第7話 帰還
翌朝、大変なことになった。上高地へ至る唯一の道が土砂崩れで通行止めになってしまったのだ。外を見ると大雨だ。朝食後、篠田先輩に連絡を取る。今日は日曜だから研究室に人が出てこない。運良くすぐに篠田先輩は電話に出てくれた。
「篠田先輩、若手の学校の下見で上高地来てるんですが、土砂崩れで帰れなくなりました」
「え、なに? 怪我ない?」
「僕はホテルで大丈夫です。小田先生に伝えてくださいませんか?」
「うんわかった。実験はやっとくから大丈夫だよ。ノート、机の中だろ」
「はい、お願いします」
「ま、ゆっくりしてきなよ。勉強もできないだろうし」
勉強はできるのだ。神崎さんから借りればいい。
食堂のテーブルで神崎さんは勉強していた。
「あの、神崎さん、教科書みせてもらっていい?」
「いいけど?」
「やることないからさ、僕も勉強しようと思って」
「素粒子だよ。唐沢くんは物性実験だよね」
「うん、専門外は時間があるときじゃないと勉強できないからさ」
「そういうことなら、大歓迎よ。専門バカは嫌い」
大歓迎どころか、僕が計算で躓いて困っていると、神崎さんがちょこちょこと教えてくれた。
「自分の勉強もあるのに、ごめんね」
僕が恐縮して言うと神崎さんは
「教えるとかえって自分の理解が深まるじゃない。ウィン・ウィンよ」
と笑った。
午後も勉強を続けたが、ときどき神崎さんは窓辺に寄って外を眺めている。何を考えているのかはわからない。神崎さんはゴールデンウィークに会ったときバナナオーレと揚げ餅の甘いと塩っぱいの無限ループで勉強をすると言っていた。売店に行ったら、サラダせんべいといちごオーレが売られているのを見つけたから、多めに買ってみんなのところに持っていった。
神崎さんは大喜びしてくれた。勉強に集中しながら、いちごオーレを飲み、せんべいをかじる。どうしてもせんべいのかけらが服についてしまうが、時折それを緒方さんが取っていた。
昨日の夕食では飲酒しなかったが、今夜の神崎さんは夕食からビールを開けていた。
「昼間、思う存分勉強できたから」
と言い訳のように言っていた。そんなこと気にしなくていいのに。
でもお酒が入ると口が滑らかになる。
「俺達、聖女様の影響で物理に決めたんだよ、な、修二」
お酒なしでも口が滑らかな明が発言した。
「う、うん」
「ふーん、どういうこと?」
感心したように神崎さんが聞いてきた。
「神崎さん、超伝導好きでしょ。僕もその後、超伝導いろいろ調べてみたんだ。まだ勉強中だけど、対称性の破れとか、ゴールドストンボソンとか、超伝導に限らず相転移の勉強になるしね」
「ま、そういうことよ。物理の方法論を学ぶにも適してるしね」
神崎さんは同意してくれた。
「俺は宇宙論だよ。合コンで相対論教えてくれたでしょ」
僕はもっと超伝導について話していたかったが、明に邪魔されてしまった。
月曜の朝になり、雨は弱まってくれた。宮崎先生に止められたので、今日もホテルで勉強だ。宮崎先生によると、遊歩道でも被害が出ているかもしれないとのことだ。今日も一日勉強だ。
火曜日、やっと雨がやんだ。ロビーに行くと、ちょうど外から神崎さんが帰ってきた。
「雨やんだね」
そう声を掛けると、
「うん、でも、梓川すごいことになってる。川の中から岩と岩があたる音がして、きなくさい匂いが立ち込めてる。怖いから帰ってきた」
「そのほうがいいね」
「小学校で川の流れのはたらき勉強したけど、実際にこの眼でみちゃった」
「そう言われると僕も見たくなっちゃうな」
「ダメ、あれはやばい」
「うん」
僕はふざけて言ったのではなく、純粋に科学的興味で言ったのだが危険すぎるようだ。神崎さんも僕のことを心配そうにみながら、
「命とひきかえはダメよ」
と言ってくれた。
「そうだね」
今日も勉強だが、さすがの神崎さんも多少集中力が切れてきたみたいだ。頻繁に窓の方へ行って外の景色を見ている。
「神崎さん、落ち着かないね」
「うん、明日の夕方、輪講があってね。私それにはどうしても出なきゃいけないんだ」
「明日はバス動くらしいから、きっと大丈夫だよ」
「そうなんだけど、集中出来なくてね」
「じゃあさ、クーパーペアとギャップについて教えてよ。BCS理論勉強し始めたばっかりなんだけど、エナジーギャップがよくわかんないんだ」
「うん、わかった」
神崎さんは教科書も見ないで教えてくれた。高温超伝導体、重い電子系超伝導体でギャップの問題はよく取り上げられているから、とても助かった。
残念だけど神崎さんを独占できたのは夕方まで、そのあと神崎さんは翌日の輪講の準備を宮崎先生としていた。
翌日、やっと東京へ帰るバスに乗れた。
途中のサービスエリアでちょっと神崎さんと話すことができた。
「昨日はギャップ教えてくれてありがとう。でも、輪講の準備邪魔しちゃったんじゃない?」
「ううん、ちょうど集中できなくなっていたから、いい気分転換になった。おかげで夜の勉強は捗ったよ」
勉強の気分転換に他の勉強をする。僕もまねしたいと思う。
中央道は渋滞してバスの東京着は遅れに遅れ、新宿で神崎さんは大学に行くため走っていってしまった。僕はその背中を見送ることしか出来なかった。
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