防府北基地に雪は降る

 雪の日だった。


 退屈な授業の合間の休み時間、他にやることもなくて、ただなんとなく雪で徐々に白くなっていくグラウンドをただぼうっと眺めていた。


 別に雪なんて珍しくもない。ただ今日は一段と冷えるかもしれないなと考えると、少しだけ憂鬱で、というのが冬の武道場の床というのは、素足で歩くとまるで氷かと思うくらいに冷たくなるのだ。小さい頃から続けている剣道だが、この時期の練習は寒さで動きも悪くなるのでどうも苦手だった。


「あ~きはちゃん!」


 弾むような声をかけられ、顔を向ける。小さい頃から一緒に剣道を習っている女の子。唯一無二の親友で、いつも一緒に行動している大切な人。来年の春から高校生になるわけだが、進学先についても同じ学校にしようと約束していた。


「おーう、どったの?」


「今日、急に先生休みになったって。だから道場もやらない」


「ほんと? ちょうどいいや。今日はあんまり乗り気じゃなかったんだよねー」


「私もー。ね、ね! せっかくだし、遊んで帰ろうよ」


「いーねぇ。ゲーセン?」


「カラオケ!」


 即答だ。まるでこの機会を待っていたかのようだった。


「こないだも行ったじゃん?」


「いーの! 秋葉ちゃんの歌、好きなの! 聞きたいの!」


「そんな人に聞かせるもんでも…」


「あるよ! 声綺麗だし、音域広いし、あと可愛いし…なんで剣道なんかやってんかなぁ? 勿体ないよ」


 オーバーに首を傾げてみせる彼女。どこまで本気で言ってるのかわからないが、この勢いだけのノリがなんだか心地よくて、ついついつられてしまう。


「そう? アイドルとかなれちゃう?」


「なれるなれる!」


「っかたないなぁ。そんなに言うなら聞かせてやるか!」


「やったね!」


「いぇーい!」


 意味もなくハイタッチして笑う。彼女と話していると笑顔が絶えなくて、こんなにも沢山の元気を貰っていて、この先どんなに辛いことがあっても、彼女といれば乗り越えられる。そんな気さえする。


 きっとこれからも、ずっといつまでも、二人で歩んでいくんだろう。そうあって欲しいなと、そうしないといけないなと。


「そういやさ、その時計、ちゃんと使ってくれてるんだね」


「うん?」


 ふと彼女が指差したのは机に置かれた腕時計。ちょっとアンティークで、中学生の女の子が身に付けるにはやや背伸びしてる感のあるそれは、この前の誕生日に彼女が買ってくれたものだ。


「せっかくプレゼントしてもらったんだもん。ちゃんと使ってるよ」


「なら腕に着けなよ?」


「いーの。授業中はこうして眺めていたいの」


「そんなものかなぁ。でも、大切にしてくれてるみたいで嬉しいよ」


「当たり前でしょ。ありが…」


 ありがとう。そう伝えようとしたその時だった。


 ドンッという重たい音と、足元をハンマーでぶん殴られたかのような激しい揺れ。なにが起きたのか理解できなくて、立ち上がることもできなくて、ただただ大地に揺さぶられる。


「秋葉ちゃん!」


 目の前の親友が手を伸ばすが、虚しくそれは空をきった。窓が割れ、机が倒れ、クラスメイトの悲鳴が飛び交う。


 その日は3月11日。時計は14時46分を指していた。





「宣誓ぇ! 我々選手一同はぁ! 日頃の訓練の成果を存分に発揮しぃ! 勝利に拘り! 正々堂々と戦い! 決して諦めることなく! 最後まで走り抜くことを誓いまぁす!」


 吹雪で視界が悪くなる中、代表学生の声が響き渡る。いよいよ1万mロードレース大会当日。後任期最後の競技会ということで、学生たちの闘志は雪を溶かすように激しく燃えていた。


「絶好の競技会日和だな!」


 壇上に上がった学生隊長の一言が笑いを誘う。特に大会運営要員として参列している群本部の隊員たちは「本当にやるのか」と今でも信じられないといった表情だ。


「給養小隊のご厚意で、暖かいお茶を支給して頂いた。どういうことか分かるか? お前たちが今日走ることを、基地の人皆が期待してるってことだ! 泣き言なんか聞く気はないぞ。こんな雪なんかに負けず、精一杯走ってこい! 以上!」


 訓示を受けてそれぞれアップに向かう学生たち。区隊対抗とはいえ競技そのものは個人走なので、各人にあった準備の仕方というものがある。しかし4区隊に関してはその全てを日和が管理し、全員で一斉にアップをすることにしていた。


