第10話 輪講

 昨日とは別の定食を頼み、席に着く。食べ始めると昨日より美味しく感じられる。ついはしゃいでしまう。

「俺さ、面接でテストの出来を聞かれて焦ったよー」

「で、なんと答えたんだい?」

「いや、いまいちでしたね、って言ったら笑われたよ」

 神崎さんは会話に加わらず、こちらを見ていた。ちょっときまりが悪いので、知っていることを聞いてみた。

「神崎さん、すぐに東京に帰るの?」

「今夜は輪講だけど、明日明後日は観光するつもり」

「偶然だね、俺たちもだよ。明日どうするの」

「明日は小樽へいってみようと思ってる」

「いいなぁ、僕たちも行っていい?」

 神崎さんは気楽そうにOKしてくれた。

 

 のんきに学食で話を続けていたら、さきほど面接でみた先生が近づいてきた。

「神崎杏さんだね。赤澤です」

「澤田先生にはお世話になっています」

 神崎さんがあわてて挨拶する。

「今日、輪講でしょ? うちの研究室でやりなよ」

「そんなご迷惑はかけられません、遠慮させて……」

「澤田先生に頼まれているんだよ。ホテルよりもうちの回線のほうが安定しているよ。勉強もうちを使うといい」

 神崎さんは押し切られてしまった。 

 明が会話に割り込む。

「赤澤先生、ぼくたちもお邪魔しちゃだめですか」

 神崎さんは明を睨むが、赤澤教授は気さくだった。

「ああ、おいでよ、君は岩田くん、そちらは唐沢くんね、本当にテストできなかったの?」

 覚えていてくれて、ありがたく思う。

 

 神崎さんは道具をとりにホテルへ一旦戻り、僕たちはこのまま赤澤研へお邪魔することにした。

 

 赤澤研では、研究室メンバーがゼミ室でコーヒーを飲んでいた。

「「おじゃましまーす」」

 とりあえず明から自己紹介する。

「帝大から来ました岩田明です。宇宙論です。来年お世話になるかもしれません。よろしくおねがいします」

 赤澤研は素粒子論だが、宇宙論と近い部分もあるので明の言っていることもピント外れではない。

「同じく帝大から来ました、唐沢修二です。低温の実験をやってます」

「そうか唐沢くんは実験だったね。神崎さんの輪講の準備しなきゃいけないんだけど、実験の人がいると心強いな」

 赤澤先生はそう言うが、理論研は数値計算などコンピュータもよく使うので、多分冗談で言っているのだと思う。ただ、お客様で来ているわけではないので、しっかり手伝いはするつもりだ。

 

「早速だけど、やってもらおうかな」

 赤澤先生が言うと、赤澤研のメンバーはぱっと立ち上がり動き出した。プロジェクターをテーブル上に乗っけたりホワイトボードを動かしたりしながら赤澤先生が僕らに聞く。

「君たち帝大だけど、神崎さんとは知り合いなんだ」

「はい、合コンしたことあるんですよ」

「へぇ、いいなぁ」

 研究室の誰かが言う。

「どんな人なの?」

「聖女様はですねぇ……」

「おい、明、余計なこと言うな」

 

 実験で肉体労働には慣れているので、一生懸命働いた。一通りセットできて一息ついていたら、それなりに汗が出ていることに気づく。暑いのは暑いのだがさすが北海道、湿度が低い。

「汗かいても、北海道は爽やかですねぇ」

と言ったら、研究室のだれかは、

「僕らは充分暑いですよ。東京は大変でしょ?」

「そうですね、ははは」

などと言っていたら、神崎さんがやってきた。


「どうもご迷惑をおかけしまして……」

 挨拶を終えると神崎さんはそう言いながらテーブル上にパソコン、プリント類、ノートなどを出していく。赤澤先生は神崎さんに近づいて、

「今日のテキストはこれ?」

と言ってプリントの束を指した。

「はい」

「だれか人数分、コピー取ってきて」


 僕もコピーを一部受け取り目を通すと、とても難しい。専門外だからさっぱりわからない。このテキストの最初の部分から読まないとわかるはずがない。神崎さんはもう座って勉強を始めている。集中しているのに話しかけるのははばかられるが、上高地での経験から言って、勉強に関することなら気にしないだろう。

「神崎さん、このテキストの最初の部分って持ってない?」

「ちょっと待って」

 神崎さんはカバンの中から別のプリントの束を出して僕に渡してくれた。

「コピーとらしてもらっていい?」

「もちろん」

 赤澤先生が口をはさむ。

「それさ、うちの四年生の分もコピーとらしてほしいな」

 誰かがプリントを持って出ていった。

「唐沢くん物性実験でしょう。専門外だからたいへんでしょ」

「神崎さんだって専門外でしょ。でも意味があると思ってるからやってるんでしょ」

 僕が神崎さんに言い返すと、神崎さんはにっこり笑った。

「どこで役に立つかわからない。でも絶対に自分のためになる」


 途中夕食をはさんで、輪講の時間まで勉強した。

 

 時間になった。ビデオ会議をたちあげるとプロジェクターの画像は黒板が映った。恰幅のよい女性が手を振っている。

「澤田でーす。赤澤せんせ、面倒かけてすみませんな」

「いやいや、先生のゼミ、久しぶりです。楽しみです」

「ああ、よろしゅうたのんます」


 そして輪講が始まった。

 

 扶桑の先生がつぎつぎと割り当ての部分を解説していく。ときどき、扶桑の学生らしい声で質問が飛ぶ。ときには神崎さんも質問する。ぼくはよくわからないが、気になった部分があった。

「あ、すみません、ちょっと今の式の意味、ぼくの直感とあわないんですが」

「あ、ごめん、僕の勘違いかな?」

 扶桑の先生が黒板に書かれた式をチェックしているのがプロジェクターに映る。

 神崎さんも発言する。

「伊達先生、第3項が気になるんですが」

「ああ、これか」

 伊達先生は式を直した。

「ところで、今のどなた?」

「はい、帝大の唐沢といいます。神崎さんと一緒に札幌に受験に来ました」

「もしかしてゴールデンウィークにお会いした?」

「は、はい。覚えていただいていて光栄です」

「いやぁ、よく勉強しているね」

 褒められて嬉しいが、恥ずかしくもある。視線を感じると神崎さんが僕を見ていた。

 

 神崎さんの番になった。ホワイトボードの前に立ち、式をガンガン書き込みながら説明していく。つぎつぎと式を書くものだから、ペンのインクがすぐに乾いてしまう。不愉快そうにペンを取り替えながら説明していく。

 でもそれは、流れるようにではなかった。

 つまづき、とまどい、必死に式と戦っている。ちょっとでも説明が甘いと扶桑の先生が突っ込んでくる。立ち往生してしまうことも一度や二度ではなかった。神崎さんは、ホワイトボードの式を見回したり、計算し直したり、テキストの前の方を振り返ったりして、肩で息をしている。腕をくんだり、髪をかきむしったりして考えに考えている。

 神崎さん自身で突破できることもあったが、ほとんどは扶桑の先生か赤澤先生がヒントを出したり、解いてくれたりした。


 輪講が終わったとき、神崎さんは汗ばんでいた。赤澤先生が神崎さんに話しかけた。

「いやあ、充実したゼミだったね」

 赤澤教授がそういう。

「聖女様、いつもこんなにやってるんだ」

 明がまたも余計なことを言う。

 赤澤先生が言葉を継ぐ。

「よく扶桑の先生が、札幌の受験許してくれたね」

「いえ、扶桑の先生方が、外に出ろって言ってくれたんです」

「聖女様、期待されているんだね」

「赤澤先生もそうおっしゃるんですか?」


 そのまま飲み会になり、神崎さんはまたも飲みすぎたようだ。よれよれになってしまったので、僕と明でホテルに送ることになった。明が荷物を持ち、僕が神崎さんの体を支える。女性の体は柔らかく、緊張する。

 正門を出たところで運良くタクシーを捕まえることができた。

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