第61話 バックアップ
僕は今夜も一人制御室に陣取り、実験の様子をモニターしていた。昨夜の実験でもデータが大荒れで終わってしまったが、午前3時過ぎに僕以外のユーザーがログインしている様子が見て取れた。僕はコンピュータに詳しいわけではなく、そのユーザーが何をしていたのかよくわからない。とりあえず、ログインしているユーザー名を表示するコマンドは調べておいた。
正直言って、そのユーザーに心あたりが無いわけではない。その人は物理が大好きで、一生懸命で、まっすぐで、本当に魅力的な人だ。なぜか大学に入ってから実験ができない謎の効果の影響下にある。それを心に病んで、大学を飛び出していってしまったことすらあるらしい。
もちろん今回の実験の中心人物だ。
僕はその心当たりはあるが、彼女の心情を考えると例の効果を実証する気にはとてもならない。むしろそんな効果なんて実在しないことを実証したい。そして一緒に研究をすすめていきたい。
念の為、僕は自分のノートパソコンを立ち上げ、実験制御用のコンピュータにログインした。制御用のコンピュータ側からは、ログインユーザー名や、走っているプロセスを調べる。さらに測定中のデータもチェックする。
測定中のデータは、順調に実験が進んでいることを示していた。
午前3時が近づいてきた。心臓の鼓動が速くなる。
3時になった。まだデータは荒れてこない。
今夜は大丈夫かもしれない。
3時12分。データが荒れだした。
プロセスを見る。昨日と同様、プロセスが増えている。
やっぱりそうなのか。
でも僕は、どうしてもログインユーザ名を表示するコマンドを打ち込むことができなかった。
明けない夜はない。夜が明けると榊原先生や新発田先生が出勤してくる。実験の状況を報告しなければいけない。その場では、神崎さんが深夜にログインして実験の様子をモニターしているせいで実験が失敗している可能性が高いと言わなければならない。
科学者として、僕はその事実から逃げるわけにはいかない。同時に科学者として、そんなわけのわからない「聖女効果」を認めなければならない。しかもそれは間違いなく神崎さんを傷つける。どうすれば実験のデータを救い出し、神崎さんも傷つけずにいられるか、徹夜明けのボケた頭でいいアイデアを思いつくこともできない。
僕の選んだ決断は、先延ばしだった。
とりあえず気づかなかったふりをして、実験を最後までやり遂げる。並行してデータ処理の方法を見つけ出してしまえば、あとはなんとかなる。大変に心苦しいが、しかたがなかった。
それからの東海村での滞在中、ルーティーンをこなしながら、データの処理方法を探った。専門家に話を聞くのが手っ取り早いだろうが、うかつに新発田先生に相談しようものなら、神崎さんの立場が危うい。だから比較的話がしやすい田口さんとか柏屋さんといった院生から情報を収集した。ただ、実験終盤線は実験装置やサンプルも含めて帰り支度もしなくてはならなくて、あまり自由に動き回ることができなかった。
やむを得ず、札幌に帰るのを一日伸ばすことにした。SHELで午後までがんばって、夜は実家に泊まることにした。そもそも出張の話を両親に話した時、一拍くらいはしろと強く言われていたのだ。
神崎さんに電話をいれる。
「もしもし」
神崎さんの弾んだ声が聞こえた。胸が痛くなる。
「神崎さん、おはよう。ごめん、今日、帰れなくなった」
数秒、無言の時間があった。
「なにかあったの?」
絞り出すような声が聞こえてくる。
「今回の実験、データが荒れてるでしょう。すこしこちらのスタッフと話がしたくて、僕だけ少しのこることになった。先生は講義もあるから、そうもいかなくてね」
「うん」
「あとね、東京の両親がね、どうしても家に顔を出せってうるさくてね。今夜東京に泊まって明日帰るよ」
「そっか、修二くん、夏も帰ってないもんね」
「そうなんだ。さすがに断りきれなくてさ。明日の午前の便で帰るよ」
「うんわかった。迎えに行く」
「ええ、いいよ。忙しいでしょ」
「いや、行く。とにかく行く。行くったら行く」
「ははははは、じゃ、お願いするよ。十一時に到着予定」
「了解」
実は実験中の雑談で、耳寄りな情報があった。田口さんによれば、SHELでは実験データを時間的に細かく区切ってバックアップしているとこのとだ。急な停電とか、システムの異常にそなえているらしい。ただ、あくまで緊急事態用のバックアップなので、通常はユーザーにはアクセスさせてくれないらしい。しかもデータ量が膨大なため、通常のデータバックアップだけを残し、細かいものはしばらくしたら消去されてしまうらしい。
SHELに居残った僕は、データセンターに掛け合い、なんとかそのバックアップデータの確保に成功した。
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