 ウォーミングアップの目的は体温や筋温、心拍数を上昇させることにある。いったん心拍数を上げておくことによって酸素量のバランスをとるのまでの時間が早くなり、疲労物質でもある乳酸が蓄積しにくくなる。つまり、ベストパフォーマンスを発揮できるというわけだ。


 大幅に心拍数を上げる必要があるので、アップとはいえなかなか身体的に辛いものがある。加えてこの最悪の天候。個人でアップを行うとどうしてもモチベーションが上がらず、手を抜きがちになってしまう。


 そこで日和が考えたのが、区隊員全員を一括管理して、より質の高いアップを行おうというもの。一人では辛いことでも、全員でやれば不思議と身体は動いてくれる。4区隊員は彼女の指揮の下、雪が激しく降る中を元気に声を出しながら走っていた。


「だあぁぁ! さっみぃぃ!」


 日和のすぐ隣を走る奥村が吠える。


「まだ体温が上がりきってないんだね。ちょっとペース上げようか!」


「ムリムリムリ! 日和ちゃん! 本番前に体力無くなっちゃうって!」


「無くならないよ、大丈夫! ぐっしょり汗をかくくらい走らないとアップにならないんだから!」


 グンッと、4区隊の歩調がまた一段速くなる。一番遅い月音には辛いかもしれないが、そこは日和もしっかり考えてペースを作っている。ここで自分に負けずにアップをしておけば、きっと本番で良いタイムが出せるだろう。


 と、そこへ向かい側から走って来る一つの影。黙々とアップを行う秋葉だった。他の学生は2、3人くらいの小さなグループで準備運動をしているのに、彼女は相変わらず一人のようで、猛然と降る雪も相まってより一層寂しく見える。


 声をかけようかと思ったが、一瞬ですれ違ってしまう。それ自体はさほど気にすることでもないのだが、なんだかいつもより「話しかけるな」という雰囲気が強い気がした。


「珍し…ご機嫌斜めかな?」


 遠くなっていく彼女の背中を目で追いかける。その姿はすぐに吹雪の向こう側へ消えていったが、それでもなんだか気になって、時々日和は後ろを振り向きながら走った。


 いつものことだから放っとけ、と同期が言う。確かに彼らの言う通り「いつものこと」なのかもしれない。それでもいつもは抱かない違和感が、この時ばかりはまるで魚の小骨のように引っ掛かって、またどこかで秋葉とすれ違ったりしないだろうかと彼女の姿を探した。


 やがて出走30分前になり、アップを終える。身体を冷やさないようにウィンドブレーカーを羽織り、あとは本番までストレッチなどをしながら備えるだけだ。


 スタート場所近くの群朝礼場にはすでにアップを終えた多くの学生が集まっていたが、しかしその中に秋葉の姿はなかった。





 氷の粒が容赦なく頬を叩く中、秋葉はひたすら走った。だんだんと息があがり、冷たい空気が肺に流れこみ、けれど熱をもった身体からは湯気が上がる。


 走っていればなにも考えずにすむ。今日のような雪が降る日は、嫌なことを思い出させる雪が降る時は、とにかく身体を動かしてしまうことが一番だ。


 芝生の辺りがうっすらと白く色付いていく。この調子で降り続けたとなれば、明日の朝には軽く除雪をしなければならない程に積もるらしい。これくらいの雪なんて地元のそれに比べたら全く大したことない。しかしその程度に関わらず、あの日から雪の降る日は大嫌いだった。


「なんでっ…こんな日に!」


 後任期最後の競技会。それがどれだけ大きな意味を持っているのかは十分理解している。けれどこの雪が心の中を乱暴にかき回し、全く集中できないでいる。せめて別の日に延期してくれればよかったのに、こういう時だけやけに張り切る学生隊が今は酷く恨めしかった。


 やや乱暴にがむしゃらに走り続けてしばらく時間が経った。他にアップを行うランナーを見かけなくなったところを考えると、そろそろ出走時間が迫っているのだろう。スタートの15分前には一度選手の召集が行われるので、それまでには確実に群朝礼場に戻らなければならない。


