衝突 前編

 新たな一週間を迎える月曜日。土日存分に羽を伸ばした者たちにとってはゆっくりと体のエンジンをかけていきたいものだが、ここ自衛隊ではそうも言っていられない。ラッパが響けばベッドから跳ね起き、舎前に向かって全力ダッシュ。そして大声で点呼報告を行うのだ。


「…導入開始からはや一週間、お前らなにも成長していないな」


 報告を受けた当直幹部が後任期を睨みながら言い、先任期のみに解散を告げた。


「眠そうな顔をしている奴、いまだに要領を得ずにあたふたする奴、酷い有り様だ。土日で何もかも忘れて振り出しに戻ったか?」


 再度点呼を行う、と後任期たちは再び居室に戻ってベッドに横になる。もうこの時点で大幅なタイムロスだ。新しい一週間の始まりとなる月曜日の朝、彼等はまだ起きることすら許されていない。



 導入教育二週目となると、先週と比べて一層厳しさが増す。教官ら基幹隊員や先任期たちは常に目を光らせ、後任期がおかしな行動をしていないか見張る。服装が乱れている、敬礼の要領が間違っている等はともかく、声が小さい、覇気がないと指導してくる者もいるのだから落ち着いて廊下も歩けない。


 そんな後任期たちの唯一の休憩場所が各教場だ。ここには基本的に同期しかおらず、先任期が入ってくることもまずない。教官も学生隊の区隊長らのように厳しい人ではないから、随分と気を緩めることができる。


 だからなのか、他の訓練や導入教育の疲れもあって、座学の最中は眠そうな顔をしている者も多い。勿論彼等に寝る気はないのだが、こればっかりは生理現象なのだから仕方ないと言えば仕方ない。教官たちもそれを知ってか知らずか、眠そうな学生がいたら比較的優しく起こしてくれる。このあたりは通常の学校の授業風景となんら変わらない。


 とは言え、そんな優しい教官の中にも当然厳しい人はいるわけで…


「これ! 起きんか!」


 日和の前に座る学生、5区隊の田畑が教官に教科書で頭を叩かれた。


「す、すいません!」


「気合いが入っとらんのぉ。眠気が覚めるまで立って授業を受けぇ」


 教育隊第2教務班長、防衛教官の黒島教官である。背丈はそこまで大きくないが、体格が良く、口元にあるりっぱな髭や年期の入った強面の顔に強気の性格から、学生は勿論他の基幹隊員ですら一目置いている有名な教官だ。担当している科目は哲学や倫理学といった文系科目である。


「は、はい。田畑学生、立って授業を受けます」


「あほう! その場に立つと後ろの坂井は黒板が見えんじゃろうが! 一番後ろの席に行って立っとれ!」


 慌てて田畑は勉強道具を抱えて後ろに回る。


「全く、ここ数年の学生はたるんでおるわい。もっとやる気を持って授業を受けて欲しいもんじゃ」


 また昔の話か、と学生たちは聞こえないくらいのため息を吐いた。


 自衛隊において転勤はつきものだが、防衛教官には基本的に転勤がない。黒島教官はこれまで数十年ここで教官を勤めており、一度もその席を離れたことはない。つまり航学群で最も在籍期間が長い人物であり、ここの歴史をずっと見てきた生き字引のような人だ。


 そんな彼の話は、日和たちは勿論、基幹隊員ですら知らない裏話など、その経験を基にした非常に興味深いものばかりなのだが、反面昔と今を比べたがる癖があり、その性格も相まってか、ほとんどの人にとって素直に好きになれない人物ではあった。


 いいか、と黒島教官は少し声を張る。


「ここは学校とは違う、自衛隊じゃ。お前たちは給料を貰って勉強しておる。つまりこの時間は勤務中なわけじゃ。公務員が勤務中に眠ってどうする!」


 勿論そのことは日和たちも重々承知している。似たようなことを区隊長や先任期たちに嫌と言う程叩き込まれている。


 それでも座って小難しい話を聞いていれば眠たくなるというのが人間というもの。黒島教官の言っていることは正論だが、それができれば皆苦労なんてしないのだ。


「チッ、また余計な時間を…」


 一人、不機嫌そうに小さくそう呟く学生がいた。沢村だ。


「なんじゃ沢村、主張したいことがあるならはっきりと言わんかい」


 ちょうど虫の居所が悪かった黒島教官は彼の舌打ちを聞き流すことはなかった。面倒くさいことになったな、と同期たちは気まずそうに顔を伏せた。


「眠たい奴なんて眠らせとけばいいんですよ。そいつを起こして注意している時間だけ授業は止まってしまう。真面目に授業を受けている奴は損ばっかりだ。どうしてやる気のある学生が、授業中に眠るようなやる気のない学生に足を引っ張られなきゃいけないんですか?」


 沢村は黒島教官に目を合わせず、そっぽを向きながら淡々と言う。


「もっとも、いびきをかくくらい爆睡している奴はそれだけで授業妨害ですがね。そんな奴は教場から追い出してしまえばいい。本来授業はやる気のある奴の為だけに行うものだ」


 違いますか、と沢村はやや挑発的に黒島教官を横目に見た。そんな火に油を注ぐような真似をしなくても、と誰もが思う。と、そこで口を開いたのは冬奈だった。


「あら沢村学生、授業を妨害しているのはなにもやる気のない学生だけじゃないのよ?」


 やめときなよ、と日和は彼女の服を軽く引っ張るが、冬奈は止まらない。


「あなたは確かに一生懸命な、やる気のある学生よ。でもそんな学生は他にもいる。あなたがそうやって教官に突っかかることで授業が止まり、こうして迷惑する者もいることを忘れないで欲しいわね」


「勘違いするなよ都築。俺が授業を止めてまで話しているのは教官に意見を求められたからだ。そう言うお前こそ、そうやって俺に突っかかることで授業を止めているんじゃないか?」


「失礼。放っておけばあなたが延々と話し続けるような気がしたから、つい口を出してしまったわ」


 二人は互いに睨み合い、険悪なムードとなる。このままではとても授業どころではない。


「都築…お前は」


「待て待て。ワシが悪かった!」


 沢村が口を開きかけた時、黒島教官が間に入った。このままいつまでも授業が止まってしまうことは、彼も望んではいない。


「沢村の言う通り、真面目に授業を受けたい者もおるからな。ちと歯切れが悪いが再開させてもらうぞ。沢村と都築については昼休みにワシの所へ来なさい」


 教官にこう言われてしまっては引き下がる他ない。沢村は冬奈を睨んでまた舌打ちしたが、冬奈はそんなこと気にも止めず澄ました顔で授業に戻っていた。



 その後は何事もなく授業が進み、無事に昼休みを迎えた。きっとまた居室が荒らされているだろうから、急いで戻らなければと皆教場を飛び出していく。


「あ、待て坂井! お前は俺と教育隊に行くぞ!」


 皆に続いて教場を出ようとする日和だったが、5区隊の樫村に呼び止められた。


「ああ、そっか。ごめん」


 日和は彼の腕についた腕章を見て思い出す。教授班当直の上下番申告だ。


 各期や区隊に当直がいるように、教授班にも当直がいる。彼等の主な仕事は翌日に行われる座学について、前日のうちに各担当教官の元へ行って色々と指示を受けることだ。例えば準備しておく物だとか、宿題の有無についてである。そしてその命令を教授班の班員に伝達することが当直の勤務内容となる。


 当直の交代については週に一度、月曜日の昼休みに行われる。当直に上番する者と下番する者は揃って教育隊へと向かい、各教授班担当教官、B教授班であれば黒島教官に当直交代の旨を報告しなければならない。


「どうだった? 当直勤務について」


 腕章を受け取りながら日和は尋ねる。


「最初の週だし、特に変わったことはしてないよ。毎日昼休みに色んな教官の所へ行くだけさ。とは言え腕章は腕章だからな。単独行動できるのは大きいぜ」


 基本的に学生は屋外での単独行動は禁じられ、二人以上での部隊行動が定められている。しかし腕章を付けた者、つまり当直勤務者についてはその勤務の都合上、普通の学生とは違った動きをしなければならなくなるため、単独行動が許可されていた。これこそが当直勤務につく唯一のメリットである。


 教授班当直の特徴は、なんと言っても他の当直に比べての仕事量の少なさである。他の当直については毎日朝と夕方の状況報告や命令受領、勤務日誌の作成など、その業務は一日中を通して多岐に渡るが、教授班当直が束縛される時間は主に昼休みのみ。特別になにか命じられない限りは5分程度で終わってしまう程の仕事量である。


 ただでさえ忙がしい昼休み、1分や2分でも無駄にはしたくないところだが、少しの仕事で単独行動を許されるというのは大きなメリットと言えるだろう。


「これって学生隊が担当する座学でも命令受領しに行くの?」


「いや、そっちは期当直が行く。そもそも学生隊の授業は後任期でまとめてやるから、教授班とは関係ないしな」


 日和はホッと安心のため息を漏らす。学生隊に入室するのと教育隊に入室するのでは緊張感がまるで違う。


 常に全力で正確な入室要領が求められる学生隊に対し、教育隊の入室要領は甘い。理由としては、教育隊では各教官たちが授業内容や試験問題などを作成しており、非常に頭を使う作業をしているため、あまり大きな声を出してしまうとその作業の邪魔になってしまうからだ。


「なんだ。なら教授班当直って思いの外楽なんだね」


 そうかもな、と樫村は返す。


「他にやることがあるとするなら、事前に配られる教材とか、提出して戻って来たノートとかを教授班の皆に配ってやることかな。でもこれも各区隊当直にお願いすれば自習の時間に配ってくれるぞ」


 その他に細かい仕事と言えば授業の始まりと終わりに号令をかけること。授業が終わった後はホワイトボードを綺麗にしておくこと等だ。教場の清掃については毎日の自習終わりに各区隊で行われるから、教授班当直が行う必要はない。


「ありがとう。後はやりながら覚えていくね」


 そう言って日和はメモ帳を閉じた。このように当直下番者が上番者に勤務内容や必要なことを伝える「申し送り」は、当直交代をする際には必ずしなければならない大切なことだ。初めて当直につくからといって再度教官から勤務内容についての教育が行われることはなく、全ての情報は同期の間で補完しあう必要がある。申し送りが適切にされない時は当然まともに勤務することができず、どうして前回上番者と情報共有をしなかったのだという話になる。


「じゃ、行くか。黒島教官、機嫌がなおってるといいけどな…」


 当直腕章を受け取りながら日和は「そう言えば」と先程の授業での出来事を思い出した。今頃沢村と冬奈は教官の所で長々と説教じみたものを受けていることだろう。ただの当直交代とは言え、その後に彼を訪れなければならないのは少々憂鬱だった。


 黒島教官は大抵の場合学生の都合を考慮しない。たとえその後の集合時間が間近に迫っていたとしても、お構い無しで長話をしてくる。


 これは先任期も含めて学生間では有名な話で、実際に彼の話に捕まって次の集合に間に合わなかった者は数多くいる。だがそれも彼の言い分だと「教育というのは授業の時間だけでなく、必要な都度適切なタイミングで行わなければならない。その影響で時間を守れなかったとしても、それは大きな問題ではない」らしいので、確信犯である分尚更厄介だった。他の教官や学生隊の区隊長らも当然この事を承知しているが、だからといって時間を守れなかった理由にはならず、何らかの形で罰しなければ示しがつかなくなるので、教官にとっても学生にとっても悩みの種だった。


 今日の午後の授業は学生隊が担当する教練。これから乙武装に着替える手間もあり、時間は少ない。日和たちにとっては何としても早々に当直交代を終わらせて次の準備に向かいたいところだった。


「悪いが俺は申告を終えたら先に飯を食いに行くからな。お前はそのまま命令受領とかあるだろうけど、まあ頑張ってな」


「薄情者ぉ…」


 軽く頭を下げる樫村を日和は恨めしそうに見るが、とは言え逆の立場だったら彼女も同じことを言うだろう。今回は運がなかったと諦めるしかない。


「そう言えば都築のことなんだけどよ」


 教育隊に向かいつつ樫村は言う。


「あいつも損をしやすい性格をしているよな。あそこで沢村に食い付かなきゃ何事もなく終わってたかもしれないのに」


「あれが冬奈の良さだよ。真っ直ぐで強くて、正義感の塊みたいな人だよね」


「それはそうかもしれんが…俺が思うに、あの手の奴と関わっていくなら、もっとしっかり手綱を持ってやらないとお前が苦労する羽目になるぞ? 都築は自分が納得いかないことがあったらなんでも首を突っ込むタイプだが、起こさなくていい面倒は起こさないに越したことはないんだからな」


「一応忠告として受け取っておくよ。それでも冬奈は、私が手綱を握れる程大人しい性格じゃないと思うけどね」


 そりゃそうだ、と樫村は笑った。そうやって雑談しているうちに教育隊の前まで来る。学生隊ほど厳しく見られないとは言え、入室要領はしっかりとやらなければいけないので、二人は互いに向き合って服装に乱れがないか確認し合う。


「服装よし。今は交代申告前だから、当直上番中の俺が先任者だな。入室の指揮は俺がとる」


「ん、お願い」


 樫村が入り口の戸をノックしようとしたその時だった。


「帰ります」


 戸の向こうから退室しようとする学生の声が聞こえ、二人は後ろに下がる。交代を終えた他の教授班当直かな、と日和は思った。ところが


「あっ」


 腕章もなにもつけていない二人。どこか納得いってないような、機嫌悪そうな表情で出てきたのは当直でもなんでもなく、黒島教官に呼び出しを受けていた冬奈と沢村だった。

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