第85話 捺印
目が覚めると横に杏がいた。幸せである。昨日杏に渡し忘れたものがあるので、カバンを探る。その物音に杏が目覚めたらしい。
「修二くん、おはよ。何してるの?」
「昨日渡し忘れたものがあってね」
「え、何?」
「指輪とかじゃないよ。これ」
僕は札幌の家の鍵を渡した。
「どうして?」
「あのさ、雪が多いときとか、杏の家遠いじゃん。僕の家に寄って待っててくれれば送ってくよ」
「それだけ?」
「あと、引っ越しの手伝いとかしてくれると嬉しいな」
「それだけ?」
杏は僕の横に昨日のようにピッタリ座ってきた。
「本当にそれだけ?」
「いや、本当はちょっとでも一緒にいたいというか……」
杏が首筋にだきついてきた。
杏の小さな声が耳元に聞こえる。
「わたしも、一緒にいたい」
ホテルの朝食は食べそこねた。
お腹が空いたので早めにチェックアウトし、遅い朝食のため車でファミレスを探す。
「やっぱり茨城に来たら納豆食べなきゃね」
などと杏が言うので、
「悪いけどもうモーニング終わると思う」
と言っておく。
「そっか~」
と杏が残念そうなので、
「ホットケーキ食べ行こうよ」
と言ってみたら、
「朝から?」
と返された。
「甘いもの食べといたほうがいいんじゃない、体力的に」
「もう、修二くんのエッチ」
というわけで朝食はホットケーキになった。
ホットケーキを注文したら、杏がカバンからプリントを取り出した。
「修二くん、私、ここがいいと思う」
見れば不動産情報のプリントアウトで、僕もネットで見てはいた物件だった。ぱっと見可愛い建物だったので敬遠していた。
「ここさ、SHELにも近いし、そもそも安いよ」
そう言われてプリントをしっかり読む。
たしかに近いし、家賃も安い。二階建てアパートの二階だが、玄関は一階、玄関内の階段下に収納がある。十畳のLDKの他に六畳間と四畳半がある。
「部屋、二つもいるかな?」
「あのさ、子供できたら子供部屋にもなるんじゃない?」
「僕たちまだ、結婚してないんですけど」
「いずれするでしょ」
「するけどさ、博士取るまでは子供無理でしょ」
「まあ、できちゃうこともありうるし」
「そうだけどね」
「だいたいさ、わざわざ部屋少なくして家賃高くなってもしょうがないじゃない」
「そうだね。物置にでもしておけばいいか」
「そうだよ」
早速不動産屋に行き、内覧させてもらう。スーパーも近くにあるし、ここにした。
ベランダから見る青空は、僕の心を晴れ晴れとさせてくれた。雪国の札幌ではこうはいかないだろう。
一部屋多い物件にしたことで、後日そこを榊原先生に占拠されることになるとは予想できなかった。
契約を済ませた後、僕たちはまたファミレスに来ていた。杏の乗るフェリーは午後七時すぎ発だが、車を載せるので五時までに乗船手続きを終えていなければならない。大洗までの移動時間を考えると、そんなに呑気にしていられなかった。僕は大洗まで見送りに行きたいどころか一緒に北海道へ帰りたいのだが、車無しの東海村は不便極まりなく、四時前に自転車の置いてあるSHELユーザーズオフィスで別行動にうつる予定にしていた。
「修二くん、鍵もらったからさ、さっそくお掃除とかしとくね」
「いや、いいよ」
「したいの」
「うん、おねがい」
「でさ、修二くんさ、札幌に着替えとか置いときなよ。私持っててあげる」
この話題は、札幌から何回か繰り返されている。
「持ってたいんでしょ」
「そうだけど、そのほうが移動のとき荷物少なくて便利じゃん」
「まあそうだけど、杏の部屋入れないじゃん。明のとこにでも置かせてもらうよ」
「前もそんなこと言ってたよね。明くんち地下鉄だよ。遠いよ」
「そうだけどさ、結局杏の家入れないんじゃ、わざわざ杏にもってきてもらわなきゃいけないじゃん」
「別に私はいいけど」
「だけどさぁ」
「もういい、修二くん、私の部屋入れるようにすればいいんでしょ」
「そうだけどね」
「じゃあ、私修二くんの荷物あずかる」
「なんか意地になってない?」
「なってない」
完全に意地になっているので、僕は杏が今住んでいる女性専用の家を出て、部屋を借り換えるのかと思っていた。
東海村の出張が終わり、大学へは行かず札幌の家に直行すると、玄関をあがったところにシマエナガのぬいぐるみが待っていた。杏が買っておいてくれたのだろう。視線をあげればそこに杏がいた。
「おかえり、修二くん」
「うん、ただいま」
「ご飯にする、お風呂にする? それとも……」
「言いたかっただけでしょ?」
僕はそうは言ったが三番目を選択した。
落ち着いたところで杏はカバンから書類を出してきた。婚姻届の用紙だ。ほとんど記入済みで、証人として明と緒方さんの署名と捺印まである。
「修二くんのご両親と、うちの両親の承諾は取った」
「あっそう」
「入籍しちゃえばさ、修二くんは私の親族だから堂々と私の家に入れるよ」
「そうだけどね」
「なに、なんか不満?」
「そうじゃないけどさ、証人はこの二人ね」
「うん、明くんなんかさ、『めでたい』とか言ってほんと喜んでくれたよ」
「それはそうだろうけどさ」
「のぞみはね、自分の入籍のときは証人になってくれって」
「まあ、それはよろこんで」
僕は一旦立って、ハンコを持ってきた。遅かれ早かれ杏とは結婚するつもりでいたのだが、おもわずつぶやいてしまった。
「いいのかなぁ」
入籍したくないと思われたらまずいので、ハンコはすぐに押した。
そのまま区役所に行かされた。
聖女様と物理学 スティーブ中元 @steve_nakamoto
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