第79話 非線形偏微分方程式
新たに測定した比熱のグラフを持って、僕は池田研に行った。杏の居室に行くとめずらしく彼女はいなかった。机の上にはいつものように論文やら教科書やらが並んでいたが、いつもには無いものが一つあった。紙でできたクリスマスツリーである。クリスマスカードなのかもしれない。
「あ、修二くんごめん、トイレ行ってた」
「これ新しい比熱のデータ」
「うん、生のデータも欲しい」
「メールしとく」
「で、これ、いいでしょ」
それは僕がさっき注目してたクリスマスツリーだった。
「両親とか、優花とかにクリスマスカード送ろうと思ってたんだけど、これ気に入ったのでひとつ自分用にしたんだ」
「そう、僕用は?」
「あ」
ちょっとして杏は言い訳を始めた。
「修二くんは一緒にいるから、カード送るって発想が最初からなくて……」
「ま、そうだね」
「そうだ、修二くん、部屋、クリスマスの飾りとかしてる?」
「いや、全然」
「だめだよ、今度買いに行こう」
「土曜の午後とか?」
「うん!」
土曜の午前はいつものように研究室に出ていたが、今日は実験は無い。めずらしく時間がとれたので、東海村でやった実験の論文の原稿を書きすすめてみる。ここ何日か手を付けられず、気になっていたのだ。僕としては、試料の方向と中性子線の散乱方向の関係から、高温超電導の秘密をひとつ明らかにできないかと期待している。それをどう論文の導入部に活かすか考えあぐねていた。
「修二くん、やっほー」
最近は杏もやっほー化してきている。
「お買い物行こ!」
「杏、どこ行きたい?」
「歩いて駅? 車でショッピングモール?」
「何を買うかによるんじゃない」
「私、ツリー欲しい」
「じゃ、車でショッピングモールじゃない?」
「わかった、まずうち行こ!」
雪の中、二人で歩く。まだ大した量は積もっていない。草生側を渡る橋の上は風が強く寒い。
「杏は毎日、川渡ってるんだね」
「うん、冬になって結構寒いよ、橋の上」
そして東区に入ると、降雪量が増えてきた気がする。
「雪強くなったね」
と話しかけると、
「どうもね、大学の近くより東区の方が雪たくさん降るみたい」
「毎日たいへんだね」
「うん、そうだ、修二くんが東海村行ったら、私修二くんの部屋住めばいいか」
「車おけないよ」
「そうだった」
気楽な話をしていると、意外にすぐに着いた。杏の黄色い車は雪に覆われている。
「荷物置いてきなよ。僕雪降ろしとくよ」
「おねがい、ありがと」
杏が車の鍵をあけてくれたので、中からブラシとスコップを取り出し、車の上の雪をおろし、車の前の雪もどける。彼女はすぐに戻ってきた。
二人とも体を動かしていたので車内は寒くなかったが、人の出す水蒸気のせいで窓という窓があっという間に白くなる。
「エンジンかけとけばよかったね」
杏はそう言って笑った。
ショッピングモール内は暖房が効いていて、上着無しで歩ける。
「まずはツリー見る?」
と聞いてみると、
「お昼まだじゃん」
ということで、レストランのある階へ行く。モール内はクリスマス一色だ。
「修二くん、何食べたい?」
「うーん、杏の食べたいものでいいよ」
「えー、絞り込めないからきいてるのに、ずる~い」
「じゃあ、三択にしよう。豚丼、オムライス、ビストロ」
「食べごたえなら豚丼、おしゃれならビストロ、中間のオムライスか~」
杏は散々迷った挙げ句、中間をとってオムライスのお店にした。
食事後、今回の目的であるクリスマスツリーを見に行く。手をつないでいたのだが、ツリー売り場が見えてきた瞬間、杏に手を引っ張られた。
「修二くん、早く行こ!」
僕に嫌はない。
ある程度のオーナメント類がセットになっているものもあれば、ヌードツリーもある。すべて飾り付けができあがっていて透明なケースに入っているものもある。杏はあれがいいとかこれがいいとか言ってなかなかきめられなかった。
「やっぱりヌードツリーに好きなオーナメント飾ったほうがいいか」
杏はそう言って、今度はLEDライトを物色し始めた。
「そう言えば、青色LEDってノーベル賞とったのよね」
「そうだよ、名古屋と徳島だったよね」
「あれ、なんでとれたの?」
「工業的に青色LEDを作るのが難しいってのもあるけど、青ができたことによってLEDで白色光がつくれるようになって、省電力で照明が可能になったのが大きいって話だよ」
「省エネルギーってことでは、高温超電導も共通するわね」
「そうだけど、僕、LEDの理屈、ちゃんと勉強してないんだよね、今度教えてよ」
「バンド理論からだね」
しばらくLEDライトを物色していると、ツリー自体に光ファイバーを仕込んだものが目についた。
「これ、きれいだよね」
杏に示すと、
「うん、これもきれい」
と気に入ってくれた。
「そう言えば杏、光ファイバー中の光ってさ、非線形波動だって話聞いたことある?」
「修二くん、どういうこと?」
「普通の波動は、線形の微分方程式の解でしょ。だけどそれだと減衰が意外と大きいんだよ。でも実際の光ファイバーではもっと減衰が小さくて、それは非線形効果って話らしいよ」
「ソリトンと関係ある?」
「それそれ」
「私、それほとんど勉強してない。やばい、調べたい。でもデートも続けたい。どうしよ修二くん?」
「いっしょに勉強できればいいんだけど、もう土曜の午後だしな」
「うーん、困った!」
「明日大学で勉強する?」
「うん、そうする」
翌週いつものメンバーで昼食をとっているときだ。緒方さんが聞いてきた。
「聖女様、結局ツリーどんなの買ったの?」
「ヌードツリーなんだけどね、光ファイバーが入って光るのよ。光ファイバー中を伝搬する光が非線型偏微分方程式を満たすって考えると、とってもロマンチックでね……」
カサドンが長い長いため息を吐いた。恩田さんは顔をしかめて目をつぶっている。明は目をキラキラさせているが、緒方さんは質問先を僕に変えてきた。
「修二くん、こんなんでいいの? 多分聖女様一生このままだよ。考え直すなら今のうちだよ」
「いや、ま、想定内というか。予定通りというか……」
「ま、そうだよね……」
緒方さんもまた、ため息をついた。日曜日のことは黙っておく。
明も言い出す。
「親衛隊のSNSの次の話題はクリスマスツリーと非線形波動だな」
僕としてはやめてほしいので、
「明、頼むからやめてくれ」
というしかない。
しばらくして杏が言った。
「ね、私なんかディスられてない?」
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