第6話 上高地で

 一旦ホテルに荷物を置かしてもらい、近所の観光スポットを回ることにした。

 

 田代湿原。ホテルから大正池に向かう途中にある。林を抜けて歩くと突然広がる湿原だ。ふりかえると穂高が水たまりに映える。人は多いが、あまり気にならない。残念だが腰をおろして休むことができるほどの場所はないので、大正池へと移動する。

 

 大正池。西に見える焼岳の噴火による堰止湖とのこと。つまりあの焼岳は活動中の活火山ということだ。よく見ると、少しだが噴煙が見える。

「神崎さん、双眼鏡で見たら噴煙見えないかな?」

「え、そうかな?」

 神崎さんは首からかけた双眼鏡で焼岳を見る。

「ほんとだ、ありがとう。唐沢くん、眼がいいね!」

 湖畔は石がゴロゴロしていて広く、みんなで腰を下ろす。緒方さんがお菓子を出してみんなに配った。

 

 来た道を引き返して河童橋までもどり、橋を渡らず、ビジターセンターやキャンプ場も見てみる。ゆっくりしたいがあくまで若手の学校の下見なので、長居はしない。

 

 昼食はバスターミナル二階でとることにした。神崎さんが岩魚定食を食べたいと言うので、みんなそれにした。神崎さんは、

「あのさ、下見なんだからさ、みんな違うものを食べたほうがいいんじゃない?」

と言うが、緒方さんは、

「だってさ、聖女様が食べたら、下々はそれに従うしかないじゃない」

と訳のわからないことを言ってみんなで笑う。僕たちが下々かどうかはともかく、神崎さんにはみんなを惹きつける力があるのは間違いない。


 食後、時間調整に小梨平の川べりに行って休憩する。僕は神崎さんのとなりに座り、聞いてみた。

「上高地はどう?」

「いい、すごくいい」

「そう言ってもらえると、話をもちこんだ僕もほっとしたよ。あとはホテルだね」

「ホームページを見る限り、問題ないと思う」

「それにしても神崎さん、楽しそうだね」

 神崎さんの向こうに座った明が言ってきた。

「うん、楽しい。もう私、二十時間くらい勉強も計算もしてないけど、物理以外にこんなに楽しいことってあるのね」


 ホテルにもどり部屋に荷物を置いたら、秋の若手の学校のため、館内を案内してもらう。案内は僕の伯父にあたる隆さんだ。支配人をやっている。名字は僕と同じく唐沢だ。

「修二の伯父の唐沢隆です。ここで唐沢と言うと、穂高の吊尾根の向こうの涸沢と間違えられます

 山登りをする宮崎先生だけが大うけした。

 

「セミナー向けのホテルではないので、大宴会場、小宴会場、大食堂を利用してください。ご存知のように団体のキャンセルがあったので、大きい部屋は使ってもらえますから」

 隆さんがにこやかに話しながら、案内してくれる。僕にはあんなふうににこやかに初対面の人と話す自信はない。働くとは、そういうことなのかなとも思う。

 

 夕食後、時間割を作成する。時間割自体は例年のほぼ丸写しにして、セミナー向けでないホテルでの問題点を洗い出す。

「黒板もホワイトボードも無いね」

 緒方さんが言う。

「模造紙で代用できない?」

 神崎さんが言う。

「壁は貼ったらまずいんじゃない?」

 木下さんが尋ねる。

「テーブル立てたら?」

 緒方さんの返答に明が付け足した。

「ホテルがいいと言うかな? 修二、隆さんに聞いてみてよ」


 大体がこんな感じだった。女子の誰かが気の付いた問題点を言い、他の女子が解決策を出す。その策をあえて批判的に検討して、よりよい方法を探る。ひとつひとつ潰していくしか無い。


 議論の途中で女子がまとまってトイレに行ったところで、僕は言った。

「扶桑の人たち、すごいですね。どんどん解決してっちゃいますね」

 宮崎先生が答えた。

「あの子達中学から女子校だからね、男子にたよらず自分たちで解決する癖がついてるんだよ」

「女子校ってそんなものですか」

「うん、まあそうだね。あの子達は特別優秀だけど」

 明が割り込んだ。

「健太、結婚したら尻にひかれちゃうんじゃないの?」

「もうひかれてるよ」

「「ハハハハハ」」

「なに大笑いしてんの?」

 木下さんがちょっと険しい顔をしている。

 

 あの人達は自立した女性として社会で活躍していくのだろう。そんな木下さんのハートを射止めた健太はたいしたものだ。負けずに議論できる明にも感心してしまう。僕も神崎さんの隣に立てる人間に早く成長しなくてはならない。

 

 一つ思いついた。

「招待講演、プロジェクター持ち込まなきゃ無理じゃないかな?」

「手で持ち込むか、それとも事前に送るかな?」

 神崎さんがすぐに応じてくれたので、

「大きな荷物はバスとかで他のお客さんに迷惑かもね。隆さんに相談してみるよ」

と返すことができた。


 目処がついたところで、神崎さんが荷物から教科書、プリント、ノートなどを出してきた。

「宮崎先生、今度の輪講で、ここのところがわからないんですけど」

 取り出された教科書は、なんと素粒子論である。専門は物性理論だと聞いていた。

 眼を見張っていると緒方さんが小声で教えてくれた。

「聖女様ね、実験系の研究室に行きたかったんだけど、無理だったの。でね、大学辞めようとしてたんだけど先生たちが引き止めてくれてね、学部長の澤田先生が特別に輪講してくれてんの」

「それにしても素粒子論って」

「私もよくわかんないんだけど、澤田先生は必要だって言うのよ」

「ふーん」

「すごく厳しいんだ、毎回聖女様ボロボロになるまでしごかれてる」

「期待されてるんだ」

「そう、先生たちも、わたしたちも、期待してる」

「へぇ」

「唐沢くんも、期待していいのよ」

「どういう意味?」

「自分が一番良く知ってるんじゃない」

 

 答えられなかった。

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