第74話 プロポーズ

「修二くん、私、大学辞める。修二くんについていく」

 とんでもないことを言い出した神崎さんに、僕は動揺した。

「いや、それはだめだよ。神崎さんは神崎さんの物理を続けないと」

「そんなもの、どうでもいい。勉強だったら、机とネットがあれば、どこでもできるし」

「現実はそうもいかないでしょう」

「私今わかった。修二くんのいない生活は、無理。イヤ」

「神崎さんの気持ちは嬉しいよ。でもね」

 神崎さんは僕の言葉を大きな声で遮って叫んだ。

「イヤなの。無理なの!」


 そして神崎さんは大声を上げて泣き始めた。

 上を向いて、口を開けて、子どものように泣き始めた。

 涙でぐちゃぐちゃだ。

 感情を爆発させる神崎さんを、僕は初めて見た。

 そして僕は、やっぱり神崎さんが大好きなことを思い知らされた。

 なぜなら泣きわめく神崎さんは、とてもとてもかわいかったからだ。

 

 その騒ぎを聞きつけたのだろう、しばらくしたら池田先生、榊原先生、緒方さん、恩田さん、明、カサドンがゼミ室に集まってきた。

 僕と神崎さんはゼミ室のテーブルに向かい合って座っていたのだが、緒方さんと恩田さんは神崎さんの両隣に座り、僕の両隣は池田先生と榊原先生が座った。

 池田先生の指示で、僕と神崎さんのスマホを使って、神崎さんのご両親を交えての話し合いを始めることになった。

「神崎さんのお父様、お母様、突然申し訳ありません。札幌国立大の池田です」

 挨拶が交わされる。

「実は、杏さんのお友達の唐沢修二くんですが、急に茨城県の東海村に移動することになりまして、それを先程、お嬢さんにお伝えしました。お嬢さんは大変動揺されまして……」

 神崎さんは泣きながらではあったが、はっきりと言った。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい。私、大学辞めて、修二くんについていきたい」

 神崎さんのお母さんの声がする。

「修二くんは、いいって言ってるの?」

「ううん。でも」

「だめだ。とにかくだめだ」

 これは神崎さんのお父さんだろう。

 榊原先生が話し始める。

「神崎さん、あなたの気持ちは素晴らしいことだと思う。だけど、研究者同士の交際では、こういうことはよくあることだよ。原子核の大石先生、奥さんのこと、知ってるだろう」

 大石教授の奥様は、宇宙論の明と同じ研究室で研究生をやっている。大石教授と離れないため、研究生という身分に甘んじているのだ。

「大学だろうが民間だろうが、女性が社会進出する上で、配偶者と自分の仕事と、どう折り合いをつけていくか、みんな苦労しているよ。だからまず、神崎さん、自分だけひどい目にあっているとは考えないでね」

「はい」

 そう短く答えた神崎さんは、下を向いてしまった。まだ鼻をグスグスいわせている。

 

 ちょっとして、神崎さんは言い出した。

「それでも、それでも、一緒にいたいです」

 絞るような声だった。

 僕はここでようやく、神崎さんの気持ちを嬉しく思えた。ふつう好きな女性から自分への気持ちを伝えられたら、うれしくてうれしくてしかたがないだろう。しかし今回は付き合う前からの別れ話みたいでもあるし、神崎さんは大学辞めるとか言い出すし、喜んでいる暇がなかった。

 池田先生が話を続けた。

「神崎さん、一年、待てないかね」

「一年待って、どうなるんですか?」

「大学院大学ってあるだろう。東海村も、拠点の一つだ」

 SHELで新発田先生に勧められた大学院大学のことだ。

「東海村も、理論部門はある。そこに君を、推薦する」

「一年ですか」

「つらいだろうが、ネットでも話せるじゃないか。唐沢くんもときどきは札幌に戻ってくるだろうし」

 神崎さんはしぶしぶという漢字で答えた。

「はい」

 すると神崎さんのお父さんが話しかけた。

「杏、先生もそうおっしゃっているんだ。とにかく、博士号だけはとりなさい。博士号を取ったら、一人前だ。あとは自分の好きにしなさい」

 僕もそれが一番だと思う。しかし気持ちの整理がつかないのか、神崎さんは答えない。

 

 ちょっと間が空いて、神崎さんのお母さんが言い出した。

「杏、あんた、今日、修二くんのところに泊まりなさい」

 なんかとんでもない話になっている。

「お、おい、何言ってんだ。俺は許さないぞ」

「あなた、修二くんに不満でもあるの?」

「いや、もらってもらえるなら、修二くんだと思うけど」

「だいたい、私達だって、結局は勢いだったでしょう」

「先方にもご挨拶とかあるし」

「既成事実作っちゃえばいいのよ。なんなら明日伺うわ」

 急展開に頭がついていかない。神崎さんもそうだろう。

 

 お父さんが僕に言ってきた。

「修二くん、こんなやつだけど、よろしくお願いします」

 僕に異存はないのでこう答える。

「は、はい、こちらこそよろしくお願いします」


 神崎さんが言った。

「あ、あの、私、心の準備ができてないんですけど」

 僕も心の準備はできていない。緒方さんが言う。

「そもそもさ、あんたたち、お互い好きって言ってないでしょ」

 実はキャンプの時強引に好きと言わされたのだが、肝心の神崎さんが酔っ払って覚えていないらしい。

 

「みんな、二人に話し合う時間をあげよう。唐沢くん、今日、実験はいいよ」

 榊原先生がみんなを連れてゼミ室を出ていった。

 

 神崎さんが僕と離れたくないことはよくわかった。とても嬉しいことだ。

 今度は僕の気持ちをちゃんと伝える番だろう。

 

「神崎さん、お正月で、お見合い写真の話があったでしょう」

「うん」

「あれ、僕、こっちに持ってきてないんだ」

「え」

「あれね、東京に置いてきた。両親にね、結婚するならこの人だって、言ってね」

「……」

「だからね、僕も、本当は東海村へは行きたくない」

「でも、中性子やるなら、最高の環境でしょ」

「だから、物理屋としては、東海村なんだ。でも、男としては、札幌にいたい」

「私も、物理屋としては札幌だけど、女としては、東海村に行きたい」

「困ったね」

「うん、困ったね」

「だけどね、僕は神崎さんに物理を続けてほしい。だって、僕を物理に引きずり込んだのは、神崎さんだよ」

「でも私は理論だから、机とネットがあれば、どこでもできる」

「だめだよ。学位は取らなきゃ」

「論博目指す」


 神崎さんが言っているのは、大学を辞めて、それでもよい論文を書いて、それを博士論文として評価してもらうということだ。不可能ではないが、とても厳しい道だ。ふつうは企業などで研究している人でないと難しい。

「それが難しいのは、神崎さんわかっているでしょ」

 そう言わざるを得ないのは苦しい。もちろん返事はない。

 

 覚悟を決めた。

「神崎さん、物理も、プライベートも、僕と一緒に歩いて行ってほしい」

「それって、プロポーズ?」

「うん、結婚したい。なんなら学生結婚でもいい。でも、一年だけ待って」


 神崎さんは少し考えているようだった。

 

「修二くん、わかった。一年待つ。だけど条件がある」

「条件?」

「うん」

「条件とは?」

「私のこと、名前で呼んで」

「名前?」

「うん、杏って呼んで」

「杏さん」

「杏」

「杏、結婚してください」

「はい」

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