第5話 上高地へ

 六月はじめの金曜日夜九時。僕たちは新宿のバスターミナルにいた。夜行バスで「実験物理 若手の学校」宿舎の下見に上高地へむかうのだ。ゴールデンウィークのあの日から二日がかかりで各方面へ折衝、若干の反対もあったが神崎さんの尽力で開催となった。僕たち男子は集合時刻よりかなり早く新宿に到着してしまった。

 いくら賑わっている西新宿といえど、昼間のように明るい訳では無い。無事に女子たちと合流できるか心配していたが、

「あ、いたいた、健太~!」

 木下さんが僕たちを見つけてくれた。

 

 メンバーは扶桑女子大から神崎杏さん、木下優花さん、緒方のぞみさん。さらに神崎さんの指導教官の宮崎准教授が引率だそうだ。僕たちは宮崎先生に挨拶する。みんなアウトドア向きの格好をしてはいるが、宮崎先生だけ妙に本格的なかっこうである。僕たち男子は僕に加えて明と健太なので、一行は七人である。

 

 バスの座席は当然のように木下さんと健太が並んで座り、神崎さんと緒方さん、ぼくと明がせっとになる。あぶれた宮崎先生は一人、他の乗客と相席だ。夜行バスは私語厳禁なので、出発して中央道に乗る頃、ぼくは寝てしまった。

 

 体が大きく揺さぶられて、目が覚めた。バスは右へ行ったり左へ行ったりしてる。もう山の中に入っているらしい。フロントガラスの外はもう明るいので、座席横のカーテンをめくると、白い大きな山が見えた。明はまだ大口を開けて寝ている。

 

 大きな湖のところで宮崎先生だけ降りた。歩いてほうぼう巡って、午後二時にホテルで合流するとのことだ。

 もう少しバスで移動すると、終点上高地のバスターミナルに着いた。朝早すぎるのか、まだ人は少ない。寒い。バスから降ろされた荷物を、開いている場所に移す。神崎さんが手にしている大きなリュックを、

「ぼく、運んでおくよ」

と言って手を出したら素直に渡してくれた。神崎さんは眼をあわせてニコッと笑う。心臓がドキッとして寒さを忘れた。すぐにA4のプリントをポケットを出して見ているが、今日の予定が書いてあるようだ。明も健太も女子の荷物を運んでいる。


「とりあえず、河童橋まで行こう。でもその前にトイレ行っとこう」

 神崎さんの指示でまず男子、続いて女子がトイレに行く。

 女子のトイレの帰りを待っていると明が言う。

「やっぱ女の子はトイレ長いな」

 健太が注意する。

「バカ、余計なこと言うな。あとが怖いぞ」

 ぼくはそんなものかと、黙って聞いておく。いろいろな鳥の声がする。

 

 ちょっと移動して河童橋の見えるベンチで身支度する。バスの中で出していたペットボトルとか菓子類をリュックに入れ、気温を考慮してウィンドブレーカーを着る。

「ちょっと売店行ってくる」

 神崎さんはそう言って、女子を連れて行った。

 明は、

「女子は買い物好きだよねぇ~」

とまたも余計なことを言い出す。

「それは事実だが、やめろ。平和のためにやめろ」

 またも健太が注意した。

 

 素晴らしい景色を前に馬鹿な話をしていると、女子がもどってきた。僕たちが大笑いをしているのを見て気に食わなかったのか、神崎さんが言う。

「あんたら、うかれてんじゃないよ。仕事で来てるんだよ」

 苦笑いしながら健太が言い返す。

「ぬいぐるみをだきしめてる人に言われてもな」

 神崎さんは買ったばかりの緑色のかっぱのぬいぐるみを抱きしめていた。かっぱの顔がこっちを向いていて、神崎さんの顔と並んでこっちを見ている。おやきが配られ早速食べた。お腹が暖かくなる。

 

「あ、サルだサル!」

「うぉー、サル!」

 木下さんと健太が騒いでいる。小猿が何匹か、木の上で追いかけっこをしている。木下さんと健太を見る神崎さんの眼はやさしい。この人は物理に向かって一直線だったり、ぬいぐるみが大好きだったり、友人の交際を気遣ったり、不思議な人だ。その横顔をいつまでも見ているわけにもいかず、穂高の山肌をみる。灰色の岩に白い残雪が張り付き、高山の厳しさが何キロもはなれたここまで伝わってくる。

 

 眼の前の素晴らしい景色、早くも紫外線が強くなる日差し、どこか暖かさを感じる風。神崎さんをはじめとした仲間たち。この空間と時間の共有はいつまでも続いてほしい。

 

 人の多くなり始めた河童橋を渡って、梓川沿いにホテルへ川下へ歩く。ときどき焼岳が見える。

 

 急に神崎さんが立ち止まり、リュックを降ろした。双眼鏡を取り出しなにか見ている。視線をたどると尻尾の長い黄色っぽい鳥が河原をひょこひょこ歩いている。

「キセキレイだ、キセキレイだ!」

 女子二名が呆れたように神崎さんを見ているが、僕としては納得するまで観察していてほしいと思う。僕も双眼鏡を持ってくればよかった。

 

 いや、ちがう。僕は今、神崎さんを見ていたい。

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