第29話 雑誌会準備
ゴールデンウィークが終わると日常が戻ってきた。僕にとっての日常は、大学に出て、実験をして、論文を読んで、現象の理由を考えて、講義に出て、勉強をしてと、物理漬けだ。それは僕に限った話ではなく、理系の院生ならば皆似たようなものだろう。そろそろアルバイトも探さなければとも思うが、けっこういっぱいいっぱいである。仕送りと奨学金で、贅沢を言わなければバイトなしでもなんとかなっている。去年親から渡された貯金通帳はまだ手を付けていない。
その日常にイベントが一つ付け加えられた。「雑誌会」というらしい。修士課程の院生が、論文誌から面白そうな論文を一つ見つけそれをみんなの前で発表するというものだ。イベントの目論見の一つは院生にしっかり論文を読ませること、もう一つは学会などに備えて発表の練習をさせるということだろう。連休中に色々論文を漁ったので、その中から選べそうだ。居室で論文のコピーの山をチェックしよう。
残念ながら卒論でやっていた鉄系超伝導体は、他の研究者による新しい実験結果はまだ雑誌に掲載されていないので取り上げるのは無理だ。理論もパッとしたものが見当たらなかった。連休中には神崎さんの愛する高温超伝導体の論文もチェックしたが、その中で圧力効果のものが目についた。ちょっと古いがいろいろなタイプの高温超伝導体での圧力効果が網羅されている。
もともと超伝導という現象は、100年以上前に液体ヘリウムを使った実験で見つかった。マイナス270度位だ。電気抵抗がなくなるから電流による発熱もなくエネルギーロスが無くなる。だから省エネルギーには有益な現象なのだが温度が低すぎる。その低温を維持するためにとてもコストがかかってしまう。液体ヘリウムはもちろん気体のヘリウムを液化したものだ。国内ではヘリウムは生産されないし、液化させるにもエネルギーが大量二必要だ。
超伝導になる温度が高いほど、超伝導が強いと言えるし使いやすい。だから超伝導に転移する温度が高い物質を探す研究は長い間続けられたが、大きなブレークスルーは1980年代に訪れた。超伝導転移温度が液体窒素温度を超えたのだ。窒素なら空気の8割が窒素だからいくらでもあるし、液化させるに必要なエネルギーもヘリウムに比べ圧倒的に少ない。
そんな高温超伝導体にはいくつか問題がある。
まず、超伝導発現機構がよくわかっていない。ふつうの超伝導の理論は1957年のBCS理論で理解される。電子が2⃣個ずつペア(考案者の名をとってクーパーペアと呼ばれる)をつくって超伝導電流を担う。ペアをつくる力は原子間の振動(格子振動)だ。しかし高温超伝導ではクーパーペアは成り立っているのだが、ペアをつくる力がよくわからない。
次に実用面だ。実用には高温超伝導体でできた電線を作ればいいわけだが、これが結構難しいらしい。
より高い温度で使える電線をつくるには、理論の裏付けがあったほうがいいのは間違いない。だから世界中のたくさんの研究者が未だに高温超電導にチャレンジし続けている。
僕が着目した論文は、簡単に言えば高温超伝導体に圧力をかけたら超伝導になる温度が高くなるのか低くなるのか調べたものだ。その結果は、ある物質は圧力をかけたら超伝導になる温度が高くなり、別の物質ではその逆だ。物質ごとに超伝導発現機構が違うのか、そうではないのかもよくわからない。僕としては、将来の実験でこのへんを明らかにしたいとも思ってしまう。
ある朝、僕はこの論文を榊原先生のところへ持っていった。
「先生、例の雑誌会ですが、僕はこの論文を紹介しようと思うのですが」
「うーん、これね」
榊原先生は、もちろん論文が発表されてすぐ読んでいるはずだ。
「唐沢くんは、どうしてこの論文を選んだの?」
「はい、圧力効果について統一的な解釈がないのはこの論文で明らかにされているわけですけど、僕としては今後の研究の出発点として一回きちんと頭に入れておいたほうがいいと思うんです。圧力効果は、酸化銅の面間の距離をコントロールしているとも考えられますから」
「そうだね、じゃあ、唐沢くんはどういう実験を考える?」
「まずは単結晶を用いた実験です。静水圧だけでなく、軸方向の加圧もできたらしたいです」
「うん」
「実験の困難性については把握している?」
「いえ、それも勉強したいです」
「わかった、いいんじゃない。まずはこの論文が参照しているもとの論文をしっかり読むことだね」
「はい、やってみます」
「量多いから、頑張れよ」
「ありがとうございます」
こうして雑誌会でとりあげる論文自体は決まった。
その日の午後、実験の調整のために網浜研に行った。ちょうど緒方さんがいたので、雑誌会の話になった。
「修二くん、雑誌会の論文決まった?」
「うん、緒方さんは?」
「まだ迷ってる。で、修二くんはどんなのにしたの?」
「高温超伝導体の圧力効果」
「ほう、下心丸出しだね」
「下心なんて無いよ。やだな」
「あはは、で、聖女様に話したの?」
「うん、これから」
「あ、じゃあさ、内容言わないほうがいいと思うよ」
「なんで?」
「だってさ、聖女様聞いちゃったら自分で読んじゃうよ。それじゃインパクト無いじゃん」
「読んでる時間あるかな?」
「聖女様だもん、修二くんの取り上げる論文だったら睡眠時間削ってでも読んじゃうよ」
そうかもな、と思った。
念の為聞いてみた。
「神崎さんに聞かれたらどうしよう?」
「うーん、そのときはしょうがないけど、多分自分の論文で頭が一杯で聞いてこないんじゃないかな?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます