ目標を持っていて、そういう点では今までの高校生活とは異なる。


 自分がこれまで作ってこなかったもの、守ってこなかったものをここで作っていけばいい。少なくとも、今目の前にいるこの妹そっくりの同期は、決して自分のことを見捨てることはないだろう。それに応えるように、自分も同期を見捨てることなく、皆で頑張ろうと心に決めた。


 自由な時間はあっという間に過ぎていく。厳しい一週間の始まりはもう目の前だ。

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