第25話 研究室
いよいよ札幌国立大学での生活が今日から始まる。食パン一枚の朝食を摂り家を出る。
青空が広がっていてホッとすると同時に、冬としか思えない空気に咳き込みそうになる。
小さめのオフィスビルが多い街並みを抜けて、大学構内に入ると雰囲気が一変する。建物と建物の間が大きく、樹木が多い。学問の府のもつ雰囲気は東京と変わらない。知っている顔を探すが、残念ながら全く見当たらない。
理学部棟に入り階段を上がって榊原研に向かう。
ノックして研究室に入ると、榊原先生はわざわざ席を立って出迎えてくれた。
「唐沢修二です。よろしくお願いします」
「あー待ってたよ。みんなが揃ったら、早速紹介しよう」
榊原先生はそう言って、僕を居室へと案内してくれた。柏の研究室より少し古い感じがするが、こちらのほうがやや広い。また清潔かつ整然と整理された室内は、効率よく実験を進めようとする先生の意識の現れなのだろうか。
「唐沢くんの席ここね」
一台のデスクを与えられる。窓際なのでキャンパス内の景色がよく見える。
「柏もさ、いいとこだけどね、やっぱりわざわざ東京から来た人には北海道の景色を満喫してほしくてね。だから窓際にした」
「ありがとうございます。先生はもともとは大阪でしたっけ」
「そう、大阪で学位をとったあとは六本木で実験していたよ。そう言う意味では君の先輩になるかな」
今柏キャンパス内にある帝大の物性関係の研究所は、以前六本木にあったことは知っている。確か加速器を用いたX線源を世界で初めて開発した実績ある研究所だ。なんでも近所に安い食堂がなく、当時の院生は食費で苦労したそうだ。
「遅くまで実験して研究所をでるとさ、お酒を飲んで遊んでいる人だらけで、同じ日本人とは思えなかったよ」
榊原先生はそう言って笑った。
そんな雑談をしているうちに研究室のメンバーがみな登校し、ゼミ室に集まって紹介してもらう事になった。研究室のメンバーは、榊原正俊教授を筆頭に
D2 吉岡穂高 (博士後期課程2年)
M2 織田聡太 (修士課程2年}
M2 河合俊太
M1 唐沢修二 (僕)
M1 吉川翔馬
M1 木村啓介
B4 松平貴大 (4年生)
B4 飛田洋
B4 加藤哲夫
である。榊原先生は強相関系(電子間の力が強い)の中性子散乱実験を主戦場としているが、前任者時代に低温実験を得意としていたので、札幌での実験はそちらが中心になる。
「じゃ唐沢くん、ほかの研究室と連携してやることも多いから、他の研究室にも挨拶してくると言いよ。木村くん、案内してくれるかな?」
「わかりました」
木村くんは気さくに笑うので、頭をさげて感謝を伝える。木村くんは道内の北見の出身だそうだ。お互いの身元の話をしているうち親しみが湧き、札幌でもやっていける気がした。
初めに階段を降りて、榊原研の実験室を見せてもらう。クライオスタット(冷凍機)がたくさんあり、液体窒素や液体ヘリウムの大きなタンクも多い。実験室の中でひときわ大きい機械の前に連れて行かれる。
「唐沢くん、これが希釈冷凍機。うちの機材で言えば横綱だね」
「これかぁ、でかいね」
希釈冷凍機とは、ふつうのヘリウム(ヘリウムフォーと言う)と同位体のいわゆるヘリウムスリーをまぜて、温度を下げるものだ。物性の実験ではもっとも温度が下がるものだ。
「たしか唐沢くん、鉄系の超伝導体とか調べてたよね。重い電子系の超電導とかやればこっちもやるかもね」
僕の研究分野まで知っているとは、木村くんはよく勉強しているらしい。
一通り実験系の研究室と物理事務室を巡ったら、続いて理論研を回る。
池田研は、神崎さんの所属する研究室だ。挨拶する。
「あー唐沢くんね、実験と理論で連携することも多いから、よろしくね」
池田先生は気さくだ。ここなら神崎さんも思う存分研究できるだろう。
榊原研にもどると、神崎さんが榊原先生と話し込んでいた。話し声からするに、超伝導体の実験の話をしているらしい。
「やあ、神崎さん」
「こんにちは」
榊原先生は驚いたようだ。
「何だ君ら、知り合いか?」
神崎さんのとなりの院生?が、説明する。
「なんでも、神埼さん、唐沢くん、緒方さんは『実験物理 若手の学校』で実行委員だったそうですよ」
僕は実行委員というわけではなかったが、訂正する間もなく、
「ほう、理論の人が関心だね」
と榊原先生が言う。神崎さんは、
「私、本当は実験希望だったんです。でも実験が致命的に苦手で……」
「そうか、じゃあ、こんどうちに覗きに来るといいよ」
そう安請け合いする榊原先生に、神崎さんは花が咲いたかのように明るい顔になった。
まずい。僕は緒方さんとか木下さんからさんざん聖女効果について聞かされてきた。実際に身た訳では無いが、緒方さんや木下さんは神崎さんが大事にしている友人だ。第一神崎さん自身がその話を否定しない。
神崎さんの実験したいという希望は大事にしたい。
でも本当に聖女効果があるのだとしたら、神崎さんの心の傷はまた大きくなるだろう。
僕のその思考は榊原先生にわかってしまったようだ。
「あれ、唐沢くん、どうしたの?」
「いや、べつに、何でもないです」
神崎さんの表情が一気に暗くなるのが見て取れる。
神崎さんは暗い顔のまま言い出した。
「榊原先生、本当は私、実験が下手なんていうもんじゃなくて、すべての実験に失敗してしまうんです」
神崎さんは泣きそうである。
「なので私、実験に近づかないほうがいいみたいなんです」
「そんなことあるの、パウリじゃあるまいし」
ああ、ついにこの話になってしまった。もう僕には神崎さんの表情を見る勇気がない。
「あ、あの、詳しくは網浜研の緒方のぞみに聞いて下さい。し、失礼します」
神崎さんの走り去る足音が小さくなっていく。
「あの、どういうこと。俺、なんかまずいこと言った?」
池田先生が僕に聞いてきた。
「いえ、事故みたいなもんだと思います」
そう、避けられない事故だ。だれも悪くない。
「そうなの? 唐沢くん、なにか知ってる?」
「僕の口からは言えません」
気まずい沈黙が訪れた。
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