 今何時くらいだろうか。流れる汗を拭いながら、秋葉はいつも着けている腕時計を見た。


 瞬間、火照っていた背筋が凍る。


「あ…れ?」


 先程見た時と時間が変わっていない。いや、そもそも秒針が動いていなかった。


 なぜ、いつから、様々な疑問が頭の中を駆け巡るが、既に考える余裕なんてない。か細い手は動揺で震え、冷たい地面にがっくりと膝から崩れ落ちた。


「壊れ…壊れちゃった…? うそ…いや…」


 もともとあまり頑丈でもなく、長い間使い続けてきたものなので、いつかこうなることは覚悟していた…つもりだった。


 しかし何故今なのか。これから大勝負が始まるという大事な場面で、こんな天気で、それでもこの時計を心の支えとして耐えていたのに。


 それはまるで大切な人に裏切られたようで…


「あぁ…あぁぁああ!」


 うずくまり、涙を溢す。そうしている間にも降り注ぐ雪はより勢いを増し、秋葉の身体はどんどん冷えていく。


 彼女の気持ちもよそに、決戦の時は刻一刻と迫っていた。





 いよいよ競技開始間近となり、学生たちが群朝礼場に集まり始めた。スタート地点には先任期や基幹隊員たちが71期の応援のために課業を中断して集まり、またコースとなっている基地内の道路のあちこちには、学生が一生懸命走る姿を一目見ようと航学群以外の隊員たちが道脇に並んでいた。


「走る時は一人だけど、気持ちは繋がってるからね。4区隊全員で、最後まで走り抜けるよ!」


「おう!」


 日和を中心に円陣を組む4区隊。そのすぐ近くでは6区隊が区隊長や助教から訓示を受け、気合いを入れていた。そんな中、5区隊だけに不穏な空気が流れていた。秋葉がまだアップから戻ってきていないのだ。


「最後にあいつを見たのは誰だ?」


「知らねぇよ。いつもあいつ一人で行動してんだから」


「桜庭、なにか知らないか?」


「準備運動までは一緒にしてたんですけど、それ以降はちょっと…」


「くそっ、なんでこんな時に!」


 次第にイライラし始める5区隊員たち。競技会前の雰囲気としては、非常によくないものになりつつある。


「ここで待ってても仕方ないだろ」


 沢村が大きくため息を吐き、揉める同期を黙らせた。


「俺が探しに行く。アップに使う道なんて、たかが知れてるしな」


「入れ違いになるかもしれないぞ。その時は誰がお前を呼びに行くんだよ? 携帯もないのに…」


「5分で帰る。それだけあれば十分だ」


 話が大きくなってしまう前に収拾させてしまいたいところ。こうして話している時間も勿体ないと、沢村は上着を脱ぎ始めた。


 その時だった。


「轟さん!」


 春香が向ける視線の向こうに、フラフラと歩いて戻ってくる秋葉の姿。一体どれだけ走ってきたのだろうか、明らかに必要以上に息があがり、アップとしてはやり過ぎな状態だ。とてもこれから10kmという長い距離を走れる様子ではなかった。


「おい、轟! お前なにして…!」


「待って下さい!」


 ただ事ではないと直感した春香が、怒り出そうとする同期を抑えて秋葉に駆け寄る。それに沢村も続き、脱いだ上着を彼女の身体にかけてあげた。長時間吹雪の中にいたせいなのか、走ってきたにも関わらず、秋葉の身体はすっかり冷えきっていた。


「大丈夫ですか? 一体どうして…」


「時計…」


 弱々しく秋葉が差し出す手にはいつも彼女が着けている腕時計。少し古いものらしくて、価値はあるのだろうが正確性に難があり、いつも春香がタイムハックをしてあげているそれが、多少不便でも使い続けたいと言っていたそれが、今では秒針が全く動いていないように見えた。


 走っている最中に停まったのか。だからいつの間にかこんな時間まで走ってしまった。けれど、問題なのはそこじゃないことくらい春香には分かっていた。


「どうしよう…私、これ、壊れちゃったら…」


「大丈夫、大丈夫ですよ」


 今にも泣き出しそうな秋葉を春香は強く抱き締める。けれどそれ以上にどうしてあげたらいいのか、答えは全く見えていなかった。


「とにかく、もうすぐ出走だ。きついだろうが、轟は少しでも体調を整えておけ。区隊の奴らには俺から話しておく」


「お願いします」


 他の同期が誰も秋葉に寄り添わない中、沢村だけが気にかけてくれている。その優しさが、今はとても頼もしかった。


 一方秋葉はがっくりとうなだれたまま、まるで立ち直れそうにない。あと数分で走れる状態に持っていくなんて、身体的にも精神的にも不可能なように春香には見えた。


 きっと今日は負けるだろう。けれど実際には、そんな勝負よりも大きな危機に直面しているように思える。


 間もなくして、選手集合のアナウンスが流れ、いよいよ学生たちはスタートラインに並び始めた。

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