AWG(当たりません、分かりません、御免なさい)

 シトシトと、弱い雨がもう何日も降り続けていた。晴れている日には隊舎の屋上が開放され、洗濯物を干すことができるのだが、それもいつが最後だったか思い出せない。物干場ぶっかんばは常に満席状態で乾きが悪く、巨大な換気扇が24時間唸りをあげて動いてくれている。こういう時、洗濯機に加えて乾燥機も備え付けて欲しいものだと感じるが、所詮学生にとっては贅沢品だ。


 各居室の外には常に雨衣がかけられ、そこから滴り落ちる水滴が廊下を濡らす。それがまた区隊長らに見つかり「ちゃんと掃除しろ」と怒られ、そして先輩から後輩に「水を払ってから隊舎に入れ」という指導が入る。導入教育が終わって早くも一月が経とうとしているが、先任期と後任期の間にある絶対的な上下関係はいまだ健在だ。


「気象隊め、今日だけは晴れるとか言ってたくせに…」


 まだ課業が始まる前の朝。居室の窓越しに空を見上げながら日和は誰に向けるわけでもない悪態を吐いた。外から流れてくるニュースが言うには、防府は昨日に梅雨入りしたらしく、今後もしばらく雨が続くらしい。自衛官であるならば、なるべく身内である気象隊の言葉を信じたいところなのだが、悲しいことにネット等で見られる天気予報のほうが的中するので、そちらを頼りがちだ。


「仕方ないわよ。なにせ「当たりません。分かりません。ごめんなさい」だからね」


 朝の準備を終えた冬奈が部屋に入って来る。庁舎に向かう前に寄り道に来たのだろう。雨が降ると毎朝行っている課業行進が中止になるので、いつもよりかは時間的に余裕が生まれる。普段だったらこんな雑談をしている時間はないだろう。


「当たりません…って、なにそれ?」


「気象隊の予報が当たらないことを皮肉ったスラングみたいなものよ。Air Weather Group(航空気象群)の頭をとってAWGでしょ? それを(A)当たりません(W)分かりません(G)ごめんなさいってもじってるわけ」


「…井上1尉が聞いたら怒りそうだね」


「きっと面倒なことになるわよ。使い時には要注意ね」


 これが原因で授業がまるまる一つ潰れる、なんてこともあり得ない話ではない。それ程までに井上1尉の曲者っぷりは学生間で有名だった。


 先日もC教授班の授業でちょっとした騒ぎがあったようだ。なんでもとある学生が授業とは関係のない質問をしたことが原因らしいが、それだけのことで怒るとはいくらなんでも器が小さすぎではないだろうか。


「あの人、そんなにパイロットが嫌いなのかな?」


「別に井上1尉に限った話じゃないわ。多種多様の部隊が連携して仕事をする組織だから、職種間での多少のいざこざはどこの基地に行ってもあるわよ。運用系と後方系とで意見がぶつかる、とかね」


 特にパイロットはその自衛隊生活の多くを飛行訓練に費やすが為に、他部隊の実情については疎くなってしまうケースがある。そのせいで部隊間での調整がうまく進まず、後方部隊からは「パイロットは飛ぶことにしか能がない」なんて印象を持たれるのだ。


 掛け算の組織とも言われる航空自衛隊。その強さが発揮できるのは各部隊の連携があってこそだが、それぞれの環境が異なるが故に生まれてしまう溝は、今後を担う日和たちの世代には大きな課題とも言えるだろう。


「井上1尉と言えばさ、今週だったよね? 気象学のテスト」


 そうねと答えつつ、冬奈は日和の後輩である伊織のベッドを見て、畳まれた毛布をひっくり返した。どうやら畳み方が甘かったらしい。


「大して難しい科目じゃないから、今回は余裕そうね。延灯(消灯後に勉強すること)の申請もしなくて済むわ」


「私もあまり不安には感じてないけど、ちょっと気になってることがあるんだ」


「陣内学生のこと?」


 身なりを整え、二人は揃って居室を出る。既に殆どの学生が教場に向かったようで、隊舎の中は静まり返っていた。途中、ひどく慌てた様子で消灯と施錠の確認をして回る後任期当直とすれ違い、雨で濡れて危ないからあまり駆け回るなと注意する。


「そう。なにか聞いてる?」


「いいえ。ただ、後任期の頃からあまり勉強の得意な方ではなかったから、先任期になって苦労してるんじゃないかと心配していたの」


 もともと冬奈は夏希と同じ区隊だったので、彼女が勉強を苦手としていることくらいは知っていた。自習時間に勉強を教えるのはいつも冬奈の担当だったし、彼女が赤点で外禁になって、可哀想だからと差し入れを買ってあげるのもしょっちゅうだった。もっとも、その役目は今では秋葉が担っているわけだが。


「先週の、航空機力学の試験も落としたらしいじゃない。気象のほうは大丈夫なのかしら」


「それがあまり調子は良くないみたいで、このままだと再試は免れないかもって秋葉が…」


「よりにもよって気象で? 他の教官なら助け船を出してくれるかもだけど、たぶん井上1尉のことだから、たとえ再試でも容赦なく落としに来るわよ」


「そうなると…ボード(能力審査会議)だよね?」


「まあそうだけど、学科免なんてここ十年間出たことないらしいから、怒られるだけで済むと思うわ。問題はそこじゃないのよ」


 雨の中を群庁舎に向けて走り出す二人。支給されている雨衣は膝下までしか隠してくれず、パシャパシャと跳ねた水が足元を濡らす。また航空学生は識別帽を見やすくさせるという理由でフードを被ることを禁じており、首から上を守るものは何もない状態だ。朝礼場を突っ切るだけの短い距離だが、庁舎に着いた頃には思いの外濡れてしまっていた。こういう時、傘を使っていた昔が懐かしくなる。


「坂井学生は陣内学生の勉強を見てあげたことがある?」


「一度くらいなら。私、あまり教えるの得意じゃないからさ」


「何度か付き合ってみると分かるわ。陣内学生はね、ああ見えてコンプレックスが強いの」


「コンプレックス? 夏希が?」


 半ば信じられなかった。非常におおらかな、悪く言えば大雑把な性格をした彼女。楽天的で、悩みとは無縁そうに見えるが、そんな彼女が劣等感に悩まされるのか。


「私は勉強ができないから…が口癖ね。それを認めて諦めてしまってるから、なかなか本気になれないのよ」


「開き直ってるってこと?」


「ちょっと言い方はきついけど、まぁそういうこと。あれはね、自己暗示みたいなものなの。言葉の頭に「どうせ」ってつける呪い。自分にはできないって言い聞かせてるから余計にできなくなる。…私がそうだったみたいにね」


 ちょうど一年前の夏、冬奈は水泳の授業で地獄を見た。幼い頃のトラウマが原因で全く思うように泳げず、頑張ったところでどうせ自分には無理なのだから、このまま航学を辞めるしかないと決めつけていた。


 そんな閉ざされた心を開かせ、悪い自己暗示から目覚めさせてくれたのが日和だった。


「そのうち陣内学生は、どうしても越えないといけない壁にぶち当たる。もしかすると、それはもう目の前にあるのかもしれないけれど。どのみち今の彼女だとそれを乗り越えることはできないと思うわ。私たちが、どこかで呪いを解いてあげない限りね」


「呪い、かぁ」


 表現としてはやや大袈裟だが、しかし冬奈の言うことは的を射ていた。日和から見ても、今の夏希にはどこか真剣さが足りていない。本人に悪気はないのだとしても、もう一歩のところで本気になれていないのだろう。


 夏希には力がある。入隊試験をくぐり抜けているのだから、そこは保証されているはずだ。恐らく彼女は、自分のことを「例外」と決めつけて…目を剃らしているだけだろう。そうでなければ後任期のうちに、教官側から辞めさせられているはずだ。偶然で入って来たような学生を見抜けない程、ここの人達の目は節穴ではない。他人の心配ができるくらいに余裕があるわけではなかったが、夏希が変わるきっかけを作ることくらいはできるはずだ。


 しかし一体どうしたものかと考えながら日和たちは庁舎3階の教場へと向かう。今日は丸一日座学の予定なので、昼休み以外はここにこもりきりになるだろう。この調子で雨が降り続けば課業後の航友会(部活)も中止となり、普段酷使している身体を少しは休めることができるだろう。


 と、階段を上りきったところで噂の夏希に出くわした。当直腕章をしているので、これから一階の学生隊にでも向かうのだろう。しかしなにやら一生懸命にメモ帳に目を通し、日和たちの存在に気付きもしない。


「おはよう夏希。これから命令受領?」


「おっとひよちゃんか。おはよっ。いやさ、命令受領は終わったんだけど、ちょっと忘れ物しちゃってさ」


 いつもと同じ、悩みとは無縁そうな笑顔。もしかしたらそれも強がっているだけなのかもしれないと考えると、少し胸が痛くなる。


「なにか読んでたみたいだけど?」


「ああこれ? ふふふ、聞いて驚け。名付けて「スキマ時間勉強ノート」さ!」


 夏希が見せるメモ帳には、今週末に試験が行われる気象学に関する単語等が細かく丁寧に書かれていた。だがよく見るとそれは彼女の書いた字とは少し違っていて、日和の記憶が正しければそれは秋葉の字によく似ていた。


「スキマ時間…?」


「秋ちゃんが教えてくれたのさ。こいつを持ち歩いていれば、何時でも何処でもちょっとした時間で勉強することができる。秒刻みの航学生活で、さらに時間を有効活用させようという画期的アイテムなのだ」


 メモ帳を貸してもらい、ペラペラと数ページほど目を通す。優秀な秋葉が作っただけのことはあり、非常によくまとめられていた。試験に出そうなポイントはしっかり押さえられており、なんならこのまま日和が貰いたいくらいの出来映えである。


「轟学生ったら…わざわざ作ってあげたのね。あなた、ちゃんとお礼しときなさいよ?」


「おうとも! この恩は私の足で返す!」


「いやいや、ちゃんと試験の結果で返してあげなよ」


 そりゃそうかと夏希は笑い、やがて猫のように素早く階段を駆け降りていった。なんら変わりのない、いつもの彼女だ。しっかりしたサポートもあるので、今週の試験も特に問題はないように見える。


 心配しすぎだろうか? これまでの試験も今と同じ調子で乗り越えてきたわけだし、今回も大丈夫なんじゃないかと、そんな気さえしてくる。


「ただ、あれで勉強したつもりになっているのだとしたら逆効果ね。もしかしたら「メモ帳を読んでいるだけ」かもしれないわよ。それっぽいことで安心して、身に付いていないパターンね」


「…もしそうだとしたら秋葉の方が可哀想だよ」


 どうか杞憂であって欲しいと願いながら、二人は自分たちの教場に入る。一時限は早速井上1尉の気象学。日和の教授班は既に試験範囲の最後まで進んでいるので、今日は復習と自習になる予定だ。


 雨はいっそう強くなり、窓から見える航学群旗ががっくりと項垂れるように濡れていた。





 航学での座学は基本的に三つの教授班に別れて行われるが、試験の時だけは一度に学生全員を管理する必要がある為に、会場がいつもの教場から群庁舎隣の講堂へと移される。試験官はその科目の担当教官。持ち物検査等は行われないが、途中退室は禁止。教程など、筆記用具以外の物は全て教場に置いてくる。全ては不正を行わせないための措置ではあるが、ここまで徹底しなくとも学生はカンニングなんてしないだろうと、多くの教官は考えていた。


 カンニングなんて、赤点を回避したいという理由に対して、バレた時のリスクがあまりに大きすぎるのだ。なにをしているんだ! と怒られて、その科目が0点になるだけでは済まされない。外禁なんて生温い罰だけでなく、学生として相応しくない行為だと見なされれば、再試験の必要もなく課程免にされるかもしれない。どこかに規則として記されているわけではないが、航学ならばそれくらいは容易に想像できる。そんな危険を冒すくらいなら、真面目に勉強して試験に臨んだほうかはるかに安全で楽なのだ。


「試験時間は50分。試験内容に関する質問には一切答えない。その他に不明な点があれば黙って挙手をすること。では始め」


 井上1尉の合図で学生たちは一斉にペンを走らせる。気象学の試験はその殆どが暗記系の問題であり、ちゃんと勉強してきた者なら最後まで手を止めることなく終えることのできる内容だ。逆に言えば覚えていない単語については、どんなに粘ったところで出てこない。ペンの動きが止まった学生は、すなわち問題を解き終えた者か、解けずに固まっている者かを表す。


(やっば…)


 カリカリと軽快な音だけが響く講堂の中、夏希は焦っていた。分からない問題は取り敢えず後回しにして次へ次へと進んで行くと、あっという間に最後の問題までたどり着き、あまりに空白の多い解答用紙に戦慄する。


(なにこれ記述ばっかじゃん。選択問題少なすぎでしょ。え、なに? みんなこれ解けてるの? テキスト丸々覚えるレベルじゃん。超人なの?)


 夏希の考えている通り、これは覚えた者勝ちの試験なのだ。だから秋葉は「いちばん点数が取りやすい科目」と語っていた。単語を暗記してしまえば、あとは難しいことを考えなくても問題が解ける。時折計算などが必要な場合もあるが、それを捨てたとしても赤点はない。


 ところが夏希はその暗記ができていなかった。正確には、見れば思い出す程度にしか覚えきれていなかった。だから択一式の問題は自信を持って答えることができる。しかし相手は学生嫌いの井上1尉であり、そんな生易しい問題を用意してくれるはずがなかった。ただ教官側から言わせてみれば、そもそもどんな問題が出ようと答えられるように準備してくるのが学生の任務なのであって、夏希のように「簡単な問題を用意してくれる」というなんら根拠のない希望的観測に頼る方が間違っているのである。


 今さら後悔したところで仕方がない。夏希は記憶の片隅にある断片をなんとか繋ぎ合わせ、それっぽい答えで無理やり空白を埋めていく。だがどうしても自信が持てず、簡単に自己採点してみると赤点回避のラインには明らかに届いていなかった。


 焦る。そして焦りは混乱となり、ますます問題が解けなくなる。こんな事態は初めてではないが、今回は秋葉にかなり面倒を見て貰っているわけで、これで不甲斐ない結果に終わってしまっては申し訳が立たない。


 とその時、腰のポケットにとある物が入っていることに気が付いた。秋葉が作ってくれた、テスト対策用のメモ帳である。


 本来ならば持ち込んではいけない物なのだが、そこに入れておくのが習慣付いて、うっかり持ってきてしまったらしい。しかし持ち物検査なんて実施されないわけで、黙っていれば、バレなければ怒られることはないだろう。


 バレなければ。


 スッと夏希の身体から汗が引いていく。そして教壇の井上1尉を見て、彼があまり学生のことを見ていないことを確認した。


 そう、バレなければ問題ない。思えば航学ここでの生活はいつだってそうだった。例えば消灯後にちょっと夜更かししてみたり、靴磨きやプレスなどの手を抜いてみたり…上手いことやれ、と先人たちも言ってきたのではなかったか。


 魔が差すとはこういうことを言うのだろう。気が付いた時には夏希の手はまるで蛇のようにスルスルとポケットへと伸びており、ゆっくり慎重に特製のメモ帳を掴んだ。


 なにもがっつり答えを見ようとしているわけではない。一瞬目を通すだけ。満点ではなく、最低限の点数を取る程度。この行為が仲間に対する裏切りだと言うのであれば、赤点になってしまうことだって、今までサポートしてくれた人達への裏切りということにならないか。自分はただその時々で最善を尽くしているだけだ。そんな言い訳が、妙に素早く頭の中を駆け巡った。


「あ、伝え忘れた。一つ問題に訂正箇所がある」


 突然、パチンと手を叩く井上1尉。その音に驚いて、ポケットから抜き取ったメモ帳が机の角に当たり、夏希の手を離れて床へと落ちた。パシッと、本来なら聞こえるはずのない音が響く。


「あ…」


 つい声が漏れる。試験官の目は当然夏希に向けられ、それまで気だるそうにしていた彼が一気に表情を険しくさせた。


「そこ! 動くな!」


 身体の全てが固まる。なんとか上手く言い訳ができないものかと、オーバーヒートを起こしそうなくらいに頭が回るが、そんなことお構い無しに井上1尉がヅカヅカと激しい足音を立てて夏希の元にやって来た。


「ちょ…これは…」


 奪い取るように拾われるメモ帳。それを数ページめくっただけで、彼はますます顔を赤くさせた。


「中止、試験は一端中止だ! 全員その場で待機! 絶対に動くなよ!」


 井上1尉は怒ったとしても決して怒鳴るようなタイプではない。どちらかというとネチネチと粘着するように学生を追い詰め、私的な嫌味をぶつけるような人だ。そんな彼が声を荒げて騒ぎ立てるものだから、長い静寂の中で黙々と試験に挑んでいて学生たちは驚愕する。


 だがその視線の殆どは井上1尉ではなく、その側でがっくりと項垂れる夏希のほうへと向けられていた。

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