第72話 悪い知らせ

 先生たちには無断で論文の準備を始めた僕たちは多忙を極めた。学会準備を含めた平常の研究だけでも忙しいのに、論文も書いてみるのだから時間はいくらあっても足りない。僕としては先生に見つからないところで論文を書いてしまいたいので、家でその作業をすることにしていた。

 最初は日本語で書いて英訳していたのだが、どう考えても効率が悪いので始めから英語で書くことにした。どうしてもいい表現が思いつかないところは日本語で書いているので、PC上の僕の下書きは英語と日本語がごちゃごちゃになっている。

 神崎さんと緒方さんの論文がどうなっているかは知らない。僕としては全力を出して神崎さんと緒方さんを打ち破るようなものを書きたい。彼女たちだってそうだろう。その意気込みでないと駆け出しの研究者の僕たちがまともなものが書けるわけがない。

 

 そのように忙しく仕事しているある日、居室で作業していると榊原先生がやってきた。

「唐沢くん、大変だ、新発田先生が倒れた」

「え、本当ですか?」

「ああ、脳梗塞らしい」

 慌てて僕はPCのメーラーを確認すると、SHELの田口さんからメールが入っていた。

 

 二日ほどしてまた、田口さんからメールが来た。とりあえず病状は落ち着いたが、当分公務には戻れないという。僕としては新発田先生が復帰された時、よろこんでもらえるような研究結果を出しておくことだ。

 新発田先生に細かい実験上のことを相談できないのは不便なものの、榊原先生自体中性子散乱実験に関しては詳しいのでなんとか研究はすすめられていた。


 窓の外に小雪が舞う日だった。家を出る支度をしていると、榊原先生からメールが来た。めずらしいことである。今日研究室でやる作業はとりあえずストップし、朝10時半にゼミ室に全員集合せよとの指示だ。研究室になにか大変なことが起きているに違いない。

 急いで家を出る。

 

 大学までの道が遠く感じられる。早く行かねばと思うが、いつ雪が積もるかわからないので自転車で行くわけにはいかない。話によれば大雪のときに自転車置き場に自転車を置いてしまうと、自転車が雪に埋もれそのまま春を待つしかなくなるという。

 

 息を切らして居室にたどり着くと、まだ誰も来ていなかった。榊原先生の居室は電気がついている。

「おはようございます、先生」

「ああ、唐沢くん、みんなが来たら話すよ」

「はい」

「それはそうと、唐沢くん、修士取ったらどうするつもりだ? 前は進学希望だったと思うけど」

「はい、進学希望です」

「あの変なこと聞くけど、札幌じゃないとだめ?」

「まあ札幌である方がいいですが、必要であれば僕はどこにでも行きます」

「うむ、唐沢くんならそう言うと思っていたよ」


 やがて皆出てきたので、ゼミ室に集まった。

 

「みんな、おはよう。今日は悪かったね」

 榊原先生が話を始めた。

「あのさ、東海村のSHEL、新発田先生が倒れられたの、みんな知ってるよな」

 新発田先生はSHELで僕たちの実験に共同で参加してくれたが、実はSHELの中性子部門のトップである。

「やっぱりリハビリに相当時間がかかるそうで、当分SHELの仕事はできないらしい」

 激務であることは聞いていた。闘病しながらできるようなものではないのだろう。

「それで昨日連絡がきたんだが、後任というよりは代理なんだが、僕に中性子部門のトップをやれということだ」

 ここで榊原先生は、ちょっと間をとった。

「僕としては、SHELに行きたいと考えている。この研究室は札幌に残る。僕は時間の大半は東海村で過ごすことになると思うが、ときどきはこっちに戻って来るし、ネット会議で定期的に打ち合わせはしようと思う。不便はかけるがなんとかなると思う。網浜先生、池田先生も協力してくれると言ってるので、3研究室で連携して研究を進めていけるはずだ」


「それでだな、吉岡くん、悪いけど君は研究室の要として、こっちに残ってほしい。君の研究分野は希釈冷凍機による実験が多いから、東海村ではできないしね。学位論文の指導は絶対にちゃんとやるから安心してくれ」

 吉岡さんはD2、博士号取得まであと1年なのでうかつに動けない。

「織田くんは博士課程希望だけど、来年は東海村でもこっちでも、好きに選べばいい。河合くんは就職だったね」

 M2の二人のうち、就職の河合さんはいいとして、織田さんは悩むところだろう。

「M1の三人が問題だな。網浜研にうつってもいいし、このままこの研究室でもいい」

 そして榊原先生は、僕の眼をみて、こう言った。

「将来的に中性子をやっていきたい人は、僕と一緒に東海村へ行ってもいい。すぐに返答はしなくていい。必要ならご家族とも相談してくれ」

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