第37話 M1輪講

 週明け研究室に顔を出すと、廊下でアラン教授に出くわした。

「オハヨウゴザイマス」

と日本語で挨拶された。ごきげんであるが、廊下を歩み去っていった。そのまま午前中は榊原研に戻らず、午後も大半いなかった。榊原先生によると、池田研に入り浸っているらしい。神崎さんに車の話を振って、物理の話で返されているらしい。


 夕方、榊原先生はアラン教授を連れて研究室に戻ってきた。

「神崎さんを救出してきた」

とアラン教授のわからない日本語で説明した。アラン教授は、

「カラサワサン、あなたのガールフレンドはよく勉強してますね」

「はい?」

「カンザキサンですよ。理論なのに、実験よく知ってますね」

「そうでしょうね」

「ニュートロンで実験してみたいですね」

 ニュートロンとは中性子の英語だ。

「何の実験の話をしていたんですか?」

「重い電子系で局所的対称性の破れを観測したいようですよ」

「ああ、なるほど」

 雑誌会でとりあげていた論文のことだろう。

「カラサワサンだったら、どうしますか」

「うーん、マクロな測定では難しでしょうから、ニュートロンとか、ミクロな方法に頼るでしょうね」

 マクロな測定とは、僕らが日ごろやっている比熱とか帯磁率とかだ。小規模な実験ですむが、有益な情報は得られにくいだろう。僕は言葉を継いだ。

「ですが、問題は信号の強度でしょうね。信号が弱いと、ノイズから情報を得るまでにマシンタイムが終わってしまうでしょう。計算してみないとわかりませんが」

「そうですね、その他なにかありますか?」

「ミューオンですかね」

 ミューオンは電子に似た粒子で、中性子散乱実験施設に隣接する施設で実験できる。ただ、偏極中性子もそうだが、まだまだ発展途上にある実験手段である。

「ミューオンですか」

 そう言ってアラン教授は考え込み始めた。

 

 物質内部の状態をミューオンで測定する技術は、日本が世界の中で進んでいる。ヨーロッパではイギリスやスイスで実験されている。ただしイギリスの施設は日英協力でなされたものだから、半分は日本のものだ。

 アラン教授は、自身の本拠地のヨーロッパでやるのがよいか考えているのかもしれない。または、そもそもこの研究がミューオンに向いているのか検討しているのかもしれない。

 しばらくして、

「ちょっと難しいですねぇ」

と言って、部屋を出ていってしまった。


 ミューオンをとりあげたのは単なる思いつきでしかなかったが、アラン教授が考え込んでいたところからすると、結構いいアイディアなのかもしれない。僕の勉強しなければいけないことが一つ増えてしまった。

 

 そう言えばアラン教授は、神崎さんを僕のガールフレンドだと言っていた。僕にはそうだという自覚はないが、そうであって欲しいと思う。

 まだ(仮)の状態ですら無い。

 

 客観的には、僕と神崎さんの関係はそう見えるのだろうか。

 

 そうこうするうち、神崎さんの提案した超伝導に関するM1主体の輪講の日が来た。出席希望者が続出し十五名にもなってしまった。研究室のゼミ室では納まる人数でなく、教室を借りることになった。高温超伝導は研究者も多い分野でもあるが、この人数は神崎さんの人徳によるものだと思う。時間になり、神崎さんが黒板の前にたった。無意識なのか、手のひらにチョークをコロコロさせている。

「では、時間ですから始めます。集まってもらってありがとうございます」

「聖女様、かたいよー」

 緒方さんのツッコミに神崎さんはにっこり笑って話を続けた。

「私としては、気楽にやりたいと思いますので、何か質問、意見、間違いの指摘などは、話のと中でかまわず入れてください」

 

 実際には途中でツッコミは入らず、神崎さんは黒板に式をガンガン書きながら話を進めていく。多くの出席者はメモをとるのに夢中で、疑問を挟む余地がない。多分神崎さんはそこに気づいていない。

 

 五時四十五分、時計を見ていた緒方さんが声を掛けた。

「聖女様、スットップ。時間だよ」

 さすがは古い友だちで、話の途中でもズバッと止められた。僕なら遠慮して、きりの良いところまで待ってしまうだろう。神崎さんは教室を見回して、

「では、なにかご質問は」

と言うが、みな黙っている。まだみんな話の内容を頭の中で復習しているところだろう。助け舟を出すつもりで僕は挙手した。

「神崎さんのお話では、高温超伝導体での超伝導発現機構に、格子振動が関連していないというお話でしたが、実験的な根拠はどうなんでしょうか」

 実のところ僕はその答えは知っていたが、初心者には神崎さんの説明ではやや難しいと感じたのだ。

「古典的超伝導では、原子を同位体に置換すると、原子の質量の半分の二分の一乗に反比例することが実験的に知られていますが、高温超伝導体ではそれが観測されていません。参照論文の……」

 神崎さんが丁寧に説明を始めた。僕の意図は伝わったようだ。

「同位体効果はですね、式的には……」

 神崎さんが黒板で説明を始めようとしたら、池田研M2の関根さんが止めた。

「神崎さん、それは池田研の四年生にやってもらたほうがいいよ。笠井くん、本田くん、来週までに二人で調べておいてよ」

 関根さんは続ける。

「あと、高温超伝導体の同位体効果は、二千四年のネイチャーに面白い論文がでているはずだよ。こっちは実験のM1のひとが調べてみるといいんじゃないかな」

「私、調べます」

 緒方さんが立候補した。

 

 輪講が終わり廊下に出たところで関根さんに話しかけられた。

「唐沢くん、神崎さんとはあうんの呼吸だね」

 僕は顔が熱くなった。

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