第73話 涙

 ゼミ室での榊原先生の話が終わり、僕は居室へもどった。

 榊原先生は近いうちに東海村へ移動する。僕は中性子散乱実験に魅せられているので、物理屋としては東海村へ行きたい。しかしそれでは札幌に来た半分の目的が果たせない。というより神崎さんと離れたくない。

 とはいうものの、色恋を優先するような人間では神崎さんの横に立つ人間としては失格だろう。

 僕は決断した。

 東海村へ行く。

 

「榊原先生、ちょっとお話が」

「え、何?」

「僕、東海村へ行きたいです」

「もう決めたの? ご家族は?」

「もともと僕は北海道の人間じゃないので、問題ないと思います」

「じゃ、聖女様は?」

「神崎さんは関係ないです」

「そんな事言うなよ。ちょっと来なさい。池田研行くぞ」

 榊原先生は怖い顔をした。

 

「池田先生いる?」

「はーい」

 池田先生が出てきた。

「池田先生、あの、例の話」

「ああ、じゃあこっちで話そう」

 池田先生は僕たちを応接セットに導いた。

 

「で、唐沢くんがいるということは、榊原先生、唐沢くん連れてくの?」

「うん、彼が希望するんでね。ただ、問題がね」

「そうだな、聖女様、なんていうかな」

「あの、僕の移動になんで神崎さんが問題なんですか?」

「「そりゃ決まってるだろう」」

「いや、僕が移動したって、神崎さんは大丈夫ですよ」

 池田先生は不満そうだ。

「何いってんだ唐沢くん、君が出張中、彼女ほとんど抜け殻だったんだぞ」

 榊原先生は、

「やっぱそうだったんだ。じゃ、唐沢くん連れてくのやめるか。だいたい、唐沢くん、きみだって淋しいだろう」

と言う。

「そりゃそうですけど、僕は耐えられます。神崎さんだって大丈夫ですよ」

「いや~僕は厳しいと思うけどね」

とは池田先生だ。

「じゃあ、僕が今から伝えますよ」

「もう言うの?」

「はい」

「ちょっと落ち着いて考えてからのほうがよくないか?」

「いや、いずれは言わなきゃいけないことですから。どうせ言わなきゃいけないなら早いほうがいいですよ」

「唐沢くん、意地になってない?」

 そりゃ僕だって、神崎さんに言いたいわけではない。ただ、東海村に移動する件を隠したまま神崎さんと会話する自信がないだけだ。

「じゃ、言ってきます」

「お、おい、とにかく、言葉を選べよ」

「慎重にな」

「はい」


 池田先生の部屋を出て、神崎さんの居室に行く。ちょっと彼女が不在ならと、考えてしまう。

 ドアを開ければいつもどおり、神崎さんは計算に没頭していた。

「神崎さん、ちょっと話があるんだけど」

 神崎さんは素晴らしい笑顔を見せてくれ、返事をしてくれた。

「なに、どうしたの?」

「ちょっとここでは」

 神崎さんの表情は少し硬くなった。

 

 池田研のゼミ室にお邪魔させてもらう。都合よく、誰もいなかった。

「コーヒー飲む?」

 神崎さんが聞いてくれたのだがとてもそんな気になれず、断った。

 テーブルを挟んで座る。

 神崎さんが不安そうな顔をしている。

 

「で、どうかしたの?」

「うん」

 なかなか切り出す勇気が湧いてこない。

 

 いつまでも先延ばしにできないので、話を始める。

「東海村の新発田先生ね、倒れたって聞いた?」

「うん、聞いた」

「でね、かなり悪いらしいんだ」

「そうなんだ」 

「でね、近いうちに榊原先生がその代理として、東海村に行くことになったんだ」

「そう、たいへんだ」

「でね、榊原先生は僕の指導教官だから、僕も東海村に行くことになりそうなんだ」

「え?」

 神崎さんは眼を真ん丸ににしている。

「籍は札幌においたままで、実質的な研究は東海村で、のこっている講義はネットで、という方向で話がすすんでいるんだ」

 ここで神崎さんの顔から表情というものが無くなった。

 

 人間の顔には、表情筋という気持ちを表すための筋肉が発達していると言う。たとえば猫の顔を見ていても、喜んでいるんだか悲しんでいるんだかよくわからないが、人間の顔は表情筋により感情を伝えることができるのだそうだ。

 いま神崎さんの顔は、なんの感情も表していない。つまり神崎さんは思考停止しているということだろう。しかたなく、榊原先生の立場、僕の学問上の希望だけでなく、ネット会議を使えば会話ができるとか時々は札幌に戻るとか話してみた。しかし神崎さんは「うん」「うん」と相づちを打つだけで、僕の言葉がまともに伝わっているとはとても思えない。

 

 しばらくすると神崎さんの眼から大粒の涙がこぼれ、やがてそれは連続的に流れ出てくるのが見えた。

 

 僕だって泣きたかった。でも泣いてどうなる。

 神崎さんと離れて東海村へなんか行きたくない。

 だけど物理を学ぶものとして、ベストをつくさない人間に神崎さんの横に立つ資格はない。

 神崎さんは今は急なことで動揺しているだろうけど、いずれはちゃんとわかってくれる。

 

 心を鬼にして言葉を繋いでいると、神崎さんは急に言い出した。

「修二くん、私、大学辞める。修二くんについていく」

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