第71話 第一著者

 月曜日、いつもより早く起床する。今日は神崎さんが例の「効果」を排除した正しい実験結果を先生方に伝える日だ。外に出ると小雪がちらついている。この天候に神崎さんの気持ちが萎えてしまわないことを祈る。

 

 八時前には理学部棟に着いた。神崎さんより早く着いているはずなので、このまま彼女を待つ。数分待つと、ガラスのドアのむこうに神崎さんの姿が見えた。ガラス越しにも顔がこわばっているのがわかる。わざと挨拶抜きにする。

「神崎さん、顔が怖いよ」

「え?」

「僕も一緒に行くから、大丈夫」

「ありがとう」

 少し笑顔がもどったかもしれない。

「私、榊原研行くね」

「うん、待ってる」

 一旦神崎さんは荷物を置きに池田研へ向かった。

 

 すぐに神崎さんはやってきた。

「榊原先生は、あと三十分くらいで来ると思う。それまでゼミ室に居ようか」

 ゼミ室へ案内し、コーヒーを淹れる。

「修二くん、ありがとう。せっかくみんなでデータ処理してくれたけど、正直に言うから」

「うん、必要なときはサポートするから」

 コーヒーを渡すと、神崎さんは両手でコップを包みこんだ。あの温かさが神崎さんの力になってほしい。

 

「やっほー」

 緒方さんが手を振りながら登場した。当然明も一緒だ。

「やっほー」

 返答する神崎さんの声はこころなしか力がない。

 

 榊原先生がゼミ室に顔を出した。いつもならこの時間帯は無人のゼミ室に人の気配がするので見に来たのだろう。

「あれ、君たちどうしたの?」

「こないだの中性子の実験についてわかったことがあるので、朝イチでご報告をと……」

「あ、そう。で、なんで岩田くんもいるの?」

「僕もデータ処理手伝ったので」

「ふーん、君たちがそろっていることからすると、網浜先生と池田先生呼んだほうがいいか」


 先生方に見てもらう資料を手分けしてゼミ室のテーブルに置いていく。先生方はすぐにやってきた。

「で、どうしたの?」

 榊原先生が話を始めるように促した。神崎さんは僕たちに目で合図して、意を決したように話し始めた。

「今回の実験のデータですが、ある時間帯だけデータが乱れており、それ以外の時間帯ではきちんと測定できていることを、唐沢くんが発見しました。そのデータの乱れの原因ですが……」

「どうせ神崎さんが実験中にデータのぞいたんだろ」

 小声で池田教授が呟いた。神崎さんは絶句してしまった。

 

 しばしの沈黙を破ったのは、またも池田先生だった。

 

「僕は実験屋じゃないからさ、測定の問題はどうでもいい。とにかく測定結果を説明してよ」


 それから神崎さんはグラフの結果を説明し始め、神崎さんの理論的予想と実験データの比較に議論が移った。そうなればさすがは神崎さんで、たとえ議論の相手が池田先生だろうが榊原先生だろうが自分の意見はしっかりと言っていた。僕は視線を感じると緒方さんで「だいじょうぶだね」と言っているような気がした。

 

 今後の方針としては、僕と神崎さんが協力して試料の質量や形状をきちんと考慮したうえでデータの再処理をすることになった。並行して僕たち榊原研で追加の各種測定、神崎さんたち池田研で理論的考察、緒方さんたち網浜研はさらなる試料づくりと決まった。これならば春の学会には十分すぎるくらい時間がある。

 先生たちは忙しいのだろう、僕たち院生を残して去っていった。

「ね、最初から僕が言ってたとおりでしょう」

という池田教授の声が廊下から聞こえてきた。

 

「聖女様、これにこりて実験中に余計なことしないでね」

 緒方さんがいたずらっぽい顔で神崎さんに言う。

「のぞみ、網浜先生にいろいろ言ってくれてるみたいじゃない」

「うん、言ったよ。網浜先生、嬉しそうに聞いてくれるんだもん」

「ちょっとひどくない?」

「そうかな? 大学一年から学生実験で誰が一番被害を受けてきたと思う?」

「優花かな、イテッ」

 緒方さんが杏のほっぺたをつねった。

 二人がすっかりリラックスしているので、僕は口を出すことにした。

「データ処理の時間的目標は学会じゃないよ」

 神崎さんが質問してくる。

「学会じゃだめなの」

「論文の出版だよ。出版までは査読が入るから時間がかかる。早いほうがいい」

「先生たちからは、何にも言われてないじゃない」

「指示を待っているようじゃだめだ。僕たちは研究者だ。指示通りに動いてるようじゃ、研究者じゃなく、ただの手伝いだよ」


 しばらく神崎さんは言葉を返してこなかった。怒ったような顔になったり悲しそうな顔になったり感情がめまぐるしく変わる。ぼくはじっと神崎さんの言葉を待った。

 

 やがて引き締まった表情で神崎さんが言った。

「修二くんの言うとおりだね。私、甘く見てた。ごめん」

「別に謝られるようなことじゃ……」

「そう、じゃ、ありがとう」

「で、どうしようか。論文となると、本文書かなきゃいけないでしょ。誰が書く?」

 緒方さんが言う。

「学会は聖女様でしょ。同じ内容で行くならファーストオーサーは聖女様、だったら書くのも聖女様でいいんじゃない?」

 ファーストオーサーとは、連名で出される論文の第一著者のことだ。だれだって第一著者になりたいに決まっている。

「のぞみ、試料はのぞみ、測定は修二くん、解析は私、みんな平等だよ」

 そう言う神崎さんに、緒方さんは答える。

「ファーストオーサーはともかく、その分担で論文の各部を書くかな?」

 でもそれだと重大な問題がある。

「神崎さん、緒方さん、問題は導入と結論だよ。そこを書く人がファーストオーサーだよ」

 導入(イントロダクション)は論文の研究に至る動機、結論は論文で明らかにした新事実であるから最も重要な部分である。

 緒方さんが言う。

「そうなると聖女様じゃない?」

「それはおかしい、今回は実験の論文だから」

 黙って聞いていた明が、ここで発言した。

「あのさ、三人とも別々に導入と結論書けばいいんだよ。書けたところでそれを突き合せて、一番いいのを採用すれば、ファーストオーサーも自動的に決まる」

 緒方さんの目の色が変わった。いいものを書いてしまえば、それでいいのだ。

 

 たまにだけど明はいいことを言いうなと考えていたら、明がさらに発言した。

「あのさ、俺も書いてみていい?」

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