第31話 教科書
雑誌会と輪講の方向性が決まり、実験と勉強に注力する日々になった。土曜は短めでも大学に出て作業、日曜も勉強時間を増やした。多かれ少なかれ、他のM1たちも同様だろう。つまり遊びに行く時間もままならないということだ。
そんな日曜日に家で勉強していると、明が遊びに来た。
部屋に迎え入れると明は、
「おーやってるなぁ」
と言いながら、買ってきたのだろう、お菓子とジュースをちゃぶ台の上に並べた。
「おう、いつも悪いな」
「ま、お互い様ってことで」
といつもの会話である。
「どれどれ?」
と言って、明は僕の読んでいた論文を取り上げた。
しばらく読んで明が言う。
「高温超伝導の圧力効果か、聖女様も好きそうだな」
「だろうな」
「そう言えば聖女様、池田先生にすげぇ怒られたんだって」
初耳である。
「なにそれ、神崎さんがそんなことするわけないだろう」
「いやさ、怒られた原因がさ、聖女様らしいんだよ」
「どういうことだ?」
「勉強しすぎ」
「はぁ?」
「夜遅くまでやっていると、女子は危ないって」
「なるほど」
「だから早く大学に出て、夕食とったらとっとと帰宅するんだってさ」
「確かに神崎さんらしいな」
「まきぞえでのぞみんと真美ちゃんも、早出早帰りだってさ」
「確かに女の子は夜はやばいだろうな」
「お前、聖女様エスコートしろよ、おれはのぞみん」
「何言ってんだよ」
本心はそうしたいところであるが、向こうから頼まれなければただのストーカーだ。
僕も明の選んだ論文について聞いてみた。
「明、おまえどんな論文選んだんだ?」
「おう、これだ」
ようやくここで僕は明が一緒に勉強するためにやってきたと理解できた。
明の見せてくれた論文だがこれがさっぱりわからない。僕の専門は物性実験、明は宇宙論もちろん理論だ。物理の専門でも対極に近い。そうは言ってもなにもわからないのは悔しいのでしばらく論文とにらめっこしたが、やっぱり無理だ。
「うん、さっぱりわからん」
「ははは、俺もあんまりわかんないよ。だから勉強しろってことだな」
明はあっけらかんとしていた。
その午後は二人でしっかり勉強したが、夜は二人で飲んだ。
翌月曜日の午前中は、勉強にあてることにする。気持ちのよい初夏の札幌の街を自転車で走る。昨日明と勉強してわかったのは、やっぱり僕は理論の勉強が遅れているということだ。昨日明が僕の選んだ論文を読んでいくつか質問してきたが、すべて実験のテクニック面についてだった。つまり理屈については明は理解できていることになる。逆に僕の場合、宇宙論では観測の問題も理論についてもさっぱりわからない。飲みながら僕が明に、
「おまえ専門外なのに、よくわかるな」
と聞いたら、
「物理は物理だからな。方法論は似たようなもんだよ」
だそうだ。
「つまりは場の理論だな」
そう決めつけられた。
場の理論という言葉は知っていた。正確には場の量子論という。ものすごく雑に言えば、粒子間に働く力を、力自体を粒子として扱う。ごく限定的な現象であればすでに学んでいたが、一般的にはまだ勉強していない。僕は明に聞いてみた。
「おまえどんな教科書使って勉強したんだ?」
「俺か、おれはな……」
と言ってカバンから取り出したのは英語で書かれたものだった。
「それいい本だけど、相対論前提だから、物性のおまえには向かないと思うぞ」
「そ、そうか」
明は今度はスマホを取り出して、ちょっと検索している。
「これなんかどうだ」
「あ、これ、神崎さんが持ってたような気がする」
「そうか、買うと高いから、一回聖女様に見せてもらえば?」
「そうしよう」
そのあとしばらく明は黙ってスマホをいじっていた。
大学につき居室に入ると、僕の机の上にその教科書が置いてあった。魔法をかけられたような気がして手に取ると、本の下にメモ書きが置いてあった。
「もう一通り読んでいるから、しばらく持っててください。神埼」
明が神崎さんに頼んでくれたのだろう。とりあえず礼を言いに神崎さんの居室に向かう。
とにかく明はいいやつだ。
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