第32話 雑誌会1日目

 雑誌会の日が来た。明と一緒に勉強した日、明の専門外にも貪欲な姿勢に感動したからすべての分野の発表を聞くことにしていた。そのために昨日までにすべての実験はなんとかしてあった。雑誌会の自分の発表の準備よりも、実験の決着をちゃんとつけておくほうがよっぽど大変だった。

 全分野の発表を聞く理由には、もちろん神崎さんもそうするだろうから一緒にいたいという下心があることは否定できない。

 

 会場に行ってみると、明はなぜだか後ろの方に座っていた。明は授業でもほぼ前の方に座るのが普通だったから、ちょっと意外だった。神崎さんもいた。彼女は前の方に座っているので手を振って隣に座らせてもらった。

「やあ、おはよう」

 挨拶すると、

「おはよう。修二くんは素粒子とかも聴くんだ」

と訊かれた。

「ひごろ専門のことしかやってないから、専門外にふれるチャンスだと思ってね。勉強時間もなかなかとれないし」

「そうなんだ、私も同じ」

「神崎さんは、やっぱり勉強熱心だね」

 神崎さんはとてもニコニコしている。自分の発表もありそれなりに緊張するのでは無いかとも思うが、それよりも新しい物理に出会えることに興奮しているのだろう。

 

  やがて最初の院生による発表が始まった。素粒子論だから僕にとっては難しい話でよくわからない。発表が終わり、素粒子が専門らしい先生が質問した。二人目も僕にはよくわからない発表だったし、質問したのも先生だけだった。

  どうも札幌の院生はおとなしいみたいだ。

  三人目は原子核の話だったが、途中の計算を示すダイアグラムでよくわからないところがあった。ちょうどこの間神崎さんに借りた教科書で勉強していたところに内容が近い。

 質疑応答に入ったところで手を挙げた。

「あー、質問が二人ね。どうしようか」

 司会の先生がそう言うので見回すと、神崎さんと目があった。僕よりも神崎さんのほうが理解が深いだろうから身振りで神崎さんに質問を譲った。

 「勉強不足で申し訳ないんですが、式12から図3のダイアグラムになるところがよくわからないのですが……」

「えーと、この式を摂動展開して……」

 僕もその場所が不審だった。神崎さんの質問に発表者は黒板に式を書きながら説明する。しかしどうも納得ができないので、再び手を挙げて発言した。

「その第三項とダイヤグラムがちょっとちがうような気がするのですが」

と発言した。すると発表者の指導教官が、

「うん、これ田中くんの展開、まちがっているよ」

と言って解説を始めた。

 一つ質問をして僕も緊張が解け、ほか発表でも気楽に質問することができた。神崎さんを始め他の院生や四年生も質問・発言をするようになり、活発な会となった。

 

 昼休みになった。神崎さんが僕の方を向いてニッコリと笑う。一緒に昼食に行こうという合図だと解釈する。教室後ろには緒方さんと恩田さんが並んで座っていて、手を振っている。近づくと恩田さんには、

「いやあお二人さん、仲がいいね」

緒方さんにも、

「同時に質問とかだもんねぇ」

とひやかされた。

「「偶然だよ偶然」」

と言い訳したのだが、神崎さんと全く同じになってしまった。


 昼食はもちろんいつもの学食、中央食堂だ。なんとなく授業でもよく一緒になるM1たちと一緒に学食まで歩く。神崎さんは歩きながら、

「午後は私も発表だー。緊張するー」

と言うので、

「神崎さんなら心配いらないよ」

と言ってあげると、

「そ、そう? じゃ、ハンバーグカレーにしよう!」

と言った。何故ハンバーグカレーになるかはよくわからない。でも、なんとなく僕もハンバーグカレーにした。


 午後の発表の二番目が神崎さんだった。午後は物性となったので、出席者がぐっと増えた。僕のとなりの席を立って教室前方に向かう神崎さんの背中に「ガンバレ」と心のなかで声をかける。

「池田研の神崎です。よろしくお願いします」

 一呼吸置いて、神崎さんは発表をスタートした。

「いわゆるBCS理論は等方的な対称性を仮定しs波超伝導が実現しますが、重い電子系や高温超伝導では実験的に……」

 神崎さんは流れるように要所要所を説明していく。

「今回紹介する物質はこの表になります。残念ながら高温超伝導体は含まれておりませんが」

 この発言を聞いて僕は「相変わらず神崎さんは高温超伝導好きだな」と思い、笑ってしまいそうになる。

 質疑応答は榊原先生が口火を切った。

「常伝導状態での帯磁率ですが、どういった実験が考えられますか?」

「はい、常識的には単結晶を使って、印加磁場に対する応答の角度依存・温度依存を測定するんだと思うんですが」

 神崎さんの淀み無い返答に、榊原先生は満足げだ。

「そうですね、その通りです」

 ただ、この実験は相当時間がかかる。たしかに榊原研の装置で測定はできるが、磁場を変え、サンプルをセットする角度を変え、そのたびに温度変化をスキャンするのは相当の手間である。そんなことを考えていたら、神崎さんが逆に榊原先生に質問した。

「MPMSで、一回のスキャンにどれくらいの時間がかかりますか?」

「うーん、室温から液体ヘリウム温度までで六時間くらいかな」

「そうすると、すべての条件を網羅すると、一週間くらいでしょうか」

「そうだね、マシンタイムの確保が問題だな」

 もともと実験志望だった神崎さんらしく、的確に問題点を把握しているようだ。

「先生、サンプルですが、ウランテルル系はお持ちでしょうか?」

「大洗から借りることになると思う」

「あとは、偏極中性子かとも思うんですが」

「MPMSよりもっとマシンタイムが確保しづらいね」

「あと、このビスマス系ですが、網浜先生、作成はお願いできるでしょうか?」

「えぇ〜俺ぇ〜? っていうか、教官側が攻められてな〜い?」


 普通この手のイベントでは、教官からの質問攻めに院生がタジタジになるのだろう。柏でもそうだった。でも神崎さんは反対だ。

 その動機は、神崎さんのより深く物理を知りたいという欲求に違いない。より深く知りたいから、理論の論文を読んでもすぐに実験に結びつけて考えているのだろう。

 

 一日目の発表が終わったところで、僕は居室に帰って明日の自分の発表の準備をすることにした。神崎さんは緒方さんたちに声をかけられていた。女子会なのだろう。

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