第76話 コロッケ
とりあえず一同着席したところで、杏が話し始めた。
「はじめてお目にかかります、神崎杏です。あの、修二さんが東海村へ移動という話をお聞きしまして、どうしてもついていきたいとごねたのは私なんです」
「いやいや、修二が強引にお誘いしたんではないですか?」
やっぱり父は完全に誤解している。
「いいえ、修二さんは私の研究上のミスをカバーしてくれたり、いつも良くしてもらってます。もしかしたら私の片思いかと思っていたくらいです」
「片思いしていたのは修二じゃなかったんですか?」
「私は前々から、修二さんのこと、大好きです」
最後の方は声が小さかった。僕は猛烈に恥ずかしいし、杏も下を向いてしまった。
レストランはフランス料理、ようやくコースが始まった。オードブルが運ばれてくる。
オードブルは、きのこのテリーヌ。魚介類だと杏が苦手なので心配だったが、一安心だ。
「杏さん、うちの修二とはどこで知り合ったのですか?」
母が質問する。
「はい、大学二年のとき、合コンで」
「そうですか、ずいぶん長いお付き合いになるのですね」
「いえ、実はその次に会ったのは大学の4年の5月でした」
「あら」
「そのときは修二さんが急に、なんかカッコよくなってまして……」
「母さん、恥ずかしいよ」
恥ずかしそうに小さな声で話す杏が気の毒で、僕は母の話を遮った。
ところが杏は、
「そのころから、回数は少ないですけど、いろいろと私を助けてくれました。私『実験物理 若手の学校』の実行委員もやっていたんですが、ホテルが火災にあうというトラブルがあったのですが、修二さんが解決してくれました。夏の大学院の入試のときも、修二さんが一緒だったのでとても心強かったです」
「そうですか」
「北海道へ行ってからも、いろいろと助けてもらってます。特に修二さんの東海村の実験では……」
「杏、その話はいいよ」
僕は停めたのだが、
「ううん、やっぱりちゃんと話さないと」
と言って、話を続けた。
「私のせいで実験のデータが台無しになるところだったんですが、修二さんが解決してくれました。それに修二さんが東海村へ行っている間、私、淋しくて淋しくて、私の人生に修二さんが絶対に必要だとわかりました。それで、今回修二さんの東海村への移動の話が出た時、私、もう……」
父が口をはさむ。
「修二、おまえ杏さんのお気持ち、まるでわかってなかったわけじゃないだろう。東海村への移動は杏さんに相談しなかったのか?」
「うん、恋愛感情で学問を曲げるような人間は、神崎さんといっしょにいれる資格はないと思ってね」
神崎さんがにらんでいる。杏と言ってほしいらしい。
スープが出てきた。
「それはそうと、修二さんはいつから杏のことを?」
杏のお父さんが聞いてきた。
「大学2年の合コンで、実は杏さんに説教されまして」
「修二くん、その話やめて」
僕は杏に眼で大丈夫と合図して、話を続けた。
「その杏さんのお話で、宙ぶらりんだった僕は物理を選ぶことができました。だから今の僕があるのは杏さんのおかげなんです」
「修二くん、もういいから」
杏に懇願され、僕は一旦話をやめた。
メインディッシュになった。
「みなさん、今はせっかくのお料理、いただきましょ」
杏のお母さんがそう言って料理に手を付けた。杏がおずおずといった感じで食べ始めた。
「おいしい」
その言葉に、うちの母が反応した。
「ほんとおいしいわ。ワインにもよく合うわ。杏さん、全然飲んでないみたいですけど」
「あ、はい」
杏がワイングラスに手を伸ばすのを、杏のお父さんがとめた。
「やめとけ」
「あら、お弱いんですの? ごめんなさい」
母の言葉に杏のお父さんは、
「いや、お恥ずかしい、この子はつい飲みすぎる癖があって」
真相を知る僕は口を出せない。杏の眼は、じっとグラスに注がれている。危険である。
杏のお父さんも同じ考えなのか、
「実は杏は、修二さんと合コン2回やってるんですが、そのたびに飲みすぎちゃって、いや、ほんとお恥ずかしい」
「お父さんやめて」
「いずれバレるんだから、早いほうがいいんだよ。すみません、こんな娘で。いいんですか、修二くん」
お父さんの注意が僕の方に向いた瞬間、杏はグラスのワインを一気飲みした。僕はつい注意してしまった。
「デザートの味、わからなくなるよ」
お父さんが大笑いした。
「さすが修二くん、杏のことよくわかってらっしゃる」
僕はつられて笑うしかなかったが、杏はまた僕をにらんでいる。
デザートを食べながら、今後の話になった。
「修二さん、修士号をとったあとはどうされるの?」
杏のお母さんに聞かれた。
「はい、東海村で博士号をとろうと思います」
「じゃあ、杏といっしょね。式はそれからかしら?」
「おかあさん、それちょっと早い。私達、お互いの気持確かめたの、昨日なのよ」
「それもそうか」
お母さんも大笑いだ。
会食は無事終わり、店を出た。杏は酔いつぶれないですんだらしい。
彼女は、すすっと僕のところに来て小声で言った。
「修二くん、私、修二くんの育った家、見たい」
「うーんいいけど、もうコロッケの店、開いてないと思うよ」
「そっか~」
杏はとても残念そうである。
「じゃ、今夜は修二くんのお家にとめていただいて、明日出掛けに……」
「あのお店開くの十一時だよ。もう羽田だよ」
しばらく考え込んでいた杏はなおも言ってきた。
「修二くん、私、修二くんのお家の話をしてるんだよ」
「コロッケの話でしょ」
「なんでわかるの?」
「そりゃわかるでしょ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます