第82話 発熱
正月二日・三日は早朝から大学に出て、残りの実験を急いでいた。サンプルを交換すれば測定自体は自動なので、年末同様杏と二人でゼミ室を占領し、呑気にネットで駅伝を見ながら勉強した。
「私女子大だから、こういう体育系のもりあがりってなかったのよね」
「うちも体育会は弱いからなぁ。正直こういうのがある大学はうらやましいよね」
会話しながらやっていたのは、非線形偏微分方程式のソリトン解が実空間で実現できそうな物質を探す作業だった。自力でしっかり計算するのではなく、論文を片っ端からチェックしてそういう素地のありそうな物質をさがす作業だから会話しながらでも大丈夫だ。むしろ気になる物質を見つけるたびにお互いに情報を共有するので、会話は必須だった。こういうときキーワードで論文を検索できるのはとてもありがたい。昔だったら書庫にこもって、論文誌の目次を必死に読む羽目になっただろう。昔の人は大変だったんだろうなと、改めて思う。それを口にすると杏は、
「そうよね、私数値計算も手掛けてるけど、コンピュータなしじゃできないしね」
「そういえばうちの大学、天文学やってるでしょう。そこの奴に聞いたことあるんだけど、演習で日食の予測計算を手回し計算機でやっていたら、計算が終わったときには日食が終わっていたって伝説があるらしいよ」
「ははは、大変だね」
「どっちにせよ昔の人の計算力ってすごいと思う。特に十九世紀とか」
「解析力学とか古典だけど、すごいよね。私、時間があったらしっかり勉強したいんだ」
「そうなんだ、なんで?」
「対象性と保存量の問題ってあるじゃん」
「ネーターの定理とか?」
「うん、古典論の中に現代の問題のヒントってあるかもしれない」
「それはそうだろうけど、勉強する量がどれだけ必要なんだろうね」
しばらくそんな話をしていたら、杏が急に笑い出した。
「私達正月早々、なんの話をしてるんだろうね?」
正月が明けると日常がもどってくるわけだが、四日の朝、僕の体は重かった。年末年始は測定のほかは好き勝手に勉強していたので、次の東海村出張へ準備を始めなければならない。もともと今回の東海村での実験は、僕は行かない予定だったのだ。しかし春から東海村へ移動することが決まったので、部屋探しを兼ねて出張することになった。サンプルは僕があまりタッチしていない榊原先生の重い電子系の物質である。
雪の中大学へ行く。道はまだ薄暗く、いつもより遠く感じる。
居室に荷物を置くと、すぐに実験室へ向かい、磁化測定装置からサンプルを外し、データをコピーする。まだ朝早いのでだれも出勤してこないので、ゼミ室でコーヒーを淹れのんびりしていると、意識がとんだ。
「唐沢くん、こんなとこで寝てると風邪引くぞ」
榊原先生だった。
「あ、すみません。あ、あけましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう。今年もよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
「僕もコーヒー飲もうかな」
榊原先生はインスタントコーヒーを淹れ、テーブルの向かいに座った。
「で、唐沢くん、年末年始はどうだった」
「はい、測定は予定通りこなせました。だいたい予想通りの結果です」
「そんなこときいてるんじゃないよ。東京というか川崎、行ったんだろう」
「はい、元旦だけ日帰りで」
「なにぃ、それ、先方に失礼じゃないか?」
「でも、実験がいっぱいいっぱいで」
「どうせ聖女様といちゃいちゃしてたんだろう、ここで」
「そんなことないですよ。二人でいろいろ研究してました」
「何の研究してたんだか」
ここで僕は口をつぐんだ。調べていた内容は、まだ先生に見せられる段階ではない。もっとしっかりと調べ、大雑把でもいいから実験の計画をつくってからでないと。
「あ、唐沢くん、責めてるんじゃないよ。実質的に休みとってないんだから。みたところ疲れてるようだし」
「すみません、ご心配おかけして」
「真面目な話をするとさ、今のうちにしっかり二人の時間をすごしなよ」
「ありがとうございます」
居室にもどり、最新のデータ処理をし、年末年始で集めたデータを一つのグラフにまとめ、プリントアウトを榊原先生に持って行く。ちょっと咳がでる。データをまとめたものを榊原先生、サンプルを作ってくれた網浜先生、緒方さん、理論面から支援してくれている池田先生、杏と共有できるようにしておく。それを連絡したら、すぐに緒方さんからSNSで連絡が来る。
「正月どうだった?」
返事の文面を考えるのがめんどくさく、振り袖姿の杏とのツーショット写真を送っておく。
ちょっとして今度は明が写真を送れと言ってくるが、これまためんどくさく断る。
そんなことしていたら、居室に杏が現れ、
「修二くん、私の話題で遊ばないでね」
と笑顔で文句を言った。
今日は実験は無く、デスクワークだけである。そうは言っても一人で研究しているわけではないから打ち合わせもある。東海村へ持っていくサンプルの件で聞きたいことがあり、僕は網浜研に行った。
「緒方さん、東海村のサンプルなんだけど……」
「あ、修二くん、なんか顔赤くない?」
「そう?」
「っていうか、調子悪そう」
そう言われてみると、急に具合が悪くなってきた気がする。
「修二くん、ここ座って」
緒方さんは自席から立って、代わりに僕を座らせた。
手を握られた。
「体温高いと思う。ちょっと待ってて」
ぼーっとしてたら、どこからか緒方さんは体温計を僕に渡し、部屋から走って出ていった。
ピピピと音がして体温計を見ると39度を超えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます