助け、助けられて

 綺麗にアイロンがけされた制服を身に纏い、導入期間専用の大きな名札を胸元に付ける。ロッカー扉の内側に付けられた鏡を見て、どこもおかしな所がないことを確認すると、日和は軽く頷いて扉を閉じ、鍵をかけたことを指差し確認した。


「今週で最期だね」


 月音の声に振り向くと、彼女も日和と同じ動きをしていた。恐らく今朝はどの後任期学生も同じことを考えているに違いない。


 今週で導入期間も4週目。しかし未だに71期はこの期間を卒業できる程の評価を受けておらず、場合によっては期間の延長も十分考えられる。あとたった一週間。彼等に残された時間は少ない。





「はあ、まだ胃もたれしている気がするわ」


 午前中の座学が始まる前の待機時間。冬奈の表情は優れず、お腹を擦りながら机に突っ伏していた。


「辛そうだね、冬奈」


 土曜日に行われた伝統の対番外出だが、今年もいくつかのグループで悪しき伝統が守られたようで、何人かの後任期学生はその胃に大きなダメージを受けていた。


 例えば冬奈の所はハンバーガー屋で全種類を食べ尽くすという企画をしたらしく、一緒にいた同期数人となんとか食べきったらしい。それでいて夜は焼き肉食べ放題に行ったというのだから、きっと地獄を見たことだろう。


「坂井学生は元気そうね。まともな対番外出だったみたいで羨ましいわ」


「いや、私のところはまた特殊っていうか…」


 自由行動の時間を終えた後、少ししてから一行は夕食に向かうことになったのだが、思いの外昼食が体に残っており、とても夕食を入れれるような状態ではなかった。


 巴や若宮たちに悪気はなかったのかもしれないが、後輩に良い店を紹介したいという気持ちが裏目に出てしまったようだ。


 巴が予約を入れていた「三十八万石」は学生間でも有名な日本料理屋で、量よりは質を重視する飲食店だったが、それだけに満足に食べることができないというのは、先輩としても後輩としても残念な話だった。


 が、秋葉の存在がその予想を裏切る。


 日和たち全員の胃にまだオムライスが残っている中、驚いたことに秋葉だけはお腹を鳴らす程の空腹状態だった。既にコース料理が用意されていて、誰もがまともに手をつけられないでいる中、その残りを全て秋葉が平らげてくれたのだ。


「前々からよく食べる子だなとは思っていたけど、あんなに凄いとは思わなかったよ」


 ああ、と冬奈は納得したように笑う。


「量だけじゃないわ。轟学生はね、ここに来てから一度も給食を残したことがないのよ。僅か1、2分しか時間がなくても全部完食しているわ」


「なのにあんなに細い体しているの? 羨ましい通りこして呆れちゃうね」


 立派な才能だなぁ、と日和は思う。決して普段目立つことのない能力だが、少なくとも日和たちは彼女に助けられているわけだから、どんな特技がどんな場面で役立つかなんて分からないものだ。案外、他の同期も何か隠れた才能を持っているかもしれないと考えると、日和は少し楽しみだった。





 夕方、今日も非常呼集の合図が隊舎に鳴り響く。もうすっかり見慣れてしまった光景だが、導入期間最終週だけあって、その緊張感は最高潮に達している。


「乙武装、2種編!」


 先任期が怒号を発するよりも早く冬菜が隊舎全体に聞こえる程の声で叫ぶ。するとすぐにそれに応える声が各部屋から返ってきた。後任期による単純な確認に過ぎないが、今まで見られなかった光景だ。


 日和も同じように返事をしつつ、廊下に駆け出して下駄箱から編上げ靴を自分と月音の二人分取り出した。その頃月音は二人分のロッカーを開き、すぐに着替えられる環境を整える。


(へえ、役割分担か)


 てきぱきと動く二人を見ながら若宮は感心する。呼集訓練は団体戦なのだから、今の二人のようにそれぞれが役割を別けて動くことができれば、全員集合までの時間はさらに短縮できるだろう。


 その他にも、先に着替え終えたほうがまだ着替えていない者の手伝いをしたり、他の部屋の様子を見に行ったりと、協力して時間に間に合わせようとする動きが見られた。


「なんか、良い調子だね?」


 決して遅くない時間で日和たちが隊舎を飛び出して行き、それを見送りながら若宮は巴に話しかけた。


「先週の銃貸与式からかな? ちょっと目付きが変わったわね」


 巴は各人のロッカー施錠状況や整頓状況を確認していく。が、ベッドメイクなどの細かい部分を除き、その他に凡ミスなどは見られない。


「日曜は皆で集まって話し合いとかしてたみたいよ。今更感はあるけれど、この調子ならなんとか導入を終われるんじゃない?」


「さぁて、どうだか」


 楽観的な若宮と違い、相変わらず巴の評価は厳しい。というのも彼女が見ているものは、他の先任期とは別の問題だった。


「5分20秒か」


 指導学生長の川越は時計を見て、僅かに悔しそうな顔をした。


「先週からかなりタイムを縮めたこと、その努力は認める。が、間に合ってないことは事実だ。全員、その場に伏せ!」


 毎日のようにとらされる腕立て伏せの姿勢。周りから浴びせられる罵声も、導入初期から変わっていない。


(あと20秒!)


 腕立ての辛さではなく、悔しさで日和は奥歯を噛み締めた。彼女だけではない。ここにいる全員が日和と同じ気持ちだった。


 あとたった20秒なのに、それが重たい現実として彼女たちの前に立ちはだかる。考えられる手はうち、秒単位での時間短縮を図ってなおこの時間だ。正直、なにが自分たちに足りないのか日和たちは分からないでいた。


「もういいよ、川越」


 腕立てを終えて再び訓練を始めようとしたところ、巴が前に出てきた。


「やめよう。今日はこれ以上繰り返しても無意味よ。分かるでしょう?」


「だが木梨、反復演練しないことには…」


「そう? 私は後任期個々の実力よりも、もっと治すべき問題があると思うけど」


 例えば、と巴は後任期に目を向けた。


「必死で着替えている同期を見捨て、ただ舎前で待っているだけの学生が、少しでも仲間を助けてあげる、とかね」


 彼女の目線が一人の学生に注がれ、周囲の者もその先を追った。


「そうは思わない? 沢村学生」


 沢村だった。途端、日和は自分の鼓動が早くなるのを感じた。





 その後の訓練は中止となり、後任期一同は舎前に大きな輪を作って集まった。今彼等に必要なのは訓練ではなく、同期間での話し合いだという巴の意見具申によるものだ。


「沢村、お前どういうつもりなんだよ」


 最初に口を開いたのは6区隊の福本だ。


「俺は俺の役割を果たしているだけだ。むしろお前らこそ、俺の足を引っ張ってなんとも思わないのか?」


 呼集開始の合図から舎前に出て来るまでの時間が4分程度というのが71期の平均という中、沢村はなんと2分という早さで隊舎を出ていた。


 つまり彼は同期が各部屋で悪戦苦闘している中、3分近い間なにもせずにただ同期が来るのを待っているだけだったのだ。


「3分だぞ。それだけの時間があれば一体何人の同期が助けられると思う? 少なくとも、集合完了までにかかる時間は5分を余裕できれるだろうよ」


 福本の言葉に多くの学生が頷く。だがどれだけ冷たい視線を浴びても沢村は動じず、それが徐々に学生たちの頭をヒートアップさせていく。


「お前いい加減にしろよ! 少しは協調っていうのを覚えろよ!」


「なんでも一人でこなしてる気になりやがって、勘違いしてんじゃねぇ!」


 これまでの沢村に対する不満が爆発し、最早話し合いの体を成していない。


「言っとくけどな、俺はお前のことを仲間だなんて思ったことは一度もねぇ! 同期と協力するつもりがないなら、さっさと辞めちまえ!」


「あ?」


 辞めろ、という言葉に沢村の目が鋭くなった。それに怯んだのか、それまで口々に沢村を罵っていた声がピタリとやむ。


 ああ、まただと日和は思った。


「勘違いしてんのはどっちだ。お前らまさか、呼集に間に合わないのが俺のせいだと思ってんのか?」


「そ、そりゃあ協調性に欠ける奴がいれば団結力もなくなるし…」


「お前それ本気で思ってんのか? よく考えろ。仮に今俺が辞めたところで結果はなにも変わらないはずだぞ。俺はお前らの足を引っ張っているわけじゃないからな」


 沢村の言うとおり、彼はなにもしていない。ただ自分の役割を果たしているだけで、誰の手助けも邪魔もしていないのだ。


「全員が自分の役割を果たせば、それかこの中で一番出来ない奴が辞めれば、それだけで解決する問題じゃないのか? 出来ない奴が出来る奴の足を引っ張って、あげく自分が出来ないのを人のせいにして、なにが団結だよ」


 正論だった。だからこそ誰も言い返すことができず、しかし彼への憎しみだけが増していく。


「なんなら今から俺抜きで呼集をかけてみたらどうだ? お前らの言う団結力ってのを見せてくれよ」


「いいじゃん。やったろうよ」


 即答したのは夏希だ。


「初めから沢村抜きで考えれば良かったじゃん。一人でなんでもやりたいなら、好きなようにやらせとこーよ」


 そうだ、と多くの者が彼女に同意する。こうなってしまうともう沢村が入る余地はなく、完全に彼を除いたものとして話が進む。


「孤立するっていうのはこういうことよ、沢村学生」


 一人、後任期が作る輪の中から冬奈が振り向いた。


「今まではなんとかなっていたかもしれないけど、これから先はどんなミスも許されないし、誰も助けてはくれないわ。一人の力ではどうにもならないことって必ずあると思うけど、後になって恨まないでね?」


「五月蝿いな。分かりきったことを言うな」


 依然として沢村は平静を装う。冬奈としては一応彼の今後を心配しての言葉だったのだが、沢村の素っ気ない返事を受けると、なにもかも見捨てるように同期の輪へと戻っていった。


(やっぱり分裂したか…)


 後任期たちの様子を見守っていた巴だったが、やがて諦めて顔を伏せた。


(もしかしたらこれを機会に団結するかもと思ったけど、やっぱり無理ね)


 きっと自分でも夏希と同じ答えを出しただろうと巴は思う。沢村は非常に優秀な学生かもしれないが、71期にとって彼の存在はむしろマイナスだったのかもしれない。


「ちょっと待って!」


 と、一人の学生が声をあげ、驚いて巴は再び顔をあげた。


「こんなの、なんの解決にもなってない。間違ってるよ」


 日和だった。ただ一人、彼女だけは同期の輪の中に加わっていなかった。


「どした、ひよちゃん? なんか納得いかない?」


「夏希の言いたいことは分かるよ。こんな状況だし、皆が沢村に怒るのも仕方ないと思う。でも、それで沢村を見捨てるなんて出来ないよ」


 同期なんだ、と日和は言う。たとえ沢村がどんなに自分勝手な人間でも、71期の一員には変わらない。


 すでに二人の同期を失っている今、ここで沢村を切ってしまえば、今後次々と同期を失っていくことになる。そう日和は感じていた。


「もうやめろ坂井。お前の綺麗事なんて聞きたくないって言ったろ」


 庇ってくれるなと沢村は日和の肩を掴んだが、日和はそれを払いのけた。


「そうだよ。私はいっつもこうやって偽善者ぶって綺麗事並べてるけど、本当は自分ことしか考えてないんだよ。ただ誰にも嫌われたくないだけで、誰にでもいい顔して…」


「だから、そんな同情なんていらないって…」


「だからなに!? 沢村が好き勝手やっているように、私もただ仲間を失いたくないだけだよ! いけないの!? 自分勝手なのはお互い様でしょ!」


 珍しく、日和の口調は強くなっていくが、誰もそれを止めようとはしなかった。


「みんないつまでもつまらない意地張り合って、今そんなことしてる場合じゃないのくらい分かるでしょ。こんな時だから、みんなで手を取り合っていかなきゃいけないんだよ。だから…」


 感情的になっていた日和だったが、やがていつもの調子を取り戻し、沢村にむかって深く頭を下げた。


「だからお願い、力を貸して。今の私たちには沢村が必要なの」


 沢村が誰かを助けたなら、間違いなく呼集訓練では規定タイムをきることができる。それどころか、あらゆる面で71期にとってのプラスになるだろう。


 だがそんなことは誰もが分かっていたことなのだ。ただ皆々プライドや意地を捨てきれず、日和のように頭を下げることができないでいただけだ。


「坂井…お前」


「私からもお願いするよ」


 もう一人、日和と一緒になって頭を下げる学生が出て来る。月音だ。


「考えてみれば、図々しい話だったんだよね。団結とか協調性とか、そういう言葉をいいように利用して、同期を助けることを強要するなんてさ。沢村君は私達と一緒で、自分のことに一生懸命だっただけなのにね」


「あ…」


 何人かの学生が月音の言葉に声を洩らした。


「私達は、沢村学生の気持ちなんて考えず、一方的にこっちの気持ちを押し付けて…」


 人は自分より能力の高い者の気持ちは分からない。だから助ける側の気持ちも考えず、時に助けてもらうことを当たり前だと勘違いしてしまう。


 特に「同期」という言葉に縛られがちな自衛隊では尚更だ。


「自分勝手だとは思ってる。だから協力しろなんて言わない。私は、沢村の意志で決めて欲しいから」


 日和の手は震えていた。まだ沢村に対する恐怖心は抜けていない。だが、それでも何かが彼女の心を突き動かしていた。


「…二人、いや三人だ」


「え?」


「特に着替えるのが遅い奴を三人教えてくれ。そいつらの部屋もだ」


「それって…」


日和が聞き返す前に沢村は指導学生たちに頭を下げる。


「お騒がせしてすいませんでした! この後、もう一度訓練させて下さい!」


 思ってもみなかった結末に指導学生たちは驚きを隠せない。が、巴だけはすぐに気持ちを切り替える。


「15分後、各自常装にてロッカー前に待機! その後の行動については別に示すわ! 以上気を付け、別れ!」


 いいよね? と巴は学生長の川越を見る。その表情はやけに嬉しそうだった。


「沢村…」


「時間ないぞ。話は福本とするから、坂井と菊池は早く部屋に戻れ」


 礼ならいらない、と沢村は言い残す。すぐに後任期たちは各々の準備の為に散らばり、日和も月音に手を引かれて隊舎に走り出した。


 導入教育最終週、今まで71期の中で縺れ合っていた想いはようやく解かれ、空回りしていた歯車が噛み合って周り始めたようだった。

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