第58話 徹夜
外に出るともう暗かった。気温が下がってきているので部屋に戻って上着を取ってくる。途中のコンビニで、夜食を多めに買っておく。
「唐沢くん、よく寝れた?」
制御室にたどりつくと、田口さんから声をかけられた。
「はい、論文読んでたら、よく寝れました」
「それ、いいね!」
冗談が通じたらしい。
実験ホールに入り、冷凍機にサンプルをセットする。今朝までの実験ではノイズが多かったから、サンプル以外の部分に中性子線が当たらないよう、注意して遮蔽用のカドミウムの板を巻く。一通りの遮蔽ができたところで、僕はいろいろな方向から機材を観察して、なにか手落ちがないか探す。そうしていたら、背後から榊原先生の声がした。
「唐沢くん、やってるね」
「はい、遮蔽がちゃんとできてるか、ちょっと心配で」
「うーん」
先生も確認作業に加わってくれた。
「昨日とやり方もかわってないけど、特に問題があるように思えないんだけどな」
「そうですよね。先生、この冷凍機何回も使ってるんですよね」
「うん、そうなんだよねぇ」
時間をかけて二人がかりでチェックしたが結局わからなかった。
「念の為写真撮っとくか」
榊原先生はスマホを取り出して何枚か写真をとった。
クレーンを使って冷凍機を断熱用の容器に入れ、冷却を開始する。まだ前のグループが実験中だから分光器にはセットできない。
「あとは分光器に入れるだけだから、今日はゆっくり夕食食べるか」
「いいですね」
とは言ったものの、昨日と同じ定食屋に行った。今回は天ぷらでなく、刺し身にした。
茨城の魚を今夜も堪能して、実験施設に戻る。昨夜同様、田口さんの実験の終了を手伝い、自分たちの実験の開始の作業をする。1秒でも長く中性子線をサンプルに当てたいから、機材の入れ替えの時間は最小にしたいので、作業は慌ただしい。
「唐沢くん、昨日のことがあるからさ、ひとつひとつ確実にやろう」
焦る僕の気持ちを見透かしてか、榊原先生からアドバイスが飛んでくる。しっかりと返事して、一つ一つの作業を指差し確認する。
「先生大丈夫だと思います」
榊原先生は温度計をじっと見つめながら言った。
「うん、始めよう」
急いで制御室に帰る。
測定を始めて一時間、データに問題はなかった。
「唐沢くん、ここまでは問題ないな」
「そうですね」
「じゃ、俺は寝るわ。唐沢くん、無理するなよ」
「はい、ありがとうございます」
制御室は僕一人になった。照明は煌々とついているが、それだけに人が居ないことを強く実感させる。僕はチョッパー分光器をコントロールするPCの前に陣取り、ペットボトル、夜食、ついでに勉強道具を並べる。今夜の仕事は実験環境の監視だから、やることはあまりない。
しばらくはPCで測定中のデータを見ていたが、とくに変なところもないので勉強を始める。いくら昼寝したといっても今は深夜1時すぎだから頭脳明晰とは言い難く、ゆっくりゆっくりと勉強を進める。
ちょっと難しい数式に苦戦して、気がついたら2時近い。気分転換を兼ねて実験ホールに入る。
実験ホールも、やはり無人だった。無人ではあるが、沢山の真空ポンプや冷凍機の作動音でかなりうるさい。自分の作業中では全く気にならないが、今は緊急事態が起きているわけでもないので音がよく分かる。
もちろんチョッパー分光器まわりも何の問題もなかった。制御室に戻る。
席に戻って勉強を再開しようかと思ったが、もう全く頭に入ってこない。こんなときのために施設には休憩室がある。行ってみたら真っ暗だった。ソファーがあり誰か寝ているといけないので、電気をつけず、廊下からの明かりで中を進む。本棚があり、マンガとか雑誌とか置いてあるので適当に手にとって制御室に戻る。
明るいところでマンガのタイトルを見たら、日曜夕方にやっている国民的アニメの原作だった。少女マンガが置いてあるのが意外だった。
PCの画面を横目で見ながら、マンガを読む。ペットボトルの冷たいお茶を飲む気にならず、自販機で缶コーヒーを買ってきたら、画面が一変していた。
山のようなノイズで、先程まで見えかけていた信号が見えなくなっている。
さっきまで薄ぼんやりとしていた意識が、一気に覚めたような感覚がした。
制御室から戻ってから缶コーヒーを買いに行くまで、僕は制御用のPCに全く触っていない。画面上にも僕がなにか特別なコマンドを送った形跡もない。とすればなにかが起きているのは分光器の中でしかありえない。急いで実験ホールに向かう。
実験ホールでチョッパー分光器の上に立ち、冷凍機の状態を見る。変に結露しているとか、機材から変な音がしているとかは無い。今機材を引き上げれば、このサンプルの測定は時間的にもうできないかもしれない。時計を見る。まだ午前4時にもならない。測定のちょうど中間くらいだ。
仮に一旦冷凍機を引き上げ内部をチェックして再度分光器にセットしても、冷却時間を考えればほとんどデータを取り直す時間は無い。
つまり、このままマシンタイムを消化するしか無いということだ。
呆然と分光器の上で立ち尽くすしか無かった。